明治7年(1874)6月14日
・朝鮮に滞在の森山茂、3回目の交渉。好転の兆し。
21日、寺島外務卿宛に報告。日本の征韓論や台湾出兵は清国を通して知られていて、日本の出方が注目されている。
森山は、5ヶ月以内に、外務卿寺島宗則と外務大丞宗重正(元対馬藩主)の書契を持参、朝鮮政府の礼曹判書に提出し交渉の事前協議に入る旨通告し帰国。
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6月15日
・植木枝盛(18)の部落差別を非難する枝盛の投書を掲載(「高知新聞」)。
活字になった枝盛の文章の初見。
「高知新聞」は明治6年7月30日に民立共立社から発刊される。帰郷後は新聞縦覧場で新聞を読んでいたが、この年4月13日から枝盛の自家で購読するようになる。
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6月18日
・イギリス公使パークス、寺島外務卿に各国公使に公告なしの台湾出兵を難詰。
大兵を他国領土に送るにあたって各国公使に公告する以前に、軍隊が「私に」出動したのは文明国にあるまじきことだ、日本が万国公法を犯しているのは明らかだ、清への場合は例外としても他国へ3千もの大軍を送れば必ず戦争になる、日本が清に向かってそのようなことをしたからには他国が日本に向かって同様なことをしても文句はいえないだろう、もし他国が北海道に3千の軍隊を上陸させたら日本はどうするつもりか・・・。脅迫すれすれの威嚇的な言辞。
さらに、パークスは、清国総署大臣から外務卿あての照会に回答したのかと日本側の落ち度を突いてくる。寺島は未だ回答していないと日本側の怠慢を告白。
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6月18日
・大隈蕃地事務局長官、蕃地事務局准2等出仕リゼンドルと連署で台湾出兵の法理的根拠をボアソナアドに諮問。
24日、大久保利通、ボアソナアドを知る。
25日、ボアソナアド、大隈へ意見書。
出兵がもたらす戦争への危険性警告。大久保は、その後何度もボアソナアドに会い、その万国公法理論が重要・有効と認め、北京への随行を決める。
ボワソナアドの回答。
①「蕃地」が無主地であることを論証するためにリゼンドルが挙げた歴史的・地理的根拠は正当であり、清国は領有の「権」を主張できない。
②しかし、清国が領有を断念したとの証拠もない。
③他国が「蕃地」を征服しようとすれば、清国には「自国安堵」のために他国の行為を.「妨制」する「利」がある。
ポワソナアドは、リゼンドルの顔をたてながらも、たとえ「蕃地」無主地論が成立するとしても清国が自国の安全保障を理由に武力干渉に訴えることは国際的に承認されると指摘。
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6月22日
・榎本武揚・ロシア外務省アジア局長ストレモーホフ会談
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6月23日
・屯田兵制度設置
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6月24日
・清国皇帝、日本の出兵は修交条規違反、即時撤退を要求するよう、もし従わない場合は罪を明示して討伐するよう閩浙総督李鶴年らに勅命。
しかし、皇帝が沿海各地の総督・巡撫・将軍らに戦備と勝算を「諮問」したところ、台湾防備関係者以外はみな戦備不十分だから勝算なしとの悲観論を上奏。
清軍の装備は貧弱で士気も低く、軍1万を台湾に派遣するがマラリアに苦しむ日本軍3千に対しても何も手出しせず。
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6月24日
・台湾から帰着の谷干城、原住民平定近いと報告。
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6月27日
・第1回三田演説会開催。会員は福澤諭吉ら14人。
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6月27日
・クワハディーコマンチ族の若者クワナ・パーカー、コマンチ族・カイオワ族南部シャイアン族連合軍を率いテキサスの白人交易所アドービ・ウォールズを襲撃。合衆国軍の徹底した報復戦に降伏。
「1875年6月2日」条約でインディアン専用地とされたバッファローの住む地域に白人猟師が侵入した事から始まったにもかかわらず、戦士の多くはフロリダ刑務所に収監、残った部族の者はオクラホマの居留地へ戻される。
合衆国政府は、ジョージ・カスターら各将軍に北部平原インディアンを狩り集め同じ様にインディアン準州(オクラホマ)へ送るように命令。
シッティング・ブルとクレージー・ホースは、残っていたインディアンを集めて連合軍を組織。
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7月
・銀座煉瓦街、完成。
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・ロシアんのアレクサンドル3世、ブラッセルに欧州15国とトルコ代表招集。俘虜待遇含む戦争法理。ブラッセル宣言、米不参加、英反対
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7月5日
・台湾問題に関する閣議。
閣議に備えて、リゼンドルが①「番地」領有、②償金と引換えに台湾を返還、の2つの選択肢を示し、幕引き方法に償金説が浮上。大勢がこれに傾きだす。
清国総署大臣が日本外務卿に宛てて抗議的照会を発し、清国皇帝が遠征日本軍討伐を勅命したので、台湾一件は日清国交問題の様相を帯びるに至る。
日本の世論も、「蕃地」平定が済んだ以上は速やかに撤兵すべきとの意見、この機会に清国本土に進出せよとの意見などに分裂。
政府内の意見も様々で、大久保日記によれば、大久保は終始「断然の御確定」(7月3日)と基本方針の確定を主張するが、「議論分立につき、(三条が)別して御心配」(4日)、「蕃地事件御評議これあり、すこぶる紛論なり」(5日)と、連日の閣議にもかかわらず意見は不一致のまま。
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7月8日
・三条太政大臣、陸軍卿山県に命じ台湾問題を陸軍将官の見解を問わせる。この日の閣議で報告。
山県有朋、津田出、山田顕義、三浦梧楼、井田譲、曾我祐準各少将は開戦に消極的。
野津鎮雄・種田政明2少将のみ戦備は不充分だが戦えなくはないと回答。
9日、暗黙のうちに償金説に立脚しながらも表面上は「やむをえず戦う」と決定。
「清国との商議は、両国の和親を保持するに力むるは勿論なりと雖も、もし彼より釁端(キンタン)を啓(ヒラ)かば、交戦已むを得ざるべし」。
日清両国共に、軍部は戦うことに腰が引けている。
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7月9日
・武市熊吉、岩倉具視暗殺未遂の罪で斬刑。
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7月12日
・外務省が管轄している琉球藩を内務省に移管。内国化を進める。
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7月13日
・大久保、渡清を内願。岩倉が反対(大久保の独断を危惧、不信)。三条も同調。
30日、大久保は渡清への側面支援を伊藤博文に要請。大久保渡清には大隈も反対。
8月、派遣決定。
30日付け大久保の伊藤博文(台湾出兵には消極的)宛て手紙。
自分の清国行き実現への側面協力を頼み、「即今廟堂上(政府内)の景況を以て・・・実以て慨歎泣血の至りに堪えず、ここに至り既往を論じ候ても、眼を開いて寝語(寝言)するも同然にて、丈夫の恥じるべきところ・・・」と、「既往」をあげつらわれることへの憤懣を露わにする。
「既往」は、「台湾蕃地処分要略」策定や長崎で出兵断行を裁定したことと推測できるが、台湾出兵に消極的だった伊藤に理解と同意を求めているところから見ると、大久保と伊藤が通じ合えた明治6年政変での「一の秘策」の共謀のこととも推測できる。
「廟堂上」で大久保に後ろ指が指されている「既往」は、明治6年政変の際の不明朗な行動で、政変の後遺症がなお大久保に重くのしかかっていたと解釈できる。
大隈も反対。
31日の大久保日記には、「同人(大隈)、中子(大久保)清国行きにつき異論これあり、当人辞職云々の事あり」とある。大久保が渡清するようなら大隈は辞職するというくらい大隈の反対は強硬。
同日記には、黒田や伊藤も「異論あり」の態度だったという。
大久保の不人気、大久保への不信感の強さ、根強さを示す。
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7月13日
・東京府、道路や車内での頬かぶり・手拭かぶり禁止。
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7月13日
・プロイセン、ビスマルク狙撃。軽傷、犯人桶屋職人懲役14年。
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7月16日
・外務省4等出仕田辺太一、清国派遣。柳原前光の援助。償金による解決訓令。
田辺が携行した訓令書は、「償金を得て攻取の地を譲与する」ことを「神速議決」すること。つまり、「フォルモサ島の一部を日本に併す」方針を根太的に転換して、金銭と引き換えに「蕃地」から手を引くことへと譲歩し、しかも大至急に取り決め上というわけである。
軍部が弱気で、おまけに病魔で進退きわまった西郷遠征軍という重荷を抱えている以上、これ以外の選択はない。
さらに、「這回(シヤカイ)の機会を以て琉球両属の淵源を絶ち、朝鮮自新(ジシン)の門戸を開くべし」と、台湾への野望を放棄する代わりに琉球の完全確保を狙い、ついでに朝鮮との関係打開の手掛かりを探ることも任務に加えられた。
また、リゼンドルを特例弁務使として福建省に派遣し、かれの人脈をたどって側面工作に当らせる。
しかし、9日閣議の開戦決意と「蕃地」有償放棄はワン・セットの筈であったが、柳原はこれを理解せず、強気の開戦決意に立脚した交渉を続け、意見の不一致はなかなか埋まらず。
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7月24日
・イギリス、ガーナのゴールド・コースト南部を植民地とする。
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7月25日
・小学校教員検定試験・教員免許状制度、初めて制定。
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7月28日
・台湾蕃地事務局長官大隈重信、閣議に「海外出師の議」を提出。
「今日戦議一決し、現兵急進海陸並び迫る、彼(清国)兵備未だ実せず、周章狼狽なす所を知らず、ついに彼より和を請い罪を謝するに至らん」
「今日不戦に決す、彼に在りては兵備ますます修め、他日大挙もって我に迫らば、勢い戦わざるを得ず、・・・しかして今日先んじて戦うと、他日先んじられて戦うと、その兵鋒の利鈍あにただ一と十とのみならんや」
「これ今日海外出師のこと急にせざるべからざる所以なり」と、早急に開戦に踏み切るようにと力説。
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7月28日
