2023年5月27日土曜日

〈藤原定家の時代373〉建仁3(1203)年1月21日~2月16日 定家の体調、やや回復 定家、「予、独リ絶望ス。浮生幾春ゾ」と悲観し「近日官途無遮大会たり、無縁一路此の恩に漏る」と不平を洩す 九条道家(良経の子)元服 定家、参仕する      

 


〈藤原定家の時代372〉建仁3(1203)年1月2日~20日 正月早々から『吾妻鏡』に比企氏事件を想起させる不吉な託宣の話題 定家の体調不良続く 連日「心神殊に悩む」 定家、「権門女房」(卿局=卿三位藤原兼子)の専横を歎く 定家、為家着袴の儀に「感悦す」 より続く

建仁3(1203)年

1月21日

・巳の時以後に灸治。腹三所の中、左の方、堪えきれず、全部を終えず中止する。(『明月記』)

1月22日

・心神すこぶるよろし。(『明月記』)

1月24日

・毎日、護身を加う。(『明月記』)

1月25日

・俊成来訪。(『明月記』)

1月26日

・為家を帥殿の宅に向わせる。(『明月記』)

1月28日

・病気すこぶる平常に似たり。良経、明日病を扶けて参ずべしと仰せらる。参上の旨答える。(『明月記』)

1月29日

・藤原宗頼(50)没

1月29日

・三条坊門の良経の許に向い、御前に参ず。行幸の間、権亮を扶持するよう仰せられ、式次第を授けられる。権亮殿と中門に向う。儀式の後、良経が御休所におわします間、病の後、心神違例といえども、人なきにより祇候。(『明月記』)


2月3日

・藤原経通、上臈8人を越えて蔵人頭となる。

定家は、中納言二人闕により天下の人々競ってこれを望み東西奔走するが、「予、独リ絶望ス。浮生幾春ゾ」と悲観し、「近日官途無遮大会(むしゃだいえ)たり、無縁一路此の恩に漏る」と不平を洩す。

「無遮大会(単に無遮会とも)」とは、「通俗・貴賎・上下の別なく、来集した全ての人々に一切平等に財と法を施す法会」(『広辞苑』)のことであるから、官途の機会は誰にでもあるはずなのに、自分にはそれがない、と欺いているのである。むろん「無遮大会」は反語として用いられている。

2月4日

・北条義時(41)、鶴岡宮に参詣する千幡(頼家の弟、実朝)を扶持す。

2月4日

・参院。家長言う、和歌所を渡された、今日着座すべしと。相共に其の座に着す。束の弘御所の南面である。馬場殿におわしますの後、退出。中納言中将良輔参ず。すなわち幣車を引き入る。同乗せしめ給い、良経の許に参ず。近日行政の間の事を申さんと欲す。習い申さしめ給う。有家参ず。同じくその間の事を申す。深更、御共して退出し、家に帰る。(『明月記』)

2月6日

・午の時許りに参院。馬場殿におわしますの後、退出、慈円の吉永御房に参じ、見参の後に退出し、良経の許に参ず。若君の御元服、来る十三日と。(『明月記』)

2月8日

・灸治。殊に堪え難し。出で行かず。(『明月記』)

2月9日

終日、病み臥す。(『明月記』)

2月10日

・灸の跡に膏薬をつける。(『明月記』)

2月11日

・天晴れ雪飛ぶ。巳の時許りに院に参ず。良経院参。しばらくして退下。招請に依り、公経の冷泉亭に向い、清談移漏して帰る。夜に入り、家司忠弘の父死去するの由を聞く。(『明月記』)

2月12日

・夕に、相扶けて良経の許に参じ、昏黒に追出して、九条に宿る。明月の若君御元服、女院に於て行わると。(『明月記』)

