2025年11月16日日曜日

大杉栄とその時代年表(680) 1906(明治39)年9月9日~11日 「諸君よ、僕は断然政党運動を脱退したる也。是れ僕が政党運動を不必要となすが為に非ず、政党運動を以て愚挙となすが為めにも非ずして、僕自身の性格が到底政党運動に不適当なるを知りたると、政党運動以外に於て僕の専ら力を致すべき事業あることを確信するに至りたるとの為に外ならず。既往数年間僕は二途にも三途にも迷ひ来れり。今ま始めて自らの位置と職分とを覚ることを得たり。故に今敢て絶つべからざるの旧交厚誼に背き、明白に諸君を離れて孤立独住の寂寞を甘んずる也。」(木下尚江「旧友諸君に告ぐ」)

 

木下尚江

大杉栄とその時代年表(679) 1906(明治39)年9月1日~5日 9月5日 諸団体連合東京市電値上反対市民大会。本郷座。議長芳野世経の阻止を振切り、社会党森近運平が11日から3日間の「断然電車に乗らざるを約す」動議。満場の拍手で、ボイコット(「乗らぬ同盟」)可決。~7日迄、暴動。電車破損54・負傷58。検挙98人。 より続く

1906(明治39)年

9月9日

木下尚江、田中正造の鉱毒事件の運動の応援に石川三四郎と出かける。

この頃、渡良瀬川事件はいよいよ末期的な状態に追い込まれていた。渡良瀬川に流れる足尾銅山の鉱毒問題を解決する方針として、政府は渡良瀬川と思川の合流点の窪地に当る谷中村を買い上げ、そこに貯水池を設けることとした。そして、立ち退きに応じない住民の生活を不可能にするために、隣接の赤麻沼に面する堤防が壊れたのを修理することを禁じ、谷中村を窮地に追い込んだ。村民はその堤防を自力で修理したが、官憲はそれを取り壊そうとしていた。谷中村が犠牲になれば、附近の他町村は鉱毒の水害から安全になるので、同じ鉱毒に悩む他の町村もこのときは谷中村を助けようとしなかった。

田中正造は、この村を救うことにその努力を集中し、明治37年7月からこの村に住んで政府、県当局、古河方に抵抗していた。

木下は社会主義運動に絶望しかけていたが、田中正造の現実的な運動に対しては深い関心を持っていた。田中は何度か入獄をくり返しているうちに、獄中で聖書を読み、自己流のクリスチャンになっていた。

このとき演説会は、栃木県佐野町で開かれた。田中は、谷中村と赤麻沼の間の堤防を論じ、聴衆は熱狂して盛んな拍手が起った。しかしそのあとで現実にその谷中村を見に行く志願者をつのった時、一人も応ずるものかなかった。田中の次に演説することになっていた木下は、それを知って、憤懣に耐えなかった。

彼は喋り出し大声で聴衆を罵倒した。

「あなた方は一体何を見に来たのだ。わが田中正造は、口稼ぎの大道芸人ではないぞ。あなた方は同郷の偉人を見殺しにしておいて、手ばかり叩く軽薄漢!」

そう言って彼は演壇を下り宿に帰ってしまった。聴衆は、木下が酔っぱらっていると言って非難した。

翌日、石川三四郎と木下尚江は田中正造に連れられて、佐野町から1里ばかりの、田中の故郷小中へ行き、その生家を見た。尚江が社会党にあきたらなかったところは、ただ爆発的に騒いだり、実行の伴わぬ革命理論を口にしているばかりで、渡良瀬川事件のような現実問題には積極的な援助の手を差しのぺないことにもあった。

9月9日

奥宮健之・小林樟雄ら、労働党結成

夜、両国館で「労働党創立兼電車値上反対演説会」を開催。

労働党は、3月31日に鉄道国有法が公布され、日本鉄道株式会社が国有に帰した際、労働者がその割当金にかんして不満をもち紛擾をおこしたのを支援するために、奥宮健之、岩本新吾、石井保男等が結成した。「我党ハ天賦人権ヲ全スルヲ以テ主義トスル」とし、自由党左派の系譜に立つものであった。