・政府、台湾征討で三菱に輸送業務を委託
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7月29日
・岩倉、大久保の清国使節への「切迫内願」に態度を軟化させ、大久保派遣の件を明日の閣議にかけようと約束。
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7月31日
・ロシアよりメノナイト教徒移民第1陣、ケベック到着。
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7月末
・親善大使としてスー族領域のブラックヒルズへ赴くジョージ・カスターと第7騎兵隊及び民間人5人(内2人は地質学者とベテラン金鉱堀)、金鉱を発見。
7月末、カスターは報告書に纏めるが、新聞社にスッパ抜かれた、スー族の「聖なる山」に金鉱堀が殺到。ララミー砦条約は一方的に無効にされる。
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「★明治年表インデックス」 をご参照下さい。
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2011年6月5日日曜日
中江兆民 その誕生~フランス留学から帰国まで
別途掲載中の「明治年表」の明治7年6月9日条に
中江兆民のフランス留学からの帰国
の項目があります
(コチラ)
中江兆民は土佐出身の自由民権家という枠には収まらない思想家、活動家で、幸徳秋水の師でもあります。
以下、松永昌三「評伝中江兆民」により、その誕生からフランス留学からの帰国までを纏めてみました。
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中江兆民:(松永昌三「評伝中江兆民」より)
弘化4年、土佐国高知城下に生まれる。誕生日は11月1日(1847年12月8日)、11月27日(1848年1月2日)の二説あり。
父は土佐藩足軽元助、母は同藩青木銀七の二女柳(明治25年1月没)。
曾祖父伝作は、明和3(1766)年11月、下2人扶持、切米4石の新規足軽に召しかかえられた。
祖父克次は、文政6(1823)年8月、2人扶持、切米4石で他支配組抜の足軽に召しかかえられた。
父元助は、安政6(1859)年12月、組外足軽に昇進し「御近習御目付方留書役」に、弘化3(1846)年1月、江戸方下横目役となった。
しかし、その後、嘉永3(1850)年2月、不行届の儀ありとして追込(外出禁止)の罰、翌嘉永4年11月、前年江戸表にて不心得の儀ありとして呵込(しかりこみ、譴責外出禁止)の罰を受け、下横目役を免ぜられた。不行届・不心得の内容は不明。
そして、嘉永6(1853)年3月、江戸方下横目役に復帰(9月、勤続年継続が認められてる)するが、文久元(1861)年2月21日病没(勤続23年)。
兆民は、15歳の同年5月8日、父元助と同じく他支配組抜をもっての家督相続が許されている。
幼年時代
兆民の幼年時代について伝えるところは殆どない。
ただ、女児のように温和で読書好き、弟思いでときに血気にあふれた行動をとった、という逸話が残されている。
文久2(1862)年4月5日、土佐藩藩校文武館が開校し、兆民は開校と同時に入校。この開校直後の4月8日、執政吉田東洋が暗殺されている。文武館では、「定規として第一に小学、第二に近思録、第三に四書五経を読ましむ、次に蒙求十八史略八家文、次に史記左伝等を読ましむ」(兆民「兆民居士の文学談」)という。
また同じ頃、奥宮慥斎について、『伝習録』講義を聴き、『王陽明全書』『靖乱録』などを読んで、陽明学を学び、萩原三奎・細川潤次郎から蘭学を学んでいる。
文久3年(1863)年6月9日、土佐勤王党の平井収二郎、間崎哲馬、広瀬健太が、山田町の牢舎で切腹を命じられた際には、大勢の人々と共にこれを見たという(「平井収次郎君切腹の現状」)。
(つまり、勤皇党でも勤皇党に同情を寄せるほどでもなかった)
長崎遊学
慶応元(1865)年9月、藩から英学修業のため長崎派遣を命ぜられ、10月、長崎へ出発するが、平井義十郎からフランス学を学ぶ。
兆民の回想によれば、当時の勉強法は、書籍もきわめて少なく、和訳辞書もなく、和蘭対訳字書や和英対訳字書を購入し、蘭仏または英仏対訳のものを使い重索した。文法書を読んでも分らず、日本語の分らない天主教の神父に就いて身振り手振りで学習する始末であったという。
長崎で兆民は、当時海援隊を組織し長崎にあった坂本龍馬に会い崇拝の念を抱いたという。
幸徳秋水『兆民先生』によると、兆民は、「予は当時少年なりしも、彼を見て何となくエラキ人なりと信ぜるが故に、平生人に屈せざるの予も、彼が純然たる土佐訛りの言語もて、「中江のニイさん煙草を買ふて来てオーせ、」などゝ命ぜらるれば、快然として使ひせしこと屡々なりき」と、語ったという。
長崎でのフランス学修業に限界を感じたためか、兆民は江戸遊学を志し、船賃25両の調達を留学生監督岩崎弥太郎に頼むが断わられ、藩命を受け汽船購入のため長崎に滞在する後藤象二郎に直談判してこれを得る。
江戸遊学
慶応2年(1866)末、兆民は江戸に向い、深川佐賀町の真田藩邸内にある村上英俊の塾「達理堂」に入塾する。村上塾で兆民は、村上の著わした『仏語明要』を知り、江戸では辞書編纂や翻訳業が盛んで、長崎より数段進歩していることを知る。
この頃、兆民は、慶応義塾の馬場辰猪と鍛冶橋の土佐藩邸で何回か会っている。兆民は、3歳年下の馬場を深く敬愛し、馬場との交友により、兆民は慶応義塾やその師の福沢諭吉についても知るようになったと考えられる。
大坂遊学 フランス公使ロッシュの通弁官
兆民は深川の娼楼に遊ぶなど品行が悪く、村上塾を破門となり、その後は横浜のカトリック神父に就いてフランス語を学び、次には大坂に転じる。
その後の経緯は不明であるが、
慶応3(1867)年12月7日の兵庫開港(及び大坂開市)時には、兆民は、フランス公使レオン・ロッシュ、同領事レックの通弁官として働いている。また、この頃、伊藤博文、陸奥宗光、中島信行らと会っている。
伊藤博文は慶応4年1月11日、馬関から兵庫に到着、外国事務掛となり、東久世通禧外国事務取調掛の下で、陸奥宗光らと働くようになるが、1月25日、参与となり外国事務掛を兼任、2月20日には徴士参与職外国事務局判事になっている。
この間2月15日には堺事件が起り、2月30日、仏公使ロッシュは京都で天皇に会見、伊藤は外国事務局判事として通訳にあたる。
その後、伊藤は4月19日神戸開港場管轄外国事務を委任され、5月3日には大坂府判事兼外国官判事となり兵庫神戸の両所に在勤を命じられている。そして、5月23日、兵庫県知事(~翌明治2年4月10日まで)となり、6月には東京に転じる。
陸奥宗光は慶応4年1月、伊藤博文、井上馨、寺島宗則、五代友厚、中井弘蔵(弘)らと外国事務局御用掛となり、大坂・兵庫に在勤、3月17日には徴士外国事務局権判事として横浜在勤を命ぜられるが、病気のため赴任せず、京坂神戸の間に在勤している。5月4日に会計官権判事、6月22日大坂府権判事(後藤象二郎の後任)、明治2年1月22日に摂津県知事(のち豊崎県と改める)、6月20日兵庫県知事(伊藤博文の後任)となり8月まで在職。
またこの時期、後藤象二郎、中井弘蔵、五代友厚らも関西で働いている。
慶応4年2月30日、英国公使パークスが参内の途中で襲撃された事件の際、後藤、中井はその接待員であった。
兆民は中井とはその死まで交友を続けている。
兆民は、幕末期、尊王壊夷には与みせず、フランス学修学で身を立てようとしていたと考えられる。
当時フランスは横極的に幕府を援助し、幕府支持の姿勢を明確にしていたので、兆民は、幕府側からの幕末の動きを見ていたともいえる。
のちに、兆民が江戸文芸への親近感を示し、明治政府の専制を強く批判し、同じ土佐の先輩板垣退助や後藤象二郎と親交を持ちながらも、立志社にも自由党(第一次)にも参加せず、民権運動と終始一線を画し、土佐の人脈の中に埋没しなかったことなど、維新後の行動にも見てとれる。
明治元(1868)年7月、中江の苗字を正式に許され古御足軽となる。ついで翌明治2年11月11日、「五等士族上席」と改められ、翌年1月から俸禄8石2斗を支給される。
しかし維新直後の兆民の動静については不明部分が多い。
大学南校の大得業生
明治3(1870)年5月、大学南校の大得業生となるが、時期が不明ながら藩から月5円を支給され、箕作麟祥の塾に入っている。
箕作は慶応3(1867)年1月、横浜を出帆しフランスに赴き、翌慶応4年2月に帰国、同年7月から関西に滞在し、11月頃神戸に洋学校を開設したが、翌明治2年3月には東京に帰り、同年5月から神田南神保町に住みそこで家塾を開いている。
従って、兆民は、兵庫で箕作塾に入り、引き続き東京の箕作塾に入塾した可能性が高い。
大得業生は、教員としては、博士(大博士、中博士、少博士)、助教(大助教、中助教、少助教)に次ぎ、その任務は、中得業生、少得業生とともに、「掌授句読、翻訳、治療等事」となっていた(「職員令」明治2年7月8日。
大学南校は、明治2年12月17日、開成学校を改称したもので、明治4年9月25日に一時閉鎖(同年10月再開)されるまでの一時期、兆民は大得業生として勤務している。
フランス留学
明治4(1871)年11月12日、岩倉具視全権大使一行が米欧視察のため横浜港を出帆。この一行に留学生59人が同行していたが、兆民もその一員。
兆民が留学生の一員に選抜された経緯:
幸徳秋水「兆民先生」によれば、海外留学の志を抱いた兆民は、大蔵卿大久保利通の馭者と親しくなり、大久保の退庁時に車の後を追い、大久保が下車したところをとらえて面会。
兆民は大久保に、政府の留学生選抜が官立学校生徒に限定していることを難じ、自分の勉学が優等で、国内では就くべき師、読むべき書もないとし、留学生に選抜されることを乞う。
大久保は、兆民が土佐人と知り、なぜ郷里の先輩に乞わないかと尋ねると、兆民は同郷人の縁や情実を利用するのは自分の潔しとしないところだと答えたという。
大久保は、後藤象二郎、板垣退助と相談して決めようと述べ、後藤、板垣の斡旋もあって留学生に選抜されたという。
兆民は間もなく司法省九等出仕となり、10月12日、フランス留学の免状を受け、10月15日、フランス留学(法律修業)を命ぜられる。
12月6日、岩倉全権一行はサンフランシスコに上陸。
ここで兆民らは全権一行と別れ、12月10日、サンフランシスコを出発し、鉄道で東部へ向かう。
途次、豪雪のためロッキー山中あたりが鉄道不通となり、列車に閉じこめられ、腹が減り、雪中を一里ばかり離れたところへ肉を食いに行ったため、指3本と耳1箇を凍損したという。
足どりは正確には追えないが、ニューヨーク経由フランスへ向かい、明治5(1872)年1月11日にフランスに着き、2年4ヶ月の留学生生活が始まる。
フランス留学時代の兆民の行歴は不鮮明。
『兆民先生』で幸徳は、留学中のことをあまり聞いていないとしている。
幸徳によると、
兆民はまず小学校に入ったが児童のうるさいのに堪えられず去った、
リヨンの某状師(弁護士)に就いて学んだ、
もっぱら哲学・史学・文学を研鑽し、『孟子』『文章軌範』『日本外史』などをフランス語訳した、
史籍を渉猟した、
政府の留学生召還の命があり、フランスの教師が学資を支給し留学継続を勧めたが母親のことを想って帰国した、
フランス時代に西園寺公望、光妙寺三郎、今村和郎、福田(坂田)乾一、飯塚納らと交遊した、
ことなどを伝えている。
フランス時代の兆民を調査した研究は、井田進也『中江兆民のフランス』が殆ど唯一のもの。