2月13日

・九条道家(良経の子)元服。

定家、良経男道家元服に参仕。

乗燭以後、女院の寝殿に参上す。定家に、能季が、ただいま若君の御装束の間、御帯をとり忘れ、周章極まりなしとささやく。この懈怠を聞き、定家は早速、中御門大納言の後家の尼公に帯を借りて進める。人々驚感する。加冠は内大臣である。御服は主上のを賜る。式終って、門のところより逐電し冷泉に帰る。灸治を扶け出仕、窮屈極まりないので、常に閑所にいたので、次第を見落すこと多し。(『明月記』)

2月15日

・参院。終日、日﨟。又良経の許に参ず。俄に御院参すべしと。退出し、夕に帰参、御供して子夜(しや、真夜中)に退下す。(『明月記』)

2月16日

「御鞠有り。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく

2023年5月26日金曜日

「経団連の会長の言っていることを聞いていたら日本は滅びる」「世も末」 島根県・丸山知事 少子化対策の財源「社会保険料上乗せ」「消費税」議論を批判(山陰放送);「社会保険、具体的には医療保険だと思うが、個人で月500円上乗せをする。人頭税みたいですよね。サッチャーが目指した人頭税。著しく逆進性が強い負担・やり方で適当でないと思います」  

〈藤原定家の時代372〉建仁3(1203)年1月2日~20日 正月早々から『吾妻鏡』に比企氏事件を想起させる不吉な託宣の話題 定家の体調不良続く 連日「心神殊に悩む」 定家、「権門女房」(卿局=卿三位藤原兼子)の専横を歎く 定家、為家着袴の儀に「感悦す」

 


〈藤原定家の時代371〉建仁2(1202)年閏10月24日~12月26日 定家(41)左近衛権中将 藤原良経、内覧・氏長者、摂政 僧文覚を配流地の土佐より召還 より続く

建仁3(1203)年

1月

・明恵上人(31)、春日明神の神託により天竺行を中止。

1月2日

「将軍家若君(一幡君)鶴岡宮に御奉幣。神馬二疋を奉らる。御神楽を行わるるの処、大菩薩巫女に託し給いて曰く、今年中、関東に事有るべし。若君家督を継ぐべからず。岸上の樹その根すでに枯れ、人これを知らずしてただ梢緑持つと。その後将軍家隼人入道が宅に御行始め。この所に於いて御鞠始め有り。」(「吾妻鏡」同日条)。

不吉な託宣。

この日、将軍家の若君(一幡)が鶴岡へ参詣したおり巫女を介し御託があった。

今年中に関東においては事件があり、若君は家督を継ぐことが出来ず、あたかも岸上の樹木の根枯れを気付いていないが如きであるという。

『吾妻鏡』は大事件の前には、概してこうした予兆を語る場面が少なくなく、その点では、この話も後になって比企氏事件との脈絡から創り上げられた可能性が高い。正月段階でこうした託宣があったとすれば、それは、反頼家派の策謀という見方ができる。

1月2日

「天晴。夜、雪地ニ積ム。未ノ時許リニ、院ニ参ズ(今日、螺鈿ノ剣ヲ帯ス)。春宮ノ方ニ参ジ、女房ニ謁シテ退出ス。承明門院ニ参ジ、女房ニ謁シテ退出ス。法性寺殿ニ参ズ。旧裏荘厳ヲ増シ、目ヲ悦バンムニ足ル。申シ入レテ退出スルノ間、侍久言ヲ以テ、暫ク候スべキ由ヲ仰セラル。召シ有りテ御前ニ参ズ。仰セテ云フ、今ニ於テハ、人ニ逢フコト思ヒ寄ラザル身卜雖モ、今日ハ猶、人ニ成リ返リテ、祝言ヲ申サル。寿老ハ入道ニ同ジク、官ハ祖父ニ超越スベシト。次デ、昨日ノ事等ヲ、尋ネ仰セラル。粗々之ヲ申ス。」(『明月記』)

