2023年5月24日水曜日

〈藤原定家の時代3470〉建仁2(1202)年9月14日~10月21日 「通親、殊に恩言あり、其の由を知らず。或人密かに語りていう、転任の事、天気快然、丞相毎度遏絶すと。」(『明月記』) 源通親(54)没 後鳥羽院親裁始まる 良経(兼実の次男)摂政氏長者 定家の前途も開けてくる      

 


〈藤原定家の時代369〉建仁2(1202)年8月27日~9月13日 定家、後鳥羽院の水無瀬御幸に参仕(9/10~16) 「水無瀬殿恋十五首歌合」 「白妙の袖の別れに露落ちて身にしむ色の秋風ぞ吹く(定家)」 より続く

建仁2(1202)年

9月14日

・巳の時許りに、俊成、京に出発した後、御所に参上し、未の時許りに退出。通親、殊に恩言あり、其の由を知らず。或人密かに語りていう、転任の事、天気快然、丞相毎度遏絶(あつぜつ)すと。(『明月記』)

「一四日、俊成が京へ出立したあと御所へ参上したところ、そこでも内府から「殊に恩言」があったという。通親から思いもかけず恩言を受けた定家は「その由を知らず」(何事だろう)と記して不審がっている。」(村井康彦『明月記の世界』)
しかし、ある人が、定家の左中将転任に院の「天気快然」なるも通親に妨げられると語る。

9月15日

「御鞠有り。」(「吾妻鏡」同日条)。回数は230回、160回。

9月15日

・巳の時許りに参上す。灸治術なきにより、今夕、京を出づべき由、存じ候ところ、一昨日の歌合の御沙汰出で来と仰せらるるの聞えあり。

夜に入りて、清範今夜、京を出づべからざるかの由を示す。よって思いとどまる。(『明月記』)
9月16日
・巳の時許りに参上、御歌合の記録を見る。未の時許りに退下して、京を出づ。九条に帰り沐浴。(『明月記』)

9月17日

・冷泉に帰り、午の時許りに嵯峨に行く。(『明月記』)。~22日。

9月18日

・蕭瑟(しょうしつ、秋風がものさびしく吹きすさぶこと)の景気を望み、独り感じ思う。(『明月記』)

9月21日

・頼家、伊豆・駿河両国の狩倉に下向。~29日。

9月22日

・この地の水、もとより多くないので、井戸乾く。灸治をなすに、その水甚だこころよからず。小瘡殊に術なし。よって嵯峨を出て、日没に冷泉に帰る(『明月記』)

9月23日

・女房等、東山に行く。健御前来る。(『明月記』)

9月25日

・竜寿御前渡らる。常光院にまめやかに参ず。(『明月記』)

9月26日
・「若宮撰歌合」。

健御前西の御方に渡らる。すでに以て獲麟し給う。よってかの御許に参ず。女院の仰せという。(『明月記』)
西の御方;後鳥羽院の後宮。藤原信清女で、坊門の局と呼ばれ、隠岐にも従った。

9月27日

・健御前帰らる。(『明月記』)

9月28日

・早旦、若狭の馬を借りて、水無瀬に参ず。健御前、今夜八条殿に参ぜらると。(『明月記』)

9月29日

・「水無瀬桜宮十五番歌合」。

9月30日

・若狭の馬を返す。後鳥羽院、水無瀬より還御。(『明月記』)


10月

『明月記』、10月は日記を欠く。閏10月も、定家が左近衛権中将に任ぜられた折の、何人かの賀礼への返事らしき記述のみ。11月は、1日のみ日記がある。
10月7日
・京都祇園社と清水寺が境界をめぐって争い、延暦寺と興福寺の僧徒がそれぞれの支援に蜂起。

10月8日

「将軍家(御騎馬)俄に隼人入道(三浦康清)が宅に渡御す。庭樹の紅葉艶色を添えるに依ってなり。晴天の後御鞠有り。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月21日
源通親(54)、没。26日、従一位を贈られる。

後鳥羽院の親裁時代始まる。祖父後白河院や源通親の補導のもとに成長し反幕精神は旺盛。倒幕へ傾斜する。

前日に参院するほど元気で、所労のことなど聞かなかったが「頓死」(突然の死)だった。『愚管抄』にも、「フカシギノ事卜人モ思ヘリケリ」と記される。

通親の子孫:
嫡男源通宗は参議になるが建久9年に31歳で没。しかし、その娘源通子と土御門天皇から後嵯峨天皇が誕生し、通親一族は土御門・後嵯峨の2代の天皇の外戚になる。
その後は、新たに台頭した西園寺家に押されて通親時代の繁栄を取り戻す事はないが、通親の子供達(通具・通光(嫡子)・定通・通方)は夫々堀川家・久我家・土御門家・中院家4家を創設、明治維新に至るまで家名を存続させる(また、北畠家は中院家の、岩倉家は久我家の庶流)。
最も歴史に名を残すのは、通親と藤原伊子とに生まれた6男で、幼くして両親を亡くし、出家して道元と名乗る。南宋から帰国して「曹洞宗」を開くのは通親没から24年後。

後鳥羽院は基通に替って九条良経(兼実の次男)を摂政氏長者とする。

藤原定家の前途も開けてくる


つづく

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