この研究によると、以下。
明治5年1月11日、兆民はフランスに到着し、しばらくパリに滞在。
その後、リヨンに赴き、大学人学資格試験のための準備教育のためバレーなる弁護士に就き普通学(語学および一般教養)を学ぶ。
当時兵部省からフランスに派遣されていた大山巌は、ジュネーブからパリへ向かう途中、リヨンに立ち寄り、1872年6月17日、坂田乾一、小田、中江と四人で、リヨンの博覧会に遊んでいる。
ところが、1873年3月、文部省が留学生帰国指令を各国駐在の公使に送達する。
5月頃、この留学生召還の件で、兆民はリヨンからパリに移る。
リヨンの井上毅(司法省より派遣)は、6月6日付けで上司の河野敏鎌(司法大丞)・岸良兼養(少丞兼権大検事)に宛てて意見具申を行っている。
この意見具申で井上は、高知県人の今村和郎と中江兆民の留学延長が認められた。河野も高知県人であり、高知県人の縁故と疑われるかも知れないが、兆民の有能を見込んでの、司法省将来のことを考えての至願だと訴えている。
経緯は不明であるが、井上毅が兆民を高く評価していたこと、リヨンで井上と兆民はかなり親しく交際していたと推測できる。
この年夏、九鬼隆一(文部省七等出仕、東校副長心得)が留学生召還方針を伝達するためヨーロッパに派遣され、パリで兆民、井上、今村、入江文郎らに会う。
兆民は召還方針に反対し、ロンドンやベルリンに赴き、留学生を煽動したようだが、九鬼から事情を聞いて召還方針に服したと伝えられている。
しかし、結局、7月4日に兆民は、文部省の留学生改正処分による留学残留の選に入ったものの、12月25日には、太政官が留学生悉皆帰朝命令を布達し、翌年4月末日までに帰途につくことを命じる。この命令は、兆民も例外ではなかった。
帰国
明治7年(1874)4月26日、マルセイユ発。6月9日に横浜に到着。
航路は、地中海を東進し、スエズ運河を通過し、紅海を通り、アラビア海を横断し、ゴール(スリランカ)、シンガポール、サイゴンなどを経由したと考えられる。
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以下、岩倉使節団の記録『特命全権大使米欧回覧実記』より
・パリの情景。
「○巴黎(パリ)ノ市中ハ、到処ニ酒店、割烹店、茶、珈琲店アリ、樹陰ニ榻(こしかけ)楊ヲオキ、遊客案(つくえ)ヲ対シテ飲ム、盛夏ニ涼ヲ納レ、晴夕ニ月ヲミル、劇場、楽堂、処処ニアリ、所謂ル歌舞終日無威容ノ気象ヲ顕セリ、」
・リヨンの描写。
「里昂(リヨン)府ハ、仏国ノ大都会ニテ、・・・人口三十二万三千九百五十四人アリ、仏国中ニテ、巴黎ノ外ハ、此都ノ盛ニ及ブ所ナシ。
絹織ノ名所ナリ、地勢ハ山脈ノ余ヲウケテ、西北ニハ岡陵起伏シ、東南ニハ平野曠然タリ、「ソオン」河ノ「ロオン」河ニ会合スル地角ヲ占メ、両河ノ間ヲ、府中ノ尤モ稠密ナル区トス、
街上ノ家屋ミナ宏大ニテ、傑閣雄楼相連り、石造堊壁ハ、皜然(こうぜん)トシ六七層ノ高キニ及ビ、櫓(ひさし)ニハ石像ヲ建テ、窓ニハ藻欄ヲ施シ、金光爛然トシテ日二輝ク、路ニハ石ヲ甃(しゆう)セザル地ナク、処処ニ広苑ヲ存シ、樹ヲ植エテ森然蔚然(うつぜん)ナリ、
緑陰正ニ展(の)ビ、嵐翠夏ヲ遮ル、府中ノ民、夕ニハ其下ニ盤游ス、夜ハ瓦斯(がす)燈ヲ点シ、燦トシテ星ノ如シ、河西ニ岡阜アリ、上ニ寺アリ、金ノ馬利(メーリー)像ヲ建ツ、此ヨリ東南ヲ一眺スレバ、府中ノ景、ミナ睫(まつげ)ノ間ニ落ツ、
岡前ニ「ソオン」河流ル、数条ノ橋ヲツゞリテ往来ヲ利ス、北方ニハ地勢隆起シ、此ニ織戸多シ、東方ノ野ハ、河ヲ隔テゝ連リ、瑞士ノ境ニ達ス、此ヲ里昂府ノ大形トス、」
・アジア植民地の状況
「弱ノ肉ハ、強ノ食、欧洲入遠航ノ業起リシヨリ、熱帯ノ諸国、ミナ其争ヒ喰フ所トナリテ、其豊饒ノ物産ヲ、本洲ニ輸入ス」。
しかし、ヨーロッパ人で、「遠航シテ、利ヲ東南洋ニ博取シ、以テ生理トナスモノハ、大抵本国ノ猾徒ニテ、其無頼無行ナルヲ以テ、郷里ニ斥ケラレ、或ハ刑辟ニ触レテ、人ニ交際ヲ得ザルモノ、多ク出テ利ヲ外国ニ獲ンコトヲ図ル、故ニ東南洋ニ生産ヲ求メルモノハ、大抵文明国ヨリ棄テラレタル民ナリ」とみて、
植民者と本国の文明人と混同してはならぬという(文明と侵略とを切リ離している)。
・フランスからの途次、ポートサイド、サイゴンに立寄り、上陸して市内を見て廻わった兆民の印象。
「英法諸国ノ氓此土ニ来ルモノ、意気倣然トシテ絶へテ顧慮スル所無ク、其土耳古人若クハ印度人
ヲ待ツノ無礼ナルコト曾テ犬豚ニモ之レ如カズ、
一事心ニ愜ハザルコト有レバ杖ヲ揮フテ之ヲ打チ若クハ足ヲ挙ゲ一蹴シテ過ギ視ル者恬トシテ之ヲ怪マズ、
顧フニ土耳古印度ノ人民ノ如キ其頑陋鄙屈ニシテ丈夫ノ気象ニ乏ク自ラ此侮辱ヲ取ルト雖モ、抑々欧洲人ノ自ラ文明卜称シテ而シテ此行有ルハ之ヲ何卜謂ハン哉、・・・」(「論外交」明治15年8月)
ヨーロッパ的文明(自由)の限界を知りその克服を課題として認識したに違いない。
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中江兆民のフランス留学からの帰国
の項目があります
(コチラ)
中江兆民は土佐出身の自由民権家という枠には収まらない思想家、活動家で、幸徳秋水の師でもあります。
以下、松永昌三「評伝中江兆民」により、その誕生からフランス留学からの帰国までを纏めてみました。
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中江兆民:(松永昌三「評伝中江兆民」より)
弘化4年、土佐国高知城下に生まれる。誕生日は11月1日(1847年12月8日)、11月27日(1848年1月2日)の二説あり。
父は土佐藩足軽元助、母は同藩青木銀七の二女柳(明治25年1月没)。
曾祖父伝作は、明和3(1766)年11月、下2人扶持、切米4石の新規足軽に召しかかえられた。
祖父克次は、文政6(1823)年8月、2人扶持、切米4石で他支配組抜の足軽に召しかかえられた。
父元助は、安政6(1859)年12月、組外足軽に昇進し「御近習御目付方留書役」に、弘化3(1846)年1月、江戸方下横目役となった。
しかし、その後、嘉永3(1850)年2月、不行届の儀ありとして追込(外出禁止)の罰、翌嘉永4年11月、前年江戸表にて不心得の儀ありとして呵込(しかりこみ、譴責外出禁止)の罰を受け、下横目役を免ぜられた。不行届・不心得の内容は不明。
そして、嘉永6(1853)年3月、江戸方下横目役に復帰(9月、勤続年継続が認められてる)するが、文久元(1861)年2月21日病没(勤続23年)。
兆民は、15歳の同年5月8日、父元助と同じく他支配組抜をもっての家督相続が許されている。
幼年時代
兆民の幼年時代について伝えるところは殆どない。
ただ、女児のように温和で読書好き、弟思いでときに血気にあふれた行動をとった、という逸話が残されている。
文久2(1862)年4月5日、土佐藩藩校文武館が開校し、兆民は開校と同時に入校。この開校直後の4月8日、執政吉田東洋が暗殺されている。文武館では、「定規として第一に小学、第二に近思録、第三に四書五経を読ましむ、次に蒙求十八史略八家文、次に史記左伝等を読ましむ」(兆民「兆民居士の文学談」)という。
また同じ頃、奥宮慥斎について、『伝習録』講義を聴き、『王陽明全書』『靖乱録』などを読んで、陽明学を学び、萩原三奎・細川潤次郎から蘭学を学んでいる。
文久3年(1863)年6月9日、土佐勤王党の平井収二郎、間崎哲馬、広瀬健太が、山田町の牢舎で切腹を命じられた際には、大勢の人々と共にこれを見たという(「平井収次郎君切腹の現状」)。
(つまり、勤皇党でも勤皇党に同情を寄せるほどでもなかった)
長崎遊学
慶応元(1865)年9月、藩から英学修業のため長崎派遣を命ぜられ、10月、長崎へ出発するが、平井義十郎からフランス学を学ぶ。
兆民の回想によれば、当時の勉強法は、書籍もきわめて少なく、和訳辞書もなく、和蘭対訳字書や和英対訳字書を購入し、蘭仏または英仏対訳のものを使い重索した。文法書を読んでも分らず、日本語の分らない天主教の神父に就いて身振り手振りで学習する始末であったという。
長崎で兆民は、当時海援隊を組織し長崎にあった坂本龍馬に会い崇拝の念を抱いたという。
幸徳秋水『兆民先生』によると、兆民は、「予は当時少年なりしも、彼を見て何となくエラキ人なりと信ぜるが故に、平生人に屈せざるの予も、彼が純然たる土佐訛りの言語もて、「中江のニイさん煙草を買ふて来てオーせ、」などゝ命ぜらるれば、快然として使ひせしこと屡々なりき」と、語ったという。
長崎でのフランス学修業に限界を感じたためか、兆民は江戸遊学を志し、船賃25両の調達を留学生監督岩崎弥太郎に頼むが断わられ、藩命を受け汽船購入のため長崎に滞在する後藤象二郎に直談判してこれを得る。
江戸遊学
慶応2年(1866)末、兆民は江戸に向い、深川佐賀町の真田藩邸内にある村上英俊の塾「達理堂」に入塾する。村上塾で兆民は、村上の著わした『仏語明要』を知り、江戸では辞書編纂や翻訳業が盛んで、長崎より数段進歩していることを知る。
この頃、兆民は、慶応義塾の馬場辰猪と鍛冶橋の土佐藩邸で何回か会っている。兆民は、3歳年下の馬場を深く敬愛し、馬場との交友により、兆民は慶応義塾やその師の福沢諭吉についても知るようになったと考えられる。
大坂遊学 フランス公使ロッシュの通弁官
兆民は深川の娼楼に遊ぶなど品行が悪く、村上塾を破門となり、その後は横浜のカトリック神父に就いてフランス語を学び、次には大坂に転じる。
その後の経緯は不明であるが、
慶応3(1867)年12月7日の兵庫開港(及び大坂開市)時には、兆民は、フランス公使レオン・ロッシュ、同領事レックの通弁官として働いている。また、この頃、伊藤博文、陸奥宗光、中島信行らと会っている。
伊藤博文は慶応4年1月11日、馬関から兵庫に到着、外国事務掛となり、東久世通禧外国事務取調掛の下で、陸奥宗光らと働くようになるが、1月25日、参与となり外国事務掛を兼任、2月20日には徴士参与職外国事務局判事になっている。
この間2月15日には堺事件が起り、2月30日、仏公使ロッシュは京都で天皇に会見、伊藤は外国事務局判事として通訳にあたる。
その後、伊藤は4月19日神戸開港場管轄外国事務を委任され、5月3日には大坂府判事兼外国官判事となり兵庫神戸の両所に在勤を命じられている。そして、5月23日、兵庫県知事(~翌明治2年4月10日まで)となり、6月には東京に転じる。
陸奥宗光は慶応4年1月、伊藤博文、井上馨、寺島宗則、五代友厚、中井弘蔵(弘)らと外国事務局御用掛となり、大坂・兵庫に在勤、3月17日には徴士外国事務局権判事として横浜在勤を命ぜられるが、病気のため赴任せず、京坂神戸の間に在勤している。5月4日に会計官権判事、6月22日大坂府権判事(後藤象二郎の後任)、明治2年1月22日に摂津県知事(のち豊崎県と改める)、6月20日兵庫県知事(伊藤博文の後任)となり8月まで在職。
またこの時期、後藤象二郎、中井弘蔵、五代友厚らも関西で働いている。
慶応4年2月30日、英国公使パークスが参内の途中で襲撃された事件の際、後藤、中井はその接待員であった。
兆民は中井とはその死まで交友を続けている。
兆民は、幕末期、尊王壊夷には与みせず、フランス学修学で身を立てようとしていたと考えられる。
当時フランスは横極的に幕府を援助し、幕府支持の姿勢を明確にしていたので、兆民は、幕府側からの幕末の動きを見ていたともいえる。
のちに、兆民が江戸文芸への親近感を示し、明治政府の専制を強く批判し、同じ土佐の先輩板垣退助や後藤象二郎と親交を持ちながらも、立志社にも自由党(第一次)にも参加せず、民権運動と終始一線を画し、土佐の人脈の中に埋没しなかったことなど、維新後の行動にも見てとれる。