1月3日

「晴れ、比の日叙位なり」(『玉葉』最後の記述)。兼実55歳。

1月8日

・慈円の御房に参じ、見参して退出し聖議院の宮に参じ、家に帰る。心神快からず

夜に入り、良経に参ず。今夜、初の御堂参りである。御供するが、心神殊に悩むにより、早く退出。腹張して苦しむ。(『明月記』)

1月9日

・早旦、高倉中将・少将来りて坐す。尼上の方に於て、相謁す。和歌の会に、両人題を給わる。(『明月記』)

1月10日

心神殊に悩む。召しにより、構え扶けて、良経の許に参ず。申の時許りに退出、病みて臥す。(『明月記』)

1月11日

・除目始めにて、構え扶けて、良経の許に参じ、御供して参院。神泉苑に御幸の後、女房に謁せしめ給う。昏に臨みて御参内、申し文を撰し終らる。心神殊に悩み、退出す。右大弁除目を伺い見るべき由、かねての日語らる。よって、南掩いの御簾の中を以て、密々これに入る。(『明月記』)

1月12日

心神殊に悩む。今夜法性寺に御幸。(『明月記』)

1月13日

所労によりて出仕せず。午の時許りに、聞書到来す。除目ひとえに叡感より出づと。建久の間に、入道殿下御直言、時儀に叶わず。時移るの後、去年に至り、なお内府権を執る。憚り思し食すの間、除目の面なお尋常。今に於ては、権門の女房ひとえに以て申し行う。殿下の御力及ばざるか。後鑒恥ずべき者なり。大納言又あまつさえ八人を任ず。今夜、宜秋門院の女房、法性寺に参ず、出車を献ず。供すべきの由、仰せらるるといえども、所労により参ずるあたわず。(『明月記』)

(除目が偏えに叡慮(後鳥羽院の意向)に出ることは分っている。建久の頃は入道殿下(兼実)が直言されたが、時儀に叶わなかった(改められなかった)。時移り去年までは内府(通親)が執権したが、それでも思召(叡慮)を憚り、除目はなお尋常であった。しかし今は権門の女房(卿三位のこと)が勝手に申し行ない殿下(左大臣良経)の力が及ばないか。これは後の世のためにも恥ずべきことである)

「権門女房」=卿局(卿三位藤原兼子)は上皇の近臣藤原宗頼の妻となって、上皇に夫婦して影響をあたえた(『愚管抄』)

1月15日

・京極殿初度歌合。定家、所労のため不参

今夜、京極殿初度の御会、御遊あるべしと、所労ついに参ずるあたわず。壮年の人々、和歌を送らる。面々問答す。良経御書を賜う。出席の人、良経・太政大臣・内大臣・右大将 (筝)・隆房(和琴)・公継(拍子)・兼宗(拍子)・公経(琵琶)・宗経・資実(序)・経家(笙)・長房・有家・経通(笛)にて、国通・保季・雅経・具親・家隆・定家は、病みて参ぜず。女房は、俊成卿女・宮内卿・越前。御製講師は兼宗。講師は、長房。読師は大相国であった。"

1月16日

病気なお以て不快。この病、ただにあらざるの事、もっとも怖るべき事なり。(『明月記』)

1月17日

・夕に少納言信定来訪。病を扶けて逢う。後鳥羽院、御狩の御幸。(『明月記』)

1月18日

・今日、水無瀬殿に御幸。病によりて参せず、恐れをなす。(『明月記』)。後鳥羽院の水無瀬御幸は27日まで。

1月19日

・長楽寺尼は定家の長年の乳母であり、病気であるが、所労のゆえに見舞に行けぬので、妻を行かせる。二歳より乳母となりてここに四十一年。その娘は、思わざる幸運の人である。申の刻許りに、典薬頭来り、病体を診て、灸点を加う。(『明月記』)

