1906(明治39)年
11月21日
清国政府、阿片禁止規定を改正。ケシの作付けを10年間禁止。
11月22日
[露暦11月9日]ストルイピン農業改革法(農民の共同体離脱に関する勅令)公布。農民の共同体(ミール)離脱と土地私有化承認。ストルイピン改革開始。
農民上層に「解放された」土地を買い集めさせ、共同体の土地を収奪させ、新しい資本主義的農場主を創出。対極にプロレタリア化した農民と分与地にしがみつく貧窮農民。
11月23日
江原素六、根本正らが日本平和協会を設立
11月23日
啄木、盛岡中学校校友会雑誌に寄稿する評論「淋中書」を書きはじめ、12月3日脱稿する。
11月23日
イランの第1議会、英露共同借款否決。
11月23日
この日、有島武郎・壬生馬の兄弟は、スイスのシャフハウゼンを発ってチューリッヒ経由ミュンヘンに向かう。そこに数日滞在して、主に美術館を見、更にそこからニュールンベルグ、ドレスデン、ベルリンに行き、その次にオランダ、ベルギー、と西ヨーロッパの各地をめぐり、12月29日パリに着く。
そこでしばらく滞在することになった壬生馬と別れて、武郎は翌年(明治40年)1月17日、ロンドンに向う。イギリスを経て日本へ帰ることにした。この新しい年に、武郎は数え年30歳、壬生馬は26歳になった。
11月25日
中国の潮汕鉄道開通。
11月25日
大杉栄訳「新兵諸君に与ふ」(「光」)、発禁。
28日、朝憲紊乱罪で編集発行人山口義三、起訴。
「(平民社)社員の人選も追々決定し、十一月二十五日発行の『光』第二十八号は、
森近運平、斎藤兼次郎、椎橋重吉、村田四郎、神崎順一、矢木鍵次郎、吉川守邦 (以上、営業部)
赤羽一(巌穴)、深尾韶、山口義三(孤剣)、山川均、岡千代彦、原真一郎(霞外)、荒畑勝三(寒村) (以上、編集部)
の決定を発表している。その後、新聞発行までには営業部に宇都宮卓爾、編集部に徳永保之助、岡野辰之助(以上校正係)、百瀬晋(給仕)が加えられた。編集部に小川芋銭画伯が加わって居ることは、週刊『平民新聞』以来の伝統であって、平福吉穂画伯の挿絵とともに当時、他の新聞には真似のできぬ誇りであった。勿論、芋銭画伯は依然、茨城県の牛久に住んでいて、出社した訳ではない。週刊『平民新聞』の編集が記者四名、寄書家十四名を算したに過ぎなかったのに、今や二十四名の社員、約三十人の活版印刷部員の外、六十余名の特約寄稿家を算うるに至ったのである。盛んなりと言わざるぺけんやだ。おもなる寄稿家の連名、左の通り。
田添鉄二、安部磯雄、伊藤銀月、片山潜、薄田斬雲、大杉栄、城柳秀湖、花井卓蔵、大石誠之助(禄革)、田川大吉郎、上司小剣、高島米峰、杉村広太郎(縦横)、今村力三郎、佐治実然、山路愛山、向軍治、田岡嶺雲、中島孤島、加島汀月、松本君平、内村達三郎、白石喜之助、奥宮健之、佐藤秋蘋、久津見蕨村、小島竜太郎、岩崎革也、柏木義円、伊藤仁太郎、島中翠湖、青池晃太郎、住谷天来、大塚甲山、中里介山、豊田孤寒、福田英子、今井歌子、岸上克己、石巻良夫、久田二葉、金子喜一、金子ジョセフィン、フライシュマン、A・ジョンソン、竹久夢二、毛利柴庵、加藤咄堂。」(荒畑『続平民社時代』)
11月26日
南満州鉄道会社設立(6月8日勅令公布)。11月13日、後藤新平を初代総裁に任命。本社東京。資本金2億円。1907年3月5日、本社を大連に。同年4月1日、大連~孟家屯間、安東~奉天間など開業。
ロシアから譲渡された長春(寛城子)~旅順間の東清鉄道と支線の経営。他に、鉱業(撫順・煙台炭鉱採掘)・水運業・電気業・倉庫業など付帯事業。更に、用地内での行政・徴税権ももつ。後藤新平は、満鉄総裁に関東都督府顧問を兼任させ行政を一元化する条件で総裁就任を引受ける。
都督府・満鉄・領事館による三頭政治。