明治元(1868)年7月、中江の苗字を正式に許され古御足軽となる。ついで翌明治2年11月11日、「五等士族上席」と改められ、翌年1月から俸禄8石2斗を支給される。
しかし維新直後の兆民の動静については不明部分が多い。
大学南校の大得業生
明治3(1870)年5月、大学南校の大得業生となるが、時期が不明ながら藩から月5円を支給され、箕作麟祥の塾に入っている。
箕作は慶応3(1867)年1月、横浜を出帆しフランスに赴き、翌慶応4年2月に帰国、同年7月から関西に滞在し、11月頃神戸に洋学校を開設したが、翌明治2年3月には東京に帰り、同年5月から神田南神保町に住みそこで家塾を開いている。
従って、兆民は、兵庫で箕作塾に入り、引き続き東京の箕作塾に入塾した可能性が高い。
大得業生は、教員としては、博士(大博士、中博士、少博士)、助教(大助教、中助教、少助教)に次ぎ、その任務は、中得業生、少得業生とともに、「掌授句読、翻訳、治療等事」となっていた(「職員令」明治2年7月8日。
大学南校は、明治2年12月17日、開成学校を改称したもので、明治4年9月25日に一時閉鎖(同年10月再開)されるまでの一時期、兆民は大得業生として勤務している。
フランス留学
明治4(1871)年11月12日、岩倉具視全権大使一行が米欧視察のため横浜港を出帆。この一行に留学生59人が同行していたが、兆民もその一員。
兆民が留学生の一員に選抜された経緯:
幸徳秋水「兆民先生」によれば、海外留学の志を抱いた兆民は、大蔵卿大久保利通の馭者と親しくなり、大久保の退庁時に車の後を追い、大久保が下車したところをとらえて面会。
兆民は大久保に、政府の留学生選抜が官立学校生徒に限定していることを難じ、自分の勉学が優等で、国内では就くべき師、読むべき書もないとし、留学生に選抜されることを乞う。
大久保は、兆民が土佐人と知り、なぜ郷里の先輩に乞わないかと尋ねると、兆民は同郷人の縁や情実を利用するのは自分の潔しとしないところだと答えたという。
大久保は、後藤象二郎、板垣退助と相談して決めようと述べ、後藤、板垣の斡旋もあって留学生に選抜されたという。
兆民は間もなく司法省九等出仕となり、10月12日、フランス留学の免状を受け、10月15日、フランス留学(法律修業)を命ぜられる。
12月6日、岩倉全権一行はサンフランシスコに上陸。
ここで兆民らは全権一行と別れ、12月10日、サンフランシスコを出発し、鉄道で東部へ向かう。
途次、豪雪のためロッキー山中あたりが鉄道不通となり、列車に閉じこめられ、腹が減り、雪中を一里ばかり離れたところへ肉を食いに行ったため、指3本と耳1箇を凍損したという。
足どりは正確には追えないが、ニューヨーク経由フランスへ向かい、明治5(1872)年1月11日にフランスに着き、2年4ヶ月の留学生生活が始まる。
フランス留学時代の兆民の行歴は不鮮明。
『兆民先生』で幸徳は、留学中のことをあまり聞いていないとしている。
幸徳によると、
兆民はまず小学校に入ったが児童のうるさいのに堪えられず去った、
リヨンの某状師(弁護士)に就いて学んだ、
もっぱら哲学・史学・文学を研鑽し、『孟子』『文章軌範』『日本外史』などをフランス語訳した、
史籍を渉猟した、
政府の留学生召還の命があり、フランスの教師が学資を支給し留学継続を勧めたが母親のことを想って帰国した、
フランス時代に西園寺公望、光妙寺三郎、今村和郎、福田(坂田)乾一、飯塚納らと交遊した、
ことなどを伝えている。
フランス時代の兆民を調査した研究は、井田進也『中江兆民のフランス』が殆ど唯一のもの。
この研究によると、以下。
明治5年1月11日、兆民はフランスに到着し、しばらくパリに滞在。
その後、リヨンに赴き、大学人学資格試験のための準備教育のためバレーなる弁護士に就き普通学(語学および一般教養)を学ぶ。
当時兵部省からフランスに派遣されていた大山巌は、ジュネーブからパリへ向かう途中、リヨンに立ち寄り、1872年6月17日、坂田乾一、小田、中江と四人で、リヨンの博覧会に遊んでいる。
ところが、1873年3月、文部省が留学生帰国指令を各国駐在の公使に送達する。
5月頃、この留学生召還の件で、兆民はリヨンからパリに移る。
リヨンの井上毅(司法省より派遣)は、6月6日付けで上司の河野敏鎌(司法大丞)・岸良兼養(少丞兼権大検事)に宛てて意見具申を行っている。
この意見具申で井上は、高知県人の今村和郎と中江兆民の留学延長が認められた。河野も高知県人であり、高知県人の縁故と疑われるかも知れないが、兆民の有能を見込んでの、司法省将来のことを考えての至願だと訴えている。
経緯は不明であるが、井上毅が兆民を高く評価していたこと、リヨンで井上と兆民はかなり親しく交際していたと推測できる。
この年夏、九鬼隆一(文部省七等出仕、東校副長心得)が留学生召還方針を伝達するためヨーロッパに派遣され、パリで兆民、井上、今村、入江文郎らに会う。
兆民は召還方針に反対し、ロンドンやベルリンに赴き、留学生を煽動したようだが、九鬼から事情を聞いて召還方針に服したと伝えられている。
しかし、結局、7月4日に兆民は、文部省の留学生改正処分による留学残留の選に入ったものの、12月25日には、太政官が留学生悉皆帰朝命令を布達し、翌年4月末日までに帰途につくことを命じる。この命令は、兆民も例外ではなかった。
帰国
明治7年(1874)4月26日、マルセイユ発。6月9日に横浜に到着。
航路は、地中海を東進し、スエズ運河を通過し、紅海を通り、アラビア海を横断し、ゴール(スリランカ)、シンガポール、サイゴンなどを経由したと考えられる。
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以下、岩倉使節団の記録『特命全権大使米欧回覧実記』より
・パリの情景。
「○巴黎(パリ)ノ市中ハ、到処ニ酒店、割烹店、茶、珈琲店アリ、樹陰ニ榻(こしかけ)楊ヲオキ、遊客案(つくえ)ヲ対シテ飲ム、盛夏ニ涼ヲ納レ、晴夕ニ月ヲミル、劇場、楽堂、処処ニアリ、所謂ル歌舞終日無威容ノ気象ヲ顕セリ、」
・リヨンの描写。
「里昂(リヨン)府ハ、仏国ノ大都会ニテ、・・・人口三十二万三千九百五十四人アリ、仏国中ニテ、巴黎ノ外ハ、此都ノ盛ニ及ブ所ナシ。
絹織ノ名所ナリ、地勢ハ山脈ノ余ヲウケテ、西北ニハ岡陵起伏シ、東南ニハ平野曠然タリ、「ソオン」河ノ「ロオン」河ニ会合スル地角ヲ占メ、両河ノ間ヲ、府中ノ尤モ稠密ナル区トス、
街上ノ家屋ミナ宏大ニテ、傑閣雄楼相連り、石造堊壁ハ、皜然(こうぜん)トシ六七層ノ高キニ及ビ、櫓(ひさし)ニハ石像ヲ建テ、窓ニハ藻欄ヲ施シ、金光爛然トシテ日二輝ク、路ニハ石ヲ甃(しゆう)セザル地ナク、処処ニ広苑ヲ存シ、樹ヲ植エテ森然蔚然(うつぜん)ナリ、
緑陰正ニ展(の)ビ、嵐翠夏ヲ遮ル、府中ノ民、夕ニハ其下ニ盤游ス、夜ハ瓦斯(がす)燈ヲ点シ、燦トシテ星ノ如シ、河西ニ岡阜アリ、上ニ寺アリ、金ノ馬利(メーリー)像ヲ建ツ、此ヨリ東南ヲ一眺スレバ、府中ノ景、ミナ睫(まつげ)ノ間ニ落ツ、
岡前ニ「ソオン」河流ル、数条ノ橋ヲツゞリテ往来ヲ利ス、北方ニハ地勢隆起シ、此ニ織戸多シ、東方ノ野ハ、河ヲ隔テゝ連リ、瑞士ノ境ニ達ス、此ヲ里昂府ノ大形トス、」
・アジア植民地の状況
「弱ノ肉ハ、強ノ食、欧洲入遠航ノ業起リシヨリ、熱帯ノ諸国、ミナ其争ヒ喰フ所トナリテ、其豊饒ノ物産ヲ、本洲ニ輸入ス」。
しかし、ヨーロッパ人で、「遠航シテ、利ヲ東南洋ニ博取シ、以テ生理トナスモノハ、大抵本国ノ猾徒ニテ、其無頼無行ナルヲ以テ、郷里ニ斥ケラレ、或ハ刑辟ニ触レテ、人ニ交際ヲ得ザルモノ、多ク出テ利ヲ外国ニ獲ンコトヲ図ル、故ニ東南洋ニ生産ヲ求メルモノハ、大抵文明国ヨリ棄テラレタル民ナリ」とみて、
植民者と本国の文明人と混同してはならぬという(文明と侵略とを切リ離している)。
・フランスからの途次、ポートサイド、サイゴンに立寄り、上陸して市内を見て廻わった兆民の印象。
「英法諸国ノ氓此土ニ来ルモノ、意気倣然トシテ絶へテ顧慮スル所無ク、其土耳古人若クハ印度人
ヲ待ツノ無礼ナルコト曾テ犬豚ニモ之レ如カズ、
一事心ニ愜ハザルコト有レバ杖ヲ揮フテ之ヲ打チ若クハ足ヲ挙ゲ一蹴シテ過ギ視ル者恬トシテ之ヲ怪マズ、
顧フニ土耳古印度ノ人民ノ如キ其頑陋鄙屈ニシテ丈夫ノ気象ニ乏ク自ラ此侮辱ヲ取ルト雖モ、抑々欧洲人ノ自ラ文明卜称シテ而シテ此行有ルハ之ヲ何卜謂ハン哉、・・・」(「論外交」明治15年8月)
ヨーロッパ的文明(自由)の限界を知りその克服を課題として認識したに違いない。
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永禄4年(1561)8月1日~10月31日 宣教師ガスパル・ヴィレラの堺再訪 川中島4度目の激戦 家康の西三河平定 信長、美濃堂洞城を陥落 [信長28歳]
永禄4年(1561)8月
この月
・大友義鎮の将兵、毛利方の宗像氏貞を筑前白山城に攻める。
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・宣教師ガスパル・ヴィレラ、再び堺訪問。1年間、日比野了珪宅に滞在して布教活動。成果少なく1年間で約40人。
日比屋了珪は、豊後にいるトルレスに「進物を添えて書状を送り、デウスの愛により、デウスの教えを説く者を派遣することを請」い、ヴィレラが再び堺に来る。
以後1年、ヴィレラは日比屋家に滞在し、昼はヴィレラ、夜は日本人ロレンソと交替で、精力的な布教活動を展開。
しかし堺での布教は容易ではない。
「堺の町は甚だ広大で、大きな商人が多数いる。この町はベニス市のごとく執政官によって治められている」、
「日本全国当堺の町より安全な所はなく、他の諸国において戦乱があっても、この町にはかつてなく、敗者も勝者も、この町に来住すれば皆平和に生活し、諸人相和し、他人に害を加える者はいない。
市街においてはかつて紛擾が起こったことがなく、敵味方の差別なく皆大きな愛情と礼儀をもって応待」するが、「当堺の人は土地富裕であるために大いに名誉を重んじ」、「世人の評判と信用が、かれらをデウスの教えの真理に従うことを躊躇させるのだ」と告白する者もいて、「この町の人は倣慢で信義を重んずるので、長く待つのでなければ効果を期待することができな」い。
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・宮ノ前事件。
肥前平戸の七郎ノ宮の門前、ポルトガル商人フェルナンデスら13人と日本人1人が綿布の取り合いでイザコザ。
そこに松浦家臣伊藤甚三郎が通りかかる。フェルナンデスらは伊藤に斬られると勘違いして襲いかかる。伊藤は13人を斬る。
後、宣教師コスメ・デ・トルレス、今後貿易は松浦家とは行わず大村家と行うと宣言。
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・畠山高政、河内金剛寺へ全3ヶ条の「禁制」下す(「金剛寺文書」)。
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8月2日
・朝廷、六角軍の禁中乱入を停止(「御湯殿上日記」)。
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8月2日
・徳川家康を竹千代時代に養育した隋念院、歿。
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8月3日
・木下藤吉郎(25)、織田家弓衆浅野又右衛門長勝の養女おね(実父杉原定利)の入婿となる。
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8月8日
・上杉謙信、1万3千の軍を率いて越後春日山を発つ。
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8月14日