9月9日

幸徳秋水、郷里より戻り、20日、大久保村百人町に居を定める。

9月10

満鉄株募集開始。10月5日募集締め切り。約1,078倍の応募(盛況)。

9月10

夜、社会党員15人、5方面からチラシを配り日比谷公園に集合。

9月10

戸川秋骨(35)、横浜港から出航、古画商の通訳としてアメリカに向かい、ヨーロッパ漫遊ののち、40年1月23日横浜港に帰着。

9月10

(漱石)

「九月十日(月)、高浜虚子宛手紙に「拝啓来る二十六日の能に御招き被下難有奉深謝候西洋人〔モリス〕も定めてよろこぶ事と存候尤も通辨を仕るのは少々閉口に候。」と書く。(書簡にあらわれた能楽に関する最初のもの)『中央公論』の瀧田哲太郎(樗陰)宛手紙に、『二百十日』脱稿伝える。

九月十日(月)前後、大学病院でエイの看護をしている鏡の許に、実家(麹町区中六番町五十七番地、現・千代田区三番町)から中根垂一病気の知らせがある。鏡、実家に帰り泊り切りで一週間ほど看護する。

九月十日(月)、高浜虚子宛手紙には「妻のおやぢが腎臓炎から脳を冒かされたとか何とか申す由」と伝える。」(荒正人、前掲書)

9月11

社会党、ボイコット大会が中止され、第2回市民大会に出席。錦旗館。大会事務局、前回大会のボイコット決議を無視し、社会党(森近)発言を不許可。社会党退場。ボイコット宣伝のかどで荒畑寒村、安成貞雄、堺婦人ら5名検挙。1夜留置。社会党ビラ「貧富の戦争」署名人山口孤剣起訴。

9月11

木下尚江(数え38歳)、社会主義を捨て秋水・堺と決別

佐野町から帰った翌日の9月11日、木下尚江は麹町元園町の堺家を訪ねた。秋水が7日に上京して、まだ堺家に同居していた時であった。その2人に向って木下は、社会主義運動から離脱する旨を伝えた。


9月13日、木下尚江は「旧友諸君に告ぐ」という訣別の辞を書いた。

「諸君よ、僕は断然政党運動を脱退したる也。是れ僕が政党運動を不必要となすが為に非ず、政党運動を以て愚挙となすが為めにも非ずして、僕自身の性格が到底政党運動に不適当なるを知りたると、政党運動以外に於て僕の専ら力を致すべき事業あることを確信するに至りたるとの為に外ならず。既往数年間僕は二途にも三途にも迷ひ来れり。今ま始めて自らの位置と職分とを覚ることを得たり。故に今敢て絶つべからざるの旧交厚誼に背き、明白に諸君を離れて孤立独住の寂寞を甘んずる也。」


■「平民新聞」に拠る活動

木下尚江は明治34年5月、片山、堺、幸徳等と社会民主党を結成。それは届出るとすぐ禁止になったが、以後彼は社会主義者として行動。

彼は「毎日新聞」に席を置くかたわら、明治36年~38年、週刊「平民新聞」の主要な一員として、積極的に働いた。

彼は非戦論を擁護し、徴兵制の残酷さを指摘し、忠君愛国思想の空虚さを批判し、国家至上主義を嘲笑する論説を書きつづけた。日露開戦後の間もない明治37年3月、彼は、戦時の国庫債券募集の不成績を暴露して発行禁止を食った「二六新報」を擁護する文章を「毎日」に載せた。

「或は妻を離別して出陣せるものあり。或は子を殺して出陣せんとしたるものあり。而して堂々たる新聞記者筆を揃へて讃称して曰く義士なり勇者なりと。是れ不倫を煽揚するものなり。・・略・・然れ共世を挙つて謳ふて曰く『忠君愛国』、吾人は如何ばかり多大の割引をなすも、是等を目して重厚なる愛国心と言ふこと能はざるなり。・・・略・・・軍国時代の故を以て吾人新聞記者は言論の自由、其七分以上を失へり。此時に当つて甘言は理非曲直を問はずして喝采せられ、苦言は善悪邪正を問はずして排斥せらる」