1月20日

「将軍家また善隼人入道が宅に入御す。御鞠有り。」。(「吾妻鏡」同日条)。回数は250回、120回。

1月20日

・為家着袴の儀

今日、為家を着袴させる。出仕しない折りから便宜なしといえども、密々この事を遂ぐ。日来、黄門に申しつけ、院の御服を賜るよう願い出ていて、領状の詞はあったが、まだいただけないので、夜前帥の局に語り、「春宮(皇太子)ノ御服ヲ申シ請」い、今朝これをいただく。寸法ひとつも違わず、為家の身にぴったりである。公経が万事経営した。馬を一匹、公経に贈る。風雨の煩いもなく、感悦す。(『明月記』)


つづく


2023年5月25日木曜日

大船フラワーセンターで開催中の「2023日本の自生アジサイ展」(5/23~28)に行ってきた 2023-05-25

 5月25日(木)晴れ

今日は大船フラワーセンターで開催中の「2023日本の自生アジサイ展」(5/23~28)に行ってきた。テレビ放映されたらしく、失礼ながらここのフラワーセンターにしては凄い混みようだった。

見ごたえのある展示会だった。

以下は、ほんの部分例。

























〈藤原定家の時代371〉建仁2(1202)年閏10月24日~12月26日 定家(41)左近衛権中将 藤原良経、内覧・氏長者、摂政 僧文覚を配流地の土佐より召還 

 


〈藤原定家の時代3470〉建仁2(1202)年9月14日~10月21日 「通親、殊に恩言あり、其の由を知らず。或人密かに語りていう、転任の事、天気快然、丞相毎度遏絶すと。」(『明月記』) 源通親(54)没 後鳥羽院親裁始まる 良経(兼実の次男)摂政氏長者 定家の前途も開けてくる より続く

建仁2(1202)年

閏10月24日

定家(41)、左近衛権中将に任ぜられる。

(文治5年(1189)11月13日、28歳で左近衛少将)

定家の昇任の運動〉

前年、建仁元(1201)年12月6日~12日、寒中、日吉社参籠を行ない祈念。

この年2月22日、藤原兼子(源通親の後妻範子の妹。後鳥羽院の乳母)が病臥と聞き、心ならずも束帯姿で見舞に行き、同3年8月8日、彼女の堂供養に参加して御機嫌をとる。

この年7月22日、内大臣源通親に宛て昇任の申文を認め上申。「寿永二年秋、忝くも仙籍に列して以来、奉公の労二十年・・・(内蔵頭・右馬頭・大蔵卿の何れかを所望)・・・重ねて申入る所に侯なり」。

この月の『明月記』は1日分のみ。閏10月21日付けで、昇進慶賀消息への定家が詠んだ返礼の歌がある。

「閏十月。

慶賀ノ事

右久シク、

鳳闕(ほうけつ)左使ノ旧労ヲ積ミテ、適々虎賁(こほん)中郎ノ朝恩ニ浴ス。自愛極マリ無ク候ノ処、今、賀礼ニ預り、殊ニ感懐ヲ抽ンズ。

立ち昇るたつのこころはをもひやれかひあるみよのわかのうら浪

併(しかしなが)ラ、拝謁ノ次ヲ期ス。恐々謹言。後ノ十月二十一日、左中将定。」(『明月記』)


11月19日

・為家、従五位下に叙される。

11月21日

・頼家の子(のちの公暁、3歳)が初めて鶴岡八幡宮で神拝。

11月27日

・藤原良経、内覧・氏長者となる。

28日、熊野参詣。


12月19日

・定家、日吉社に参籠。~25日。

12月24日

・卯刻、地震・降雪・雷鳴あり。

12月25日

・近衛基通の摂政を停止し、藤原良経が摂政となる。

12月25日

・僧文覚を配流地の土佐より召還。

12月26日

・後鳥羽命により閉門・籠居を命じられた基通、閉門処分を解かれる。嫡子家実も12月23日には出仕を許された(『猪隈関白記』)。

後鳥羽は近衛・九条のどちらに肩入れするわけでもなく、双方の勢力を均衡させ、そのうえで自分が人事権を持つことで、摂関家やそれに従う貴族たちを自分の下に統制しようとしていた。