・上杉政虎1万3千、信玄と雌雄を決すべく越後府中進発。善光寺に5千残し、8千で犀川渡り信濃海津城西の妻女山布陣。武田勢は海津城(高坂弾正昌信)。
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8月14日
・三好義賢(実休)、河内観心寺へ、臨時課役・闕所検断等は「先規」の如く免除、また、新儀以下の寺内・郷中に於ける諸公事取を免除(「観心寺文書」)。
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8月17日
・武田信玄1万7千、甲府進発。信濃川中島に出陣。
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8月17日
・「諸人の彼(本願寺宗主)に与うる金銀ははなはだ多く、日本の富の大部分は、この坊主の所有なり」(「耶蘇会士日本通信」。
ポルトガル宣教師ガスパル・ビレラがインドのイエズス会に送った報告書)。
本願寺の財力、寺内町の経済力・交易力。
2年前の永禄2(1559)年12月には、本願寺の献金により正親町天皇は即位式ができ、本願寺は門跡寺院に列せられている。
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8月19日
・スコットランド女王メアリー・スチュワート(18)、夫フランソワ2世死去のため13年ぶりにフランスよりスコットランドに戻る。
9月1日、エディンバラ城入り。父王庶子マリ伯ジェイムズ・ステュワート(異母兄、プロテスタント)とウィリアム・メイトランドを政治顧問とする。プロテスタント迫害なし。イングランド近海の通行をめぐって、エリザベス1世と行き違い。
*
8月19日
・幕府、朝廷に内裏六町の町衆に将軍義輝邸の堀を掘らせる許可を請い、認められる。
*
8月21日
・武田信玄、信州諸将を吸収し2万にふくれあがって塩崎に到着。
*
8月21日
・毛利元就、隆元・小早川隆景を豊前門司城の救援に派遣。
*
8月21日
・ロシア、イヴァン4世(雷帝)、2度目の結婚。
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8月24日
・武田信玄、信濃川中島に到着、雨宮の渡し付近に布陣。
*
8月24日
・松平元康(20、家康)、今川氏真の属城三河長沢城を攻略。
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8月27日
・武田信玄、茶臼山に布陣し、海津城とで政虎の退路遮断。自らも背後に善光寺上杉勢を控える。
両軍対峙。
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8月27日
・フランス、「三部会」、新たに開催。
非聖職者、ポオントワーズに集結(王権に対する新たな援助金を悉く拒否、国庫の不足分は聖職者財産を没収して埋めろ)。
聖職者、ポワシーのドミニコ会女子修道院に集結。
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8月29日
・武田信玄、海津城に入城。
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9月
・毛利軍、大友方の香春岳を攻撃。
大友の城将志賀常陸介らは、城を捨て豊後へ退却。毛利側は数ヶ月で香春岳を奪回。
後、杉氏一門(大内義隆の守護代を勤めた杉興運の一門)の杉連緒が香春岳在城を命じられる。
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9月2日
・大友義鎮、豊前門司城(仁保隆康以下3千人)を、陸からは吉弘加兵衛尉1万5千で、海からはポルトガル船の砲撃で総攻撃。
*
9月2日
・幕府、京都北野社人と洛中洛外土倉との酒麹役相論を裁許し、西京諸住へ安堵(「北野文書」)。
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9月9日
・武田信玄の軍議。山本勘助が「啄木鳥の戦法」を献策、採用。
夜、武田勢飯富虎昌のきつつきの戦法、1万3千で夜襲。8千の主力殲滅。
上杉政虎、真夜中密かに妻女山を下り、雨ノ宮の渡しから千曲川を渡って川中島に出る。
*
9月9日
・フランス、ポワシーの「討論会」。
カトリックとユグノー教徒の代表、ポアシーで会見。
カトリーヌ・ド・メディシス、「信教の自由」と「国内の和解」を目指し新旧両派をポワシーに召集。
「討論会」は新旧両派の対立を深める(テオドール・ド・ベーズ対ロレーヌ枢機卿)。
カトリーヌ・ド・メディシス、周囲からの憎悪だけでなく教皇ピウス4世の怒りまでもかう
(教皇ピウス4世は、カトリーヌが勝手に公会議を召集し信仰に関する裁定を下そうとしていることに我慢ならない)。
カルヴァンは出席要請されるも欠席、腹心テオドール・ド・ベーズ派遣。
和解ならず。
年末には新教徒虐殺事件頻発。
宰相ミシェル・ロピタルは二教会併立と政教分離が和平の道と確信。
「良心は、力をもって左右することのできぬ…決してこれを抑圧したり犯したりしてはならぬ。もし、信仰でも、それが強いられれば、それはもはや信仰ではない。」(宰相ミシェル・ロピタル)。
*
9月10日
・川中島4度目の激戦
八幡原で両軍主力激突。
武田勢全滅の危機。副将武田信繁(37、信玄弟)・小笠原長詮・山本勘助、討死。譜代家臣宿老信濃柏鉢城城代両角虎定、討死。信玄負傷。
武田勢妻女山夜襲隊参戦で形勢逆転、上杉勢退却。
「信玄勝利」(「武田三代軍記」)。
「武田2万6千、手負い1,850、討死3,216。越後手負い1,979、討死3,116」(「川中島五箇度合戦之次第」)。
「武田方討死4,630、上杉方討死3,470」(「甲越信戦録」)。
真田昌幸(15)、信玄の近習として参戦。昌幸の初陣といわれる。
以降、善光寺平は武田氏の支配下に入る。
また、信越国境地域・西上野への侵攻が加速される。
永禄11年7月には上杉方の北信地域の最後の拠点飯山城(飯山市)も一時的に攻略される。
*
9月11日
・北條氏政、太田康資に辛垣山・日尾・天神山の攻略を伝う
*
9月13日
・家康、西三河を平定。
松平元康(20、家康)が東条城の吉良義昭を攻め、西三河を平定する。
*
9月18日
・小早川隆景、赤間関に着陣。水軍500隻・小早川勢1万が着陣。
後、毛利隆元、8千を率い防府の大専坊に本陣をおく。
毛利氏方堀立壱岐守・杉彦三郎ら800、関門海峡を渡り門司城に入城。
*
9月22日
・絵師・土佐光茂、正親町天皇筆の般若心経に金銀泥絵を描く。
*
9月28日
・信長、美濃堂洞城の斉藤方岸勘解由らを攻め、これを落とす。
*
*
10月1日
・武田信玄、碓氷郡松井田城(安中市松井田町)城主諏訪宰相宛て書状で、今度出陣するので「先約」に相違なきようにといい、もし事前に露見し在所を退去せざるを得ない場合は、信濃で300貫文与えると述べる。
*
10月13日
・松永久秀、南都眉間寺を廃し、多聞山城を築く。4層の天守閣が作られる。
*
10月21日
・フランス、僧侶、身分、国庫への財政的援助に同意するポワシー協定が成立。
*
10月24日
・尼子義久、日御碕社小野政光に出雲の宇竜浦の支配権を安堵。
宇竜浦での北国船諸役は政光の処置に委任、唐船着岸のとき尼子氏御用の物を除き諸役については政光が指示、と定める。
永禄6年5月にも尼子氏老臣より政光に宛てて、北国船・北国船問職・唐船着岸について同様の指示をする。
*
10月31日
・フランス、ギーズ兄弟、王弟アンリ(3世)誘拐計画、失敗(ギーズ兄弟、フランスがカルヴァン主義の国家になることを恐れ、アンリを人質に 取る計画)。
カトリーヌ・ド・メディチ、ギーズ兄弟を憎悪。
*
*
「★織田信長インデックス」 をご参照下さい。
*
この月
・大友義鎮の将兵、毛利方の宗像氏貞を筑前白山城に攻める。
*
・宣教師ガスパル・ヴィレラ、再び堺訪問。1年間、日比野了珪宅に滞在して布教活動。成果少なく1年間で約40人。
日比屋了珪は、豊後にいるトルレスに「進物を添えて書状を送り、デウスの愛により、デウスの教えを説く者を派遣することを請」い、ヴィレラが再び堺に来る。
以後1年、ヴィレラは日比屋家に滞在し、昼はヴィレラ、夜は日本人ロレンソと交替で、精力的な布教活動を展開。
しかし堺での布教は容易ではない。
「堺の町は甚だ広大で、大きな商人が多数いる。この町はベニス市のごとく執政官によって治められている」、
「日本全国当堺の町より安全な所はなく、他の諸国において戦乱があっても、この町にはかつてなく、敗者も勝者も、この町に来住すれば皆平和に生活し、諸人相和し、他人に害を加える者はいない。
市街においてはかつて紛擾が起こったことがなく、敵味方の差別なく皆大きな愛情と礼儀をもって応待」するが、「当堺の人は土地富裕であるために大いに名誉を重んじ」、「世人の評判と信用が、かれらをデウスの教えの真理に従うことを躊躇させるのだ」と告白する者もいて、「この町の人は倣慢で信義を重んずるので、長く待つのでなければ効果を期待することができな」い。
*
・宮ノ前事件。
肥前平戸の七郎ノ宮の門前、ポルトガル商人フェルナンデスら13人と日本人1人が綿布の取り合いでイザコザ。
そこに松浦家臣伊藤甚三郎が通りかかる。フェルナンデスらは伊藤に斬られると勘違いして襲いかかる。伊藤は13人を斬る。
後、宣教師コスメ・デ・トルレス、今後貿易は松浦家とは行わず大村家と行うと宣言。
*
・畠山高政、河内金剛寺へ全3ヶ条の「禁制」下す(「金剛寺文書」)。
*
8月2日
・朝廷、六角軍の禁中乱入を停止(「御湯殿上日記」)。
*
8月2日
・徳川家康を竹千代時代に養育した隋念院、歿。
*
8月3日
・木下藤吉郎(25)、織田家弓衆浅野又右衛門長勝の養女おね(実父杉原定利)の入婿となる。
*
8月8日
・上杉謙信、1万3千の軍を率いて越後春日山を発つ。
*
8月14日
・上杉政虎1万3千、信玄と雌雄を決すべく越後府中進発。善光寺に5千残し、8千で犀川渡り信濃海津城西の妻女山布陣。武田勢は海津城(高坂弾正昌信)。
*
8月14日
・三好義賢(実休)、河内観心寺へ、臨時課役・闕所検断等は「先規」の如く免除、また、新儀以下の寺内・郷中に於ける諸公事取を免除(「観心寺文書」)。
*
8月17日
・武田信玄1万7千、甲府進発。信濃川中島に出陣。
*
8月17日
・「諸人の彼(本願寺宗主)に与うる金銀ははなはだ多く、日本の富の大部分は、この坊主の所有なり」(「耶蘇会士日本通信」。
ポルトガル宣教師ガスパル・ビレラがインドのイエズス会に送った報告書)。
本願寺の財力、寺内町の経済力・交易力。
2年前の永禄2(1559)年12月には、本願寺の献金により正親町天皇は即位式ができ、本願寺は門跡寺院に列せられている。
*
8月19日
・スコットランド女王メアリー・スチュワート(18)、夫フランソワ2世死去のため13年ぶりにフランスよりスコットランドに戻る。
9月1日、エディンバラ城入り。父王庶子マリ伯ジェイムズ・ステュワート(異母兄、プロテスタント)とウィリアム・メイトランドを政治顧問とする。プロテスタント迫害なし。イングランド近海の通行をめぐって、エリザベス1世と行き違い。
*
8月19日
・幕府、朝廷に内裏六町の町衆に将軍義輝邸の堀を掘らせる許可を請い、認められる。
*
8月21日
・武田信玄、信州諸将を吸収し2万にふくれあがって塩崎に到着。
*
8月21日
・毛利元就、隆元・小早川隆景を豊前門司城の救援に派遣。
*
8月21日
・ロシア、イヴァン4世(雷帝)、2度目の結婚。
*
8月24日
・武田信玄、信濃川中島に到着、雨宮の渡し付近に布陣。