副総裁中村是公(台湾財務局長兼事務局長)、理事久保田政周(栃木県知事)、清野長太郎(秋田県知事)、国沢新兵衛(鉄道省技師)、岡松参太郎(36、京大教授)、田中清次郎(35、三井物産長崎支店長)、犬塚信太郎(33、同門司支店長)。
後藤の手腕:
①人事:関東都督民政長官石塚英蔵(のち枢密顧問)を更迭、満鉄副総裁中村是公を一旦満鉄から退社させ民政長官に就任させる(更に、中村を満鉄副総裁事務取扱に任命、実質兼任)。警務総長を更迭、満鉄理事久保田政周を任命。
②「旅順解放論」:都督府にある旅順を軍都から学都・商都に変える。
11月26日
清朝、中央官制改革。全国に36師団の陸軍(新軍)を設置
11月30日
清国、アヘン禁止章程10条頒布。
11月30日
(漱石)
「十一月三十日(金)、講義ノート切れたので、今年分を少し書くつもりである。久内清孝(横浜市根岸町、現・横浜市中区根岸町)からセイロン紅茶一缶を贈られ礼状を出す。
紅茶の礼を述べ浜武元次と同じ宿所なので、友人か否かを聞き合せて『吾輩は猫である』中篇を送る。」(荒正人、前掲書)
11月30日
シベリウス「ヴァイオリン協奏曲」、米で初演。
11月下旬
「十一月下旬(日不詳)、大阪朝日新聞社の鳥居赫雄(素川)、『草枕』を読んで感心し、旧友中村不折を通じて、新年の随筆を依頼してくる。
この依頼をした段階では、鳥居赫堆(素川)が漱石を『大阪朝日新聞』に招聘したいという希望が十分に熟していたかどうかは、断定し難い。」(荒正人、前掲書)
明治39年12月初め、「読売新聞」が漱石を定期執筆者に迎えようと骨を折っていた頃、「大阪朝日新聞」の主筆をしていた鳥居素川から、随筆を依頼する手紙が、画家の中村不折の手を経て漱石の所へ届いた。中村不折は正岡子規の友人として漱石とも交際があった。鳥居素川は名を赫雄と言い、熊本の人である。三山池辺吉太郎が明治29年に、前任者高橋健三の推薦で「大阪朝日」の主筆となって後、池辺が郷里熊本出身の俊才としてその翌年の末頃に鳥居を招いたのであった。鳥居は独逸協会学校に学び、かつ漢学にも素養があり、筆力旺盛で、特に諷刺比喩の才能があり、辛妹な政治批評では並ぶもののない名手であった。郷里熊本の済々學に在学時代の鳥居は有名な乱暴者であった。独逸協会学校を経て、明治24年上海の日清貿易研究所に入ったが、病んで帰ってから池辺三山の「経世評論」に執筆し、かつ日清戦争には「日本」の記者としての正岡子規とともに従軍した。激情家で奇癖の持ち主であったが、三山はその人物を愛して、彼が「東京朝日」に移って後、素川を「大阪朝日」の主筆に推薦したのである。
鳥居素川は漱石の「草枕」を「新小説」で読んで、その才筆に感歎し、原稿依頼をしたのであった。その依頼は実を結ばなかったが、以後彼は漱石の作物を更に読みあさり、社主の村山龍平にも読ませ、池辺三山とも打ち合せて、漱石を「大阪朝日」に迎える案を立てた。
明治40年2月、朝日新聞社側の案は熟し、漱石を「東京朝日」に迎えることにして交渉することとなった。(日本文壇史より)
鳥居素川(赫雄):
池辺三山と同じ熊本出身(三山の号が熊本郊外の三つの峰にちなむと同様、素川は市内を流れる白川からとった)。異母兄が西南戦争時、三山の父池辺吉十郎を隊長とする熊本西郷隊の小隊長として官軍と戦い、戦死している。上京してドイツ語を学び、陸掲南の新聞「日本」に入り、日清戦争時は従軍記者として活躍。同僚に正岡子規がいた。同郷の三山のひきで、大阪朝日に入社、ドイツ留学を経て頭角を現し、論説記者として大朝の中核になっている。
素川は、新聞小説は時代精神を踏まえた文芸でなければいけいとの信念を持ち、ドレフュス事件でのゾラの活動に共鳴し、ゴーリキーの「どん底」をドイツ語から重訳して大朝に載せたりする、進歩的な考えの持ち主だった。
つづく
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