一般に、摂関家は忠通の息子の基実・基房・兼実がそれぞれ摂関になったことから分立したといわれるが、法住寺合戦で師家が摂政になると基通が没落し、義仲滅亡後は基通が返り咲いて基房・師家が没落したように、三つの家系は同時に併存することはなかった。これは保元の乱前、摂関家の後継者の地位をめぐって忠通と頼長が争ったのと同じで、ここまでは唯一の後継者の地位(嫡流)を三つの家系が争っていたにすぎなかった。

ところが、後鳥羽は近衛・九条両をともに摂関家として処遇した。摂関家領をめぐる争いに敗れ、嫡流を象徴する家産を持つことができなかった九条家は、本来ならば、建久7年の政変後、没落し、二度と摂関を誰出しなくてもおかしくなかった。だが、後鳥羽によって摂関家としての家格の維持を許されることで、ここに新たな摂関家としての九条家が確立した。


つづく

2023年5月24日水曜日

【追及・大阪万博】万博総合プロデューサーが連日開いていた「東京の一等地で深夜0時までの豪華誕生パーティ」の中身と参加者(現代ビジネス) ; アンジェスで有名な大阪大学大学院医学系研究科寄附講座教授の森下竜一(61歳) / 「肩書きがいつのまにか『教授』から『寄付講座教授』に…」「阪大医学部の承認も受けず上場して大問題」安倍政権を後ろ盾にしていた「大阪パビリオン・総合プロデューサー」への疑問(週刊現代)      

 

〈藤原定家の時代3470〉建仁2(1202)年9月14日~10月21日 「通親、殊に恩言あり、其の由を知らず。或人密かに語りていう、転任の事、天気快然、丞相毎度遏絶すと。」(『明月記』) 源通親(54)没 後鳥羽院親裁始まる 良経(兼実の次男)摂政氏長者 定家の前途も開けてくる      

 


〈藤原定家の時代369〉建仁2(1202)年8月27日~9月13日 定家、後鳥羽院の水無瀬御幸に参仕(9/10~16) 「水無瀬殿恋十五首歌合」 「白妙の袖の別れに露落ちて身にしむ色の秋風ぞ吹く(定家)」 より続く

建仁2(1202)年

9月14日

・巳の時許りに、俊成、京に出発した後、御所に参上し、未の時許りに退出。通親、殊に恩言あり、其の由を知らず。或人密かに語りていう、転任の事、天気快然、丞相毎度遏絶(あつぜつ)すと。(『明月記』)

「一四日、俊成が京へ出立したあと御所へ参上したところ、そこでも内府から「殊に恩言」があったという。通親から思いもかけず恩言を受けた定家は「その由を知らず」(何事だろう)と記して不審がっている。」(村井康彦『明月記の世界』)
しかし、ある人が、定家の左中将転任に院の「天気快然」なるも通親に妨げられると語る。

9月15日

「御鞠有り。」(「吾妻鏡」同日条)。回数は230回、160回。

9月15日

・巳の時許りに参上す。灸治術なきにより、今夕、京を出づべき由、存じ候ところ、一昨日の歌合の御沙汰出で来と仰せらるるの聞えあり。

夜に入りて、清範今夜、京を出づべからざるかの由を示す。よって思いとどまる。(『明月記』)
9月16日
・巳の時許りに参上、御歌合の記録を見る。未の時許りに退下して、京を出づ。九条に帰り沐浴。(『明月記』)

9月17日

・冷泉に帰り、午の時許りに嵯峨に行く。(『明月記』)。~22日。

9月18日

・蕭瑟(しょうしつ、秋風がものさびしく吹きすさぶこと)の景気を望み、独り感じ思う。(『明月記』)