*
8月24日
・松平元康(20、家康)、今川氏真の属城三河長沢城を攻略。
*
8月27日
・武田信玄、茶臼山に布陣し、海津城とで政虎の退路遮断。自らも背後に善光寺上杉勢を控える。
両軍対峙。
*
8月27日
・フランス、「三部会」、新たに開催。
非聖職者、ポオントワーズに集結(王権に対する新たな援助金を悉く拒否、国庫の不足分は聖職者財産を没収して埋めろ)。
聖職者、ポワシーのドミニコ会女子修道院に集結。
*
8月29日
・武田信玄、海津城に入城。
*
*
9月
・毛利軍、大友方の香春岳を攻撃。
大友の城将志賀常陸介らは、城を捨て豊後へ退却。毛利側は数ヶ月で香春岳を奪回。
後、杉氏一門(大内義隆の守護代を勤めた杉興運の一門)の杉連緒が香春岳在城を命じられる。
*
9月2日
・大友義鎮、豊前門司城(仁保隆康以下3千人)を、陸からは吉弘加兵衛尉1万5千で、海からはポルトガル船の砲撃で総攻撃。
*
9月2日
・幕府、京都北野社人と洛中洛外土倉との酒麹役相論を裁許し、西京諸住へ安堵(「北野文書」)。
*
9月9日
・武田信玄の軍議。山本勘助が「啄木鳥の戦法」を献策、採用。
夜、武田勢飯富虎昌のきつつきの戦法、1万3千で夜襲。8千の主力殲滅。
上杉政虎、真夜中密かに妻女山を下り、雨ノ宮の渡しから千曲川を渡って川中島に出る。
*
9月9日
・フランス、ポワシーの「討論会」。
カトリックとユグノー教徒の代表、ポアシーで会見。
カトリーヌ・ド・メディシス、「信教の自由」と「国内の和解」を目指し新旧両派をポワシーに召集。
「討論会」は新旧両派の対立を深める(テオドール・ド・ベーズ対ロレーヌ枢機卿)。
カトリーヌ・ド・メディシス、周囲からの憎悪だけでなく教皇ピウス4世の怒りまでもかう
(教皇ピウス4世は、カトリーヌが勝手に公会議を召集し信仰に関する裁定を下そうとしていることに我慢ならない)。
カルヴァンは出席要請されるも欠席、腹心テオドール・ド・ベーズ派遣。
和解ならず。
年末には新教徒虐殺事件頻発。
宰相ミシェル・ロピタルは二教会併立と政教分離が和平の道と確信。
「良心は、力をもって左右することのできぬ…決してこれを抑圧したり犯したりしてはならぬ。もし、信仰でも、それが強いられれば、それはもはや信仰ではない。」(宰相ミシェル・ロピタル)。
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9月10日
・川中島4度目の激戦
八幡原で両軍主力激突。
武田勢全滅の危機。副将武田信繁(37、信玄弟)・小笠原長詮・山本勘助、討死。譜代家臣宿老信濃柏鉢城城代両角虎定、討死。信玄負傷。
武田勢妻女山夜襲隊参戦で形勢逆転、上杉勢退却。
「信玄勝利」(「武田三代軍記」)。
「武田2万6千、手負い1,850、討死3,216。越後手負い1,979、討死3,116」(「川中島五箇度合戦之次第」)。
「武田方討死4,630、上杉方討死3,470」(「甲越信戦録」)。
真田昌幸(15)、信玄の近習として参戦。昌幸の初陣といわれる。
以降、善光寺平は武田氏の支配下に入る。
また、信越国境地域・西上野への侵攻が加速される。
永禄11年7月には上杉方の北信地域の最後の拠点飯山城(飯山市)も一時的に攻略される。
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9月11日
・北條氏政、太田康資に辛垣山・日尾・天神山の攻略を伝う
*
9月13日
・家康、西三河を平定。
松平元康(20、家康)が東条城の吉良義昭を攻め、西三河を平定する。
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9月18日
・小早川隆景、赤間関に着陣。水軍500隻・小早川勢1万が着陣。
後、毛利隆元、8千を率い防府の大専坊に本陣をおく。
毛利氏方堀立壱岐守・杉彦三郎ら800、関門海峡を渡り門司城に入城。
*
9月22日
・絵師・土佐光茂、正親町天皇筆の般若心経に金銀泥絵を描く。
*
9月28日
・信長、美濃堂洞城の斉藤方岸勘解由らを攻め、これを落とす。
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10月1日
・武田信玄、碓氷郡松井田城(安中市松井田町)城主諏訪宰相宛て書状で、今度出陣するので「先約」に相違なきようにといい、もし事前に露見し在所を退去せざるを得ない場合は、信濃で300貫文与えると述べる。
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10月13日
・松永久秀、南都眉間寺を廃し、多聞山城を築く。4層の天守閣が作られる。
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10月21日
・フランス、僧侶、身分、国庫への財政的援助に同意するポワシー協定が成立。
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10月24日
・尼子義久、日御碕社小野政光に出雲の宇竜浦の支配権を安堵。
宇竜浦での北国船諸役は政光の処置に委任、唐船着岸のとき尼子氏御用の物を除き諸役については政光が指示、と定める。
永禄6年5月にも尼子氏老臣より政光に宛てて、北国船・北国船問職・唐船着岸について同様の指示をする。
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10月31日
・フランス、ギーズ兄弟、王弟アンリ(3世)誘拐計画、失敗(ギーズ兄弟、フランスがカルヴァン主義の国家になることを恐れ、アンリを人質に 取る計画)。
カトリーヌ・ド・メディチ、ギーズ兄弟を憎悪。
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2011年6月4日土曜日
八重のドクダミが咲いた
庭の片隅に珍しい八重のドクダミが咲きました。
今のところ一輪だけですが、まだ蕾が幾つかあります。
というとで、その一輪だけを角度を変えて撮ったものです。
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「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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今のところ一輪だけですが、まだ蕾が幾つかあります。
というとで、その一輪だけを角度を変えて撮ったものです。
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樋口一葉日記抄 明治27年(1894)6月(22歳) 「唯目の前の苦をのがるゝが為に、婦女の身として尤も尊ぶべきこの操をいかにして破らんや。」(樋口一葉「水の上日記」)
一葉一家は明治27年5月1日、龍泉寺町での雑貨・駄菓子商の店をたたみ本郷丸山福山町に転居します。
一葉はこの終焉の地である丸山福山町で「奇跡の十四箇月」といわれる大飛躍を遂げます。
龍泉寺町時代の日記は「塵の中」と名付けられていましたが、丸山福山町時代の日記は「水の上」と名付けられます。
前者は吉原に隣接する貧民街での生活、後者は池の上に建てられていた家屋にちなんで付けられたもの。
「水の上」は不確かな生活=「漂う」という意味も込められていたのかも知れません。
ただ、「水の上日記」は最初の一冊分と思われる部分が散逸しており、現存しているのは転居より1ヶ月後の6月4日から始まっています。
*
*
明治27年(1894)6月4日
この日、一葉は妹邦子と師の中島歌子の母のお墓に参る。
続けて、この間の久佐賀義孝とのやり取りが記されている。
*
そもそもの久佐賀とのつきあいの初めはコチラをご参照下さい。
(「一葉、起死回生の捨身の戦術に出る」)
*
○概要:
久佐賀は、
「歌道熱心のため苦労しているのが憐れであるから、成業の暁まで自分が面倒をみよう。
その代り君が一身を我に委ねてもらいたい」(「妾になれ」)といってくる。
一葉は、
「かのしれ物、わが本性を何と見たのか」と憤慨しながらも、
「我を大事をなすに足りると見るならば、扶助を与え給え。
しかし我を女と見て怪しき筋を考えるなら、お断りする」と返事する。
しかし、憤慨はしても、種を蒔いたのは一葉なのである。
久佐賀にしてみたら、挑発したのはそっちだろう、と思っているのではないか。
このグズグズの関係は、まだ少し続くようだ。
*
●「水の上日記」
「かつて天啓顕真術会本部長と聞えし久佐賀のもとに物語しける頃、その善と悪とはしばらく問はず、此世に大(おほい)なる目あてありて、身を打すてつゝ一事に尽すそのたぐひかとも聞けるに、さてあまたゝびものいふほどに、さても浅はかな小さきのぞみを持ちて、唯めの前の分厘にのみまよふ成けり。
かゝるともがらと大事を談(はな)したらんは、おきな子にむかひて天を論ずるが如く、労して遂に益なかるべし。
おもへは我れも、敵(かたき)をしらざるのはなはだしさよと、我れをさへあざけらる。
○(現代語)
以前に天啓顕真術会本部長の久佐賀という人を訪ねて話したことがあった。
その善悪はしばらくおくとして、この世に大きな目的を持ち、身を捨てて邁進するような人と思ったが、何度も話しているうちに、あきれはてたつまらない小さな望しか持たない、目前の僅かな事にばかり迷うような人間であった。
このような人物を相手に大事を語ったのは、幼児を相手に天を論ずるような、全く苦労ばかり何の益もないことだった。
今思えば、相手を見る眼が無かったと、自分のことを嗤ってしまう。
*
●「水の上日記」
九日成(なり)けん、久佐賀より書状来る。
「君が歌道熱心の為に、しか困苦せさせ給ふさまの、我一身にもくらべられていと憐(あはれ)なれば、その成業(せいげふ)の暁(あかつき)までの事は、我れに於て、いかにも為して引受ペし。
され共(ども)、唯一面の識(みしり)のみにて、かゝる事を、『たのまれぬ』とも、『たのみたり』ともいふは、君にしても心ぐるしかるべきに、いでや、その一身をこゝもとにゆだね給はらずや」と、
厭ふべき文の来たりぬ。
「そもや、かのしれ物、わが本性をいかに見けるにかあらん。
世のくだれるをなげきて、こゝに一道の光をおとさんとこゝろざす我れにして、唯目の前の苦(くるしみ)をのがるゝが為に、婦女(おんな)の身として尤(もつと)も尊ぶべきこの操をいかにして破らんや。
あはれ笑ふにたえたるしれものかな。
さもあらはあれ、かれも一派の投機師(やまし)なり。一言一語を解きざる人にもあらじ」とて、かへしをしたゝむ。
「一道を持て世にたゞんとするは、君も我れも露ことなる所なし。
我れが今日までの詞(ことば)、今日までの行(おこなひ)、もし大事をなすにたると見給はゞ、扶助を与へ給へ。
われを女と見て、あやしき筋になど思し給はらは、むしろ一言にことはり給はんにはしかず。
いかにぞや」とて、明らかに決心をあらはして、かなたよりの返事をまつ。
*
○(現代語)
九日だったか、久佐賀から手紙が来た。
「貴女が歌道に熱心に努力している為にひどく困窮していることが、私自身の身にも考え合わせられて、気の毒に思う。その成果がでるまで、私が何とか引き受け致しましょう。
しかし、一面識の間柄で、こんな事を頼まれたり、頼んだりということも、貴女としても心苦しいでしょうから、そこで、貴女の一身を私に任せませんか」という嫌らしい文面であった。
一体あの不届き者は私の本性をどう見ているのか。
世の中が衰えて行くのを欺き、そこの一筋の光をともそうとしているこの私が、ただ目前の困窮のから逃れるために、女にとって最も尊い操を、どうして破ることが出来ようか。