この文章のために、掲載した3月25日の「毎日新聞」は発売禁止になり、発行人と木下尚江とは起訴された。罰金20円。

一方「平民新聞」の記事によって、堺、西川、幸徳等が起訴されると、弁護士の資格を持つ木下尚江は法廷でその弁護に当り、平民社にとっての最も強い楯となった。


■小説「火の柱」

木下は「毎日新聞」が徳富蘆花に小説を頼もうとして成らなかったとき、自ら買って出て明治37年元旦から小説「火の柱」を連載した。(~3月20日)。

この小説は、木下自身をモデルにしたとすぐ分るような、キリスト教社会主義者で非戦運動の闘士、篠田長二を主人公とするもの。「平民週報」という名で、「平民新聞」が活躍の舞台とされ、その談話室を中心に活躍する人々は、幸徳、堺、石川、西川その他の人をモデルにしたもの。この小説の中には、反戦運動をしているロシアの社会民主党員からの手紙が着く場面があるが、それは週刊「平民新聞」において事実となって現われた。

開戦後の3月13日発行「平民新聞」第18号に、公開状「与露国社会覚書」が掲げられ、次号にはその英訳が載せられた。その文章は欧米の社会党系の新聞に転載されている間に、ロシアの社会民主党の目にとまり、その機関誌「イスクラ」は、それに答える公開状を載せ、それは7月24日の「平民新聞」第37号に訳載された。

「火の桂」の最後の場面では、篠田の書いた反戦主義の原稿が探偵の手に入り、そのため日露の国交断絶の日に篠田が逮捕されることになっていた。


■小説「良人(りようじん)の自白(じはく)」

その5ヶ月後、明治37年8月15日から、木下尚江は第二の小説「良人(りようじん)の自白(じはく)」を「毎日新聞」に連載。前篇は11月10日まで、中篇は翌明治38年4月1日~6月3日、後篇はその年7月1日~10月16日まで掲載。

「火の柱」は全く素人であった彼によって書かれた反戦主義そのものの小説であったが、「良人の自白」は社会小説でありながら、恋愛小説の観をも呈していた。

作品は、東大法科を卒業したばかりの主人公白井俊三が家族制度の絆に縛られて、気に入らぬ結婚生活に入る話からはじまり、無実の罪を着て入獄し、そこで子供を産む下層の女お玉、小作争議の指導者である、俊三の幼友達の野間与三郎、主人公俊三の堕落、人妻との姦通と彼女の自殺、俊三の離婚、芸者への耽溺、自暴自棄の俊三が自分を尊敬するお玉にまで手を出そうとすること等、多くの事件が続く。後篇途中から、俊三は恋人松野を追ってアメリカに渡り、社会主義大会に出席する消息が出、やがてロシアに渡るが、そこで暴漢に撃たれて死ぬ。その消息が郷里の人々の間に伝えられる。そして最後には下層社会出身のお玉と与三郎との将来に希望がかけられているところで、この小説は終る。

「良人の自白」は社会悪を摘発した小説であったが、同時に、俊三という知識階級人の異性関係における腐敗、自棄、執着の連続とも言うべきものが作品の主脈をなしている。この小説は、男性の告発であり、木下の過去の異性関係をフィクションの中で自ら暴いた自己告発の小説である。


■キリスト教

木下は明治28年、廃娼運動をしていたとき、諏訪で1人の娼妓を知り、その女を救おうとしているうちに、その女と通じたことがあった。また彼は妾を囲っていなから、廃娼運動の演説をしていた。ある演説会で、彼は、聴衆から偽善者と罵られたことがあった。彼は自己の人格的矛盾に悩むことが多く、絶えず自分自身を責め苛んでいた。「良人の自白」は、そういう内的な彼自身の心の露頭の描出であり、それを書いて以後、彼は心の問題から目をそらすことができなくなった。正しき恋愛によらざる結婚と男女関係とは、すべて神の目からすれば罪悪だという考えを彼は棄てることができなかった。