9月21日

・頼家、伊豆・駿河両国の狩倉に下向。~29日。

9月22日

・この地の水、もとより多くないので、井戸乾く。灸治をなすに、その水甚だこころよからず。小瘡殊に術なし。よって嵯峨を出て、日没に冷泉に帰る(『明月記』)

9月23日

・女房等、東山に行く。健御前来る。(『明月記』)

9月25日

・竜寿御前渡らる。常光院にまめやかに参ず。(『明月記』)

9月26日
・「若宮撰歌合」。

健御前西の御方に渡らる。すでに以て獲麟し給う。よってかの御許に参ず。女院の仰せという。(『明月記』)
西の御方;後鳥羽院の後宮。藤原信清女で、坊門の局と呼ばれ、隠岐にも従った。

9月27日

・健御前帰らる。(『明月記』)

9月28日

・早旦、若狭の馬を借りて、水無瀬に参ず。健御前、今夜八条殿に参ぜらると。(『明月記』)

9月29日

・「水無瀬桜宮十五番歌合」。

9月30日

・若狭の馬を返す。後鳥羽院、水無瀬より還御。(『明月記』)


10月

『明月記』、10月は日記を欠く。閏10月も、定家が左近衛権中将に任ぜられた折の、何人かの賀礼への返事らしき記述のみ。11月は、1日のみ日記がある。
10月7日
・京都祇園社と清水寺が境界をめぐって争い、延暦寺と興福寺の僧徒がそれぞれの支援に蜂起。

10月8日

「将軍家(御騎馬)俄に隼人入道(三浦康清)が宅に渡御す。庭樹の紅葉艶色を添えるに依ってなり。晴天の後御鞠有り。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月21日
源通親(54)、没。26日、従一位を贈られる。

後鳥羽院の親裁時代始まる。祖父後白河院や源通親の補導のもとに成長し反幕精神は旺盛。倒幕へ傾斜する。

前日に参院するほど元気で、所労のことなど聞かなかったが「頓死」(突然の死)だった。『愚管抄』にも、「フカシギノ事卜人モ思ヘリケリ」と記される。

通親の子孫:
嫡男源通宗は参議になるが建久9年に31歳で没。しかし、その娘源通子と土御門天皇から後嵯峨天皇が誕生し、通親一族は土御門・後嵯峨の2代の天皇の外戚になる。
その後は、新たに台頭した西園寺家に押されて通親時代の繁栄を取り戻す事はないが、通親の子供達(通具・通光(嫡子)・定通・通方)は夫々堀川家・久我家・土御門家・中院家4家を創設、明治維新に至るまで家名を存続させる(また、北畠家は中院家の、岩倉家は久我家の庶流)。
最も歴史に名を残すのは、通親と藤原伊子とに生まれた6男で、幼くして両親を亡くし、出家して道元と名乗る。南宋から帰国して「曹洞宗」を開くのは通親没から24年後。

後鳥羽院は基通に替って九条良経(兼実の次男)を摂政氏長者とする。

藤原定家の前途も開けてくる


つづく

2023年5月23日火曜日

美術家の奈良美智さんよりメッセージ 「入管法政府案に思うこと 、、、、、自由が剝奪され、動物のように扱われる。そのような人間への収容は改善されなければいけないはずだ。、、、、、日本の入管施設の非人道的な収容状況は、収容されている人々の人権を傷つけているだけではなく、日本という国の品位も傷つけている。」       

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子ども予算倍増、30年代前半に 政府目標、追加5兆円弱(共同) / 扶養控除見直し案浮上 18歳まで児童手当拡充の場合 少子化対策(毎日新聞)

〈藤原定家の時代369〉建仁2(1202)年8月27日~9月13日 定家、後鳥羽院の水無瀬御幸に参仕(9/10~16) 「水無瀬殿恋十五首歌合」 「白妙の袖の別れに露落ちて身にしむ色の秋風ぞ吹く(定家)」  