笑うに笑えないほどのの不届き者だ。
ただ、そうは言っても、彼も一箇の相場師だ。こちらの一言一語が分からない人でもあるまいと思って、返事を書く。
「専門の道によって世のために尽くそうということでは、あなたも私も違いはない。
私の今日までの言葉や、今日までの行いを見て、もし大事をなすに足ると思うなら援助を下さい。
私を女とだけ見て、怪しげな事を考えているなら、むしろきっぱり断って下さい。どうでしょうか」
と、はっきり決心を書いて、返事を待つことにした。
*
●「水の上日記」
文(ふみ)を出すの夜、返事来る。おなじ筋にまつはりて、にくき言葉どもをつらねたる。
「今は又かへしせじ」とて、そのまゝになす。
*
○(現代語)
手紙を出したその夜に返事が来た。
同じことを書き、不愉快な言葉を並べている。
もう返事など出さないと決め、そのままにする。
*
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「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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一葉はこの終焉の地である丸山福山町で「奇跡の十四箇月」といわれる大飛躍を遂げます。
龍泉寺町時代の日記は「塵の中」と名付けられていましたが、丸山福山町時代の日記は「水の上」と名付けられます。
前者は吉原に隣接する貧民街での生活、後者は池の上に建てられていた家屋にちなんで付けられたもの。
「水の上」は不確かな生活=「漂う」という意味も込められていたのかも知れません。
ただ、「水の上日記」は最初の一冊分と思われる部分が散逸しており、現存しているのは転居より1ヶ月後の6月4日から始まっています。
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明治27年(1894)6月4日
この日、一葉は妹邦子と師の中島歌子の母のお墓に参る。
続けて、この間の久佐賀義孝とのやり取りが記されている。
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そもそもの久佐賀とのつきあいの初めはコチラをご参照下さい。
(「一葉、起死回生の捨身の戦術に出る」)
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○概要:
久佐賀は、
「歌道熱心のため苦労しているのが憐れであるから、成業の暁まで自分が面倒をみよう。
その代り君が一身を我に委ねてもらいたい」(「妾になれ」)といってくる。
一葉は、
「かのしれ物、わが本性を何と見たのか」と憤慨しながらも、
「我を大事をなすに足りると見るならば、扶助を与え給え。
しかし我を女と見て怪しき筋を考えるなら、お断りする」と返事する。
しかし、憤慨はしても、種を蒔いたのは一葉なのである。
久佐賀にしてみたら、挑発したのはそっちだろう、と思っているのではないか。
このグズグズの関係は、まだ少し続くようだ。
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●「水の上日記」
「かつて天啓顕真術会本部長と聞えし久佐賀のもとに物語しける頃、その善と悪とはしばらく問はず、此世に大(おほい)なる目あてありて、身を打すてつゝ一事に尽すそのたぐひかとも聞けるに、さてあまたゝびものいふほどに、さても浅はかな小さきのぞみを持ちて、唯めの前の分厘にのみまよふ成けり。
かゝるともがらと大事を談(はな)したらんは、おきな子にむかひて天を論ずるが如く、労して遂に益なかるべし。
おもへは我れも、敵(かたき)をしらざるのはなはだしさよと、我れをさへあざけらる。
○(現代語)
以前に天啓顕真術会本部長の久佐賀という人を訪ねて話したことがあった。
その善悪はしばらくおくとして、この世に大きな目的を持ち、身を捨てて邁進するような人と思ったが、何度も話しているうちに、あきれはてたつまらない小さな望しか持たない、目前の僅かな事にばかり迷うような人間であった。
このような人物を相手に大事を語ったのは、幼児を相手に天を論ずるような、全く苦労ばかり何の益もないことだった。
今思えば、相手を見る眼が無かったと、自分のことを嗤ってしまう。
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●「水の上日記」
九日成(なり)けん、久佐賀より書状来る。
「君が歌道熱心の為に、しか困苦せさせ給ふさまの、我一身にもくらべられていと憐(あはれ)なれば、その成業(せいげふ)の暁(あかつき)までの事は、我れに於て、いかにも為して引受ペし。
され共(ども)、唯一面の識(みしり)のみにて、かゝる事を、『たのまれぬ』とも、『たのみたり』ともいふは、君にしても心ぐるしかるべきに、いでや、その一身をこゝもとにゆだね給はらずや」と、
厭ふべき文の来たりぬ。
「そもや、かのしれ物、わが本性をいかに見けるにかあらん。
世のくだれるをなげきて、こゝに一道の光をおとさんとこゝろざす我れにして、唯目の前の苦(くるしみ)をのがるゝが為に、婦女(おんな)の身として尤(もつと)も尊ぶべきこの操をいかにして破らんや。
あはれ笑ふにたえたるしれものかな。
さもあらはあれ、かれも一派の投機師(やまし)なり。一言一語を解きざる人にもあらじ」とて、かへしをしたゝむ。
「一道を持て世にたゞんとするは、君も我れも露ことなる所なし。
我れが今日までの詞(ことば)、今日までの行(おこなひ)、もし大事をなすにたると見給はゞ、扶助を与へ給へ。
われを女と見て、あやしき筋になど思し給はらは、むしろ一言にことはり給はんにはしかず。
いかにぞや」とて、明らかに決心をあらはして、かなたよりの返事をまつ。
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○(現代語)
九日だったか、久佐賀から手紙が来た。
「貴女が歌道に熱心に努力している為にひどく困窮していることが、私自身の身にも考え合わせられて、気の毒に思う。その成果がでるまで、私が何とか引き受け致しましょう。
しかし、一面識の間柄で、こんな事を頼まれたり、頼んだりということも、貴女としても心苦しいでしょうから、そこで、貴女の一身を私に任せませんか」という嫌らしい文面であった。
一体あの不届き者は私の本性をどう見ているのか。
世の中が衰えて行くのを欺き、そこの一筋の光をともそうとしているこの私が、ただ目前の困窮のから逃れるために、女にとって最も尊い操を、どうして破ることが出来ようか。
笑うに笑えないほどのの不届き者だ。
ただ、そうは言っても、彼も一箇の相場師だ。こちらの一言一語が分からない人でもあるまいと思って、返事を書く。
「専門の道によって世のために尽くそうということでは、あなたも私も違いはない。
私の今日までの言葉や、今日までの行いを見て、もし大事をなすに足ると思うなら援助を下さい。
私を女とだけ見て、怪しげな事を考えているなら、むしろきっぱり断って下さい。どうでしょうか」
と、はっきり決心を書いて、返事を待つことにした。
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●「水の上日記」
文(ふみ)を出すの夜、返事来る。おなじ筋にまつはりて、にくき言葉どもをつらねたる。
「今は又かへしせじ」とて、そのまゝになす。
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○(現代語)
手紙を出したその夜に返事が来た。
同じことを書き、不愉快な言葉を並べている。
もう返事など出さないと決め、そのままにする。
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昭和16年(1941)6月1日 「わが思想とわが藝術も願くばこの佛蘭西あぢさゐの如くなれかし。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
永井荷風「断腸亭日乗」をすこしづづご紹介してます。
今回は、昭和16年6月1日~10日。
荷風の季節感覚と、喰い物の怨みというか、当時の食糧事情の一端がわかります。
昭和16年(1941)6月1日
六月初一 日曜日 舊五月七日 西洋紫陽花コバルト色に染(そま)り出しぬ。この花もと日本の紫陽花を佛蘭西の土に移植ゑしなりと云ふ。花の色その葉の色ともに淡くやはらかなり。三年前或人鉢植の一株を贈りくれしなり。庭におろして既に年を経たれば花の色も今年あたりは日本在来のものに化し終るならむと思ひしに、始めて見し時のうつくしさを保ちたり。
わが思想とわが藝術も願くばこの佛蘭西あぢさゐの如くなれかし。
午後雨ふりしが夜は空晴れて月出でたり。
*
6月3日
・六月初三。晴れて蒸暑し。夜芝ロの金兵衛に夕飯を喫す。
飲食店夜十一時かぎり燈を消さゞるところにはこの頃巡査入り來りて客を拘引する由。女連の客と見れば愈きびしく尋問する由。
平素羨怨措く能はざる悪感情をかゝる時規則を楯に取りて腹いせするものなるぺし。
役人根性ほど浅間しきものはなし。
*
6月4日
六月初四。早朝庭に出で椎の落葉を焚く。
雀人に馴れて毎朝勝手口につどひ來りて洗ひながしの米を啄む。雀も今は閉口して南京米をいとはざるやうになりしにや。憐むべきなり。
午睡中大聲に人を呼ぶ女の聲をきゝ驚き起つて見るに銀座裏岡崎といふ居酒屋のかみさんなり。今年より盆廻りを一卜月繰上げたるなりと言へり。・・・
*
6月6日
六月初六。昨夜深更より風雨。東南より襲來る。薄暮空晴れ半月あきらかなり。
初更金兵衛に至り夕飯を喫す。葛粉一袋越後小春町産金参圓なり。金兵衛のかみさん余がために新潟よりつてをたよりて購ひ求めしなりと云ふ。
新政以後東京市内にて葛を賣るところ一軒もなし。
*
6月7日
六月七日。晴。晡下散歩。池之端揚出しにて夕飯を食す。
豆腐料理品切なり。この店にても既にかくの如し。市中に豆腐なきこと推して知るべし。
*
6月8日
六月八日 日曜日 晴。晡下銀座を過るにこの日は牛肉屋休なれば天ぷら屋天國其他蕎麥屋の店口に散歩の家族男女事務員らしきもの列をなして押合へるを見る。全く餓鬼道の光景なり。
*
6月9日
・六月九日。晴。晡下土州橋。浅草に飰す。寺嶋町を歩みでかへる。
*
6月10日
六月十日。晴。午後房陽漁史来訪。閑話半日。黄昏共に出でゝ芝口の牛肉店今朝に飰す。
牛肉雞肉いづれも品不足のため毎月四回休業。猶午後は毎日閉店する由女中の談なり。
*
*
「★永井荷風インデックス」をご参照下さい。
*
今回は、昭和16年6月1日~10日。
荷風の季節感覚と、喰い物の怨みというか、当時の食糧事情の一端がわかります。
昭和16年(1941)6月1日
六月初一 日曜日 舊五月七日 西洋紫陽花コバルト色に染(そま)り出しぬ。この花もと日本の紫陽花を佛蘭西の土に移植ゑしなりと云ふ。花の色その葉の色ともに淡くやはらかなり。三年前或人鉢植の一株を贈りくれしなり。庭におろして既に年を経たれば花の色も今年あたりは日本在来のものに化し終るならむと思ひしに、始めて見し時のうつくしさを保ちたり。
わが思想とわが藝術も願くばこの佛蘭西あぢさゐの如くなれかし。
午後雨ふりしが夜は空晴れて月出でたり。
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6月3日
・六月初三。晴れて蒸暑し。夜芝ロの金兵衛に夕飯を喫す。
飲食店夜十一時かぎり燈を消さゞるところにはこの頃巡査入り來りて客を拘引する由。女連の客と見れば愈きびしく尋問する由。