木下は22歳の頃からキリスト教の影響を受け、24歳のとき、北村透谷の「厭世詩家と女性」を読んで「恋愛は人生の秘鑰(ひやく)なり、恋愛ありて後人生あり」という言葉に接し、「まさに大砲をぶちこまれた様な」感銘を受けた。にもかかわらず彼の蹉跌はその後、社会運動家としての彼の地位が高まるにつれて数を重ねるに至った。同時にその反省が常にキリスト教に縛りつけていた。


■キリスト教と社会主義思想の葛藤

明治34年4月、社会民主党が結成され、1日にして禁止された少し後、木下と幸徳・片山が横須賀へ演説に行った。その汽車の中で幸徳が木下に言った。

「木下、君、どうぞ神を捨てて呉れ。君が神を棄ててさえ呉れれば、僕は甘んじて君の靴のひもを解く」

木下は返事をためらった。そのとき、キリスト教から完全に脱却できないでいた片山潜が、木下を助けるように笑を浮かべて言った。

「幸徳きん、君が神様に征服されないように用心したまえ」

幸徳は重ねて、

「必ず君に捨てさせる。必ず捨てさせて見せる」

と言った。

木下は時々、自分が本当の社会主義者ではないと思うことがあった。第1回非戦論演説会の日、片山潜が、働く者、労働経験のある者のみが社会正義を主張し得ると言い、「諸君、手を出せ」と叫んだ。傍で聞いていた木下は、自分の手は白い、遊民の手であると思い、自分は社会主義者ではない、自分は「ただ社会主義を利用したのだ。社会主義の理論を借り、同志を利用したにすぎない」という自責の念に駆られた。

また幸徳がアメリカへ去り、「新紀元」が創刊された明治38年暮に神田三崎町の森近運平のミルクホール平民舎2階で同志の者の会があったとき、話題は我々の将来という問題になった。そのとき木下は、「人格という事に注意せねばならぬと思うがどうだろう」と言った。同志たちはそれに反感を覚えた。人格論は個人主義者の言うことである、人格は貴族富豪の代名詞で、それは労働者にとっては仇敵だ、という言葉が彼に投げつけられた。散会後、彼は追放されたような気持ちでそこを去った。


■キリスト教社会主義

日露戦争が終りに近づき、平民社の運動が非戦論から別個の領域に移行しようとしたとき、幸徳はカによる革命を考えはじめ、木下は前に戻って良心の問題に直面していた。

明治38年9月、平民社解散が決定したとき、沈黙していた木下が旭山石川三四郎に言った。

「旭山、大いにやれよ!」

「やれと言うた所で、何をやるのかね、下宿屋でもやろうか」と石川がふざけて言った。

「いや、そうじゃない。雑誌を発行しないか、クリスチャン・ソシアリズムのを」と木下が言った。

キリスト教をもっと研究したいと考えていた石川は、その言葉に啓示を得て「新紀元」創刊を企てた。キリスト教社会主義という名目に良心を託す人々によって「新紀元」は始められた。新紀元社は石川を責任者とし、木下と安部磯雄を指導者としていた。新宿駅の西側にある石川三四郎の家で、藁家(わらや)の6畳、3畳、2畳という小さなものであった。そこで毎週1回日曜説教を行い、隔週に聖書研究会を開いた。そして毎月1回、社員と社友の晩餐会を開いた。集まる青年たちは、赤羽巌穴、逸見斧吉、小野有香、横田兵馬等の10名ばかり。木下と石川は彼等の思想に最も近い人として、徳富蘆花と内村鑑三の協力を願い、蘆花は「黒潮」の続編を執筆することになったが、それは中絶され、蘆花は榛名山に籠ってしまった。その縁により蘆花の弟子、前田河広一郎が石川の助手として同居していた。

「新紀元」創刊の明治38年の末頃、木下は、凱旋した兵士たちに参政権を与うべきであるとの趣旨で普選論を掲げた。しかし彼は、兵士たちが戦場において自己の立場に目覚めるどころか、逆に盲目になり、愚物になって帰り、天皇神聖論と戦勝気分の中に眠り込んでしまうのに気がついた。

つづく

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