 


〈藤原定家の時代368〉建仁2(1202)年8月13日~26日 定家、新古今集撰歌に集中し、「右ノ目大イニ腫ル。・・・夜前ヨリ蟇ノ如ク腫ル」 定家、かつて式子内親王が呪詛の噂を立てられて、出家するに至ったことを記す より続く

建仁2(1202)年

8月27日

・定家、妻の所縁の尼上が冷泉邸に同居。新仏堂を造って迎える。

健御前、奈良人を相具し、九条に渡らる。

「今夜、坤(ひつじさる、西南)の新屋に尼上渡り宿さる。女房年来この事を懇望す。仍て日来形の如くに造営せしなり。半作と雖も、宿し始められ了んぬ」

為家、なお所悩軽からず、資元朝臣を以て、痢病の祭を修せしむ。(『明月記』)

8月29日

・去る夜の夢に、家長・重輔等があらわれ、家長が定家に鳥の足を与える。定家が食べようとすると、それは雁の足であった。

「雁ノ足は、書帛(しよはく)、愁ヲ述ベテ天子ニ達シ、其ノ賞ヲ蒙ル者ナリ。今、之ヲ得、心中ノ本望叡聞ニ達シ、悉ク成就スベキノミ。忠臣ノ心ヲ表ハシ、聖主ノ恩ヲ蒙ル。何ノ疑ヒカ在ラン。」

(定家の愁いが天子に達する夢占と解く。雁足は、漢の蘇武が匈奴に囚われ、帛(絹)に書いた手紙を雁の足に結んで漢帝に送った故事に基づく。)

夕、九条に向う。奈良人尼上に謁す。

院より清範をもって十五首の題を給わる。明日詠進せよと。(『明月記』)

8月30日

・卯の時、和歌を書きて清範の許に送る。

日吉に参ず。健御前を相具す。竜寿御前又昨日参籠、相謁す。夜に入りて宮廻り、通夜。(『明月記』)


9月1日

・定家、日吉社にて小仏・仏経供養の後、帰京。

9月2日

・定家、八条院の鳥羽院月忌仏事に参仕。終わって、寂連の旧跡に向かい仏事。

院に参ず。退出して八条院に参ず。退出して故寂蓮の旧跡に向う。良経の許に参じ、見参の後、宜秋門院に参じ、九条に宿す。(『明月記』)

9月4日

・心神甚だ悩む。相扶けて院に参ず。(『明月記』)

9月5日

・招請により、典薬頭来る。灸点を加う。馬を引きて与う。(『明月記』)

七ヶ所の灸。馬は治療代である。7日まで灸治。

9月6日

・定家、後鳥羽院より歌合せ二巻(「千五百番歌合」)を賜り、判を付すことを求められる。

今日又、腹股肩などに灸。

「長房朝臣奉行し、歌合二巻をたまはり判を進ずべき由仰せらる。去年の百首歌なり。判者十人と云々。その人を知らず。」(『明月記』)

9月7日

・膝脚などに灸。近日、小瘡甚だ術なし、これ風の致す所か。小浴して発汗。心神殊に悩む。(『明月記』)

9月9日

・定家、越中内侍を通じて、翌日の水無瀬御所への御幸に父子で同行するよう指示され、これを俊成に伝える。また、6日には、前年の「『千五百番歌合」の2巻(「秋四」「冬一」)の歌の判をすべき旨命じられている。

参院。明日、水無瀬一定と。今日、御供人を別に仰せられる由。但し、越中の内侍をもってうかがうの処、参ずべきと仰せられる。又十三夜の歌合の料、俊成参ぜせしめたまうべきの由、仰せ事ありとのことである。よって俊成の許にゆき、この由を申すところ、咳気ありといえども、参候すべぎの由、仰せられる。このこと書を以て越中の内侍に達し帰宅。(『明月記』)