平素羨怨措く能はざる悪感情をかゝる時規則を楯に取りて腹いせするものなるぺし。
役人根性ほど浅間しきものはなし。
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6月4日
六月初四。早朝庭に出で椎の落葉を焚く。
雀人に馴れて毎朝勝手口につどひ來りて洗ひながしの米を啄む。雀も今は閉口して南京米をいとはざるやうになりしにや。憐むべきなり。
午睡中大聲に人を呼ぶ女の聲をきゝ驚き起つて見るに銀座裏岡崎といふ居酒屋のかみさんなり。今年より盆廻りを一卜月繰上げたるなりと言へり。・・・
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6月6日
六月初六。昨夜深更より風雨。東南より襲來る。薄暮空晴れ半月あきらかなり。
初更金兵衛に至り夕飯を喫す。葛粉一袋越後小春町産金参圓なり。金兵衛のかみさん余がために新潟よりつてをたよりて購ひ求めしなりと云ふ。
新政以後東京市内にて葛を賣るところ一軒もなし。
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6月7日
六月七日。晴。晡下散歩。池之端揚出しにて夕飯を食す。
豆腐料理品切なり。この店にても既にかくの如し。市中に豆腐なきこと推して知るべし。
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6月8日
六月八日 日曜日 晴。晡下銀座を過るにこの日は牛肉屋休なれば天ぷら屋天國其他蕎麥屋の店口に散歩の家族男女事務員らしきもの列をなして押合へるを見る。全く餓鬼道の光景なり。
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6月9日
・六月九日。晴。晡下土州橋。浅草に飰す。寺嶋町を歩みでかへる。
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6月10日
六月十日。晴。午後房陽漁史来訪。閑話半日。黄昏共に出でゝ芝口の牛肉店今朝に飰す。
牛肉雞肉いづれも品不足のため毎月四回休業。猶午後は毎日閉店する由女中の談なり。
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「★永井荷風インデックス」をご参照下さい。
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2011年6月3日金曜日
江戸城 東御苑 二の丸庭園のサツキが満開
これまで、二の丸庭園のショウブをご紹介してきましたが、(コチラ) と (コチラ)
実は、下の写真のように二の丸池の周辺のサツキが満開です。
写真は5月31日のものですが、昨日見たところでは、全く変わってませんでした。
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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実は、下の写真のように二の丸池の周辺のサツキが満開です。
写真は5月31日のものですが、昨日見たところでは、全く変わってませんでした。
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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2011年6月2日木曜日
東京 江戸城 東御苑 二の丸庭園のハナショウブ(花菖蒲) (2)
今日(6月2日)は一日中雨。
この雨で政変線香花火も消えてしまった?
いえいえ消したのは、「友愛」政治家ハトヤマ氏。
今回の田舎芝居、出演者皆が夫々傷ついているのに、この方だけが無傷。
タニガキ氏も危ない。
民主党にしても、一時の正面衝突回避がベストの「解」ではあるまい。
有期(有限)内閣が出来たと云うことだけれど、その「期限」の解釈を巡っても既に色々あるようだ。
カン氏、ハトヤマ氏に向って「トラスト・ミー」とでも言ったのか、どうやら双方の意志の伝わり方が違っていたようだ。
ショボいおハナシではある。
ドロ沼への一歩
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さて、今日の昼休み、江戸城へ。
以下、ショウブの今日(6月2日)状況です。
ピークは6月10日以降じゃないでしょうか。
▼猿踊
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▼滋賀の浦波
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▼十二単
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▼日出鶴
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▼波乗舟
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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この雨で政変線香花火も消えてしまった?
いえいえ消したのは、「友愛」政治家ハトヤマ氏。
今回の田舎芝居、出演者皆が夫々傷ついているのに、この方だけが無傷。
タニガキ氏も危ない。
民主党にしても、一時の正面衝突回避がベストの「解」ではあるまい。
有期(有限)内閣が出来たと云うことだけれど、その「期限」の解釈を巡っても既に色々あるようだ。
カン氏、ハトヤマ氏に向って「トラスト・ミー」とでも言ったのか、どうやら双方の意志の伝わり方が違っていたようだ。
ショボいおハナシではある。
ドロ沼への一歩
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さて、今日の昼休み、江戸城へ。
以下、ショウブの今日(6月2日)状況です。
ピークは6月10日以降じゃないでしょうか。
▼猿踊
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▼滋賀の浦波
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▼十二単
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▼日出鶴
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▼波乗舟
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2011年6月1日水曜日
東京 江戸城 東御苑 アジサイも咲き始めた
今日(6月1日)は一日中曇天。
昼休み、昨日に続いて江戸城へ。
本丸広場石室あたりに、アジサイが咲き始めています。
昨日のハナショウブ(コチラ)はまだまだほんの咲き始めですが、このアジサイは勢いよく咲いています。
(ただし、本丸跡の裏、北桔橋門近くのアジサイはまだ咲いていません)
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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昼休み、昨日に続いて江戸城へ。
本丸広場石室あたりに、アジサイが咲き始めています。
昨日のハナショウブ(コチラ)はまだまだほんの咲き始めですが、このアジサイは勢いよく咲いています。
(ただし、本丸跡の裏、北桔橋門近くのアジサイはまだ咲いていません)
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カン氏の後は、大連立?
デジャブ・・・という程ではない。まだ記憶に残っている。
昨年の民主党代表選の際、カン氏は代表になってまだ3ヶ月、変えるにはまだ早い、
との意見が代表選の勝敗を左右した。
決して、カン氏の人柄、政策、指導力を評した結果ではない。
今回もまた、
カン氏の人柄、政策、指導力を評価してではなく、
未曽有の災害が起きた今、変える時期ではないというのが、不信任案に反対する意見の大半のようだ。
カン氏の思いつき政策は、挙げればキリがない。
つい先頃の「太陽光構想」だって、「人生不条理」経産相カイエダ氏は初耳だったとか(5月28日「朝日」)。
4月23日付け「朝日」掲載の田原総一郎の意見によれば、
田原氏は、大震災後の大変な時期に政争なんてとんでもないと思っている。だけど・・・、あれこれ考えた末に、カン氏ではだめだという結論を出したという。
カン氏には求心力がなさすぎる。
オザワ氏を露骨にじわじわと追い詰め、一方でヨサノ氏を入閣させる、その「仲間」感覚。
(これが、カイエダ氏をして「人生不条理」といわしめた)
もちろん、徒手空拳、親からのジバン・カンバン・カバンなしで、一国の宰相に上りつめた「実力」と「運」の持ち主ではある(あった)のだろう。
しかし、遂にそれも使い果たしたか?
それも、自分の蒔いた種である。
*
*
自民党は、
不信任が否決されても、最低限、民主党をヘトヘトにさせておいて、大連立でイニシアチブをとる、
そんな作戦かなと思うのだけれど・・・。
*
*
大連立には反対だ。
その先にある、ウムを言わせぬ増税、福祉切り捨てが、見え見えだ。
(復興負担は、出来る力のある層から応分にするべきだ)
しかし、風向きがそっちの方に向いているように思えてならない。
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昨年の民主党代表選の際、カン氏は代表になってまだ3ヶ月、変えるにはまだ早い、
との意見が代表選の勝敗を左右した。
決して、カン氏の人柄、政策、指導力を評した結果ではない。
今回もまた、
カン氏の人柄、政策、指導力を評価してではなく、
未曽有の災害が起きた今、変える時期ではないというのが、不信任案に反対する意見の大半のようだ。
カン氏の思いつき政策は、挙げればキリがない。
つい先頃の「太陽光構想」だって、「人生不条理」経産相カイエダ氏は初耳だったとか(5月28日「朝日」)。
4月23日付け「朝日」掲載の田原総一郎の意見によれば、
田原氏は、大震災後の大変な時期に政争なんてとんでもないと思っている。だけど・・・、あれこれ考えた末に、カン氏ではだめだという結論を出したという。
カン氏には求心力がなさすぎる。
オザワ氏を露骨にじわじわと追い詰め、一方でヨサノ氏を入閣させる、その「仲間」感覚。
(これが、カイエダ氏をして「人生不条理」といわしめた)
もちろん、徒手空拳、親からのジバン・カンバン・カバンなしで、一国の宰相に上りつめた「実力」と「運」の持ち主ではある(あった)のだろう。
しかし、遂にそれも使い果たしたか?
それも、自分の蒔いた種である。
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自民党は、
不信任が否決されても、最低限、民主党をヘトヘトにさせておいて、大連立でイニシアチブをとる、
そんな作戦かなと思うのだけれど・・・。
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大連立には反対だ。
その先にある、ウムを言わせぬ増税、福祉切り捨てが、見え見えだ。
(復興負担は、出来る力のある層から応分にするべきだ)
しかし、風向きがそっちの方に向いているように思えてならない。
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