9月10日

「三嶋社祭、江間の四郎主奉幣の御使いたり。今日御鞠三箇度有り。」。(「吾妻鏡」同日条)。回数は、朝270回、160回。昼280回、230回。夕方130回、390回、550回。

北条義時(39)、鶴岡宮放生会に頼家に供奉。

9月10日

・定家、後鳥羽院の水無瀬御幸に参仕。~16日。(院の水無瀬御幸は30日まで)

早旦、法性寺の御堂に参ず。灸治所労のため、仏事不参の由、信光を以て申し入れ退去。九条にて輿に乗り、閑字多幾路(かうだきち)より直ちに水無瀬に参じ、宿所に入る。

未の時許りに参上す。今度は、遊女参ぜず。出でおわしますの後、退下す。(『明月記』)

9月12日

・通夜。早旦、宝寺に行きて沐浴(灸治、術なきにより住僧に語る)。未の時ばかりに宿所に帰る。

酉の時許り、俊成入りおわします。御船を道清法印に借り、御輿にてこれより進め船を下す。すべてのところ甚雨にて漏湿し、甚だ堪え難し。(『明月記』)

9月13日

・夜、『水無瀬殿恋十五首歌合』

前日から俊成が参じ、判者をつとめる。良経・慈円は、この日に参上。歌合終って後帰洛した作者は、後鳥羽院・良経・慈円・公継・俊成卿女・宮内卿・有定・定家・家隆・雅経。講師は、家隆と定家。

「朝、天漸ク晴ル。雲靄、悉ク尽ク。夜、月清明ナリ。巳ノ時許リニ参上ス。人々多ク雁衣ヲ着ス。左大臣殿、御早参アルペシト云々。午終許リニ、布衣ヲ着シテ、頻リニ彼ノ御参リヲ相待タル。遊女ノ宿屋ヲ以テ、彼ノ御休息所トナス。時刻漸ク移ル。申始許リニ、御参りト云々。僧正御房先ヅ参ジ給フ。次デ大臣殿(御車)・有家・資家御共シテ、直チニ弘御所二参ゼシメ給フ。入道殿、早ク参ジ給フベキノ由、仰セ事アリ。頻りニ其ノ由ヲ申ス。御参リノ後、出デオハシマス。

十五首ノ恋歌ヲ合セ講ゼラル。予、例ノ如クニ之ヲ読ム。有家朝臣・雅経伺候ス。作者ノ外、内府着座セラル。漸ク秉燭ニ及ブノ後、評定了り、当座ノ題ヲ出ダサル。小瘡ノ灸治、旁々術無シ。

題、月前秋ノ嵐、水路ノ秋月、暁月ニ鹿ノ声。詠ジ出ダシ了リ、仰セニ依リテ又之ヲ読ミ上グ。又折り句アリ(ジウサムヤ)。十三夜、詠ジ出シ了リテ、又之ヲ讀ミ上グ。又隠シ題アリ。ミナセガハ。又詠ジ出シ、読ミ上ゲ了リテ、入リオハシマス。

人々退出ス。入道殿出デシメ給ヒ訖ンヌ。予、大臣殿ノ御宿所ニ参ズ。御膳アリ(御所ニ儲ケラルト云々)。此ノ間、御馬御牛ヲ引力ル(大臣殿御馬、僧正御房牛)。各々出デテ御覧ズ。長房御使、畏ミ給フ由ヲ申サシメ給ヒテ、還リ入ル。御膳了リテ即チ入ラシメ給フ。騎馬シテ、御船ニ参ズ。下りテ宿所ニ帰ル。心神ナス方無シ。」

白妙の袖の別れに露落ちて身にしむ色の秋風ぞ吹く   定家

面影の霞める月ぞ宿りける春や昔の袖の涙に      俊成卿女

定家の「白妙の袖」は、『新古今集』入集、『新古今集』恋五の巻頭に、院の命によって置かれた幽玄きわまる歌。


つづく