建仁2(1202)年
8月13日
・定家、新古今集撰歌にあまり集中したために、「(一昨日より)右ノ目大イニ腫(は)ル。・・・・・夜前ヨリ蟇(がま)ノ如ク腫ル」(『明月記』)。
8月14日
・目の腫れ、同じ事なり。(『明月記』)
8月15日
「鶴岡放生会例の如し。将軍家御参宮。」「吾妻鏡」同日条)。
16日「将軍家御参宮無し。馬場の桟敷に於いて流鏑馬ばかりを覧玉うなり。」。(「吾妻鏡」同日条)
8月15日
・和歌所歌合。定家、講師を勤める。
夜に入りて清範告げ送りていう、神泉より還りおわします、和歌所の輩、御尋ねあり、参入すべきかと。只今、参ずる由を申す。
即ち参上す。有家朝臣昼より伺候す。この由を聞こしめす。即ち題を給わる。月前三首(虫・鹿・風)。形の如くにこれを詠み出す。深更に出でおわします。両人を召して歌を置く。予、講師に奉仕す。範光卿一人座に在り(講師)。外人参ぜず。下北面甚だ狼籍の輩多し。勅喚に応じて読み上げ終りて退出す。目いささかよろし。(『明月記』)
8月16日
・良経の御供、度々催しありといえども、所労を申す。心中甚だ冷然たり。老屈、遠路術なきの故なり。(『明月記』)
8月18日
・束帯して院に参ず、巳の時坊城殿に御幸。春宮の御方に参じて退出。参内して陪膳し、家に帰る。(『明月記』)
8月19日
・早旦、嵯峨に向う。草花開き敷き眺望、興を催す。(『明月記』)
8月20日
・定家、院影供歌合、当座歌会、講師を勤める。
西郊より帰る。人々いう、仁和寺の宮、此の両三日、すでに以て前後不覚、しかれども、御息なお絶えずと。
乗燭以前、院に参ず。影供の歌合せなり。歌三題。仰せによりて、講師の座につく。歌三題。読み上げ終りて、評定やや久し。ついで作者をつけ、又これを読む。
ついで当座の題二首。各々置き終り、又仰せによりて参ず。読み上げ終りて退く。即ち入りおわします。人々退去す。(『明月記』)
8月21日
・「御鞠、人数例の如し。」(「吾妻鏡」同日条)。回数は250回、130回。
8月21日
・窮屈によりて出仕せず。(『明月記』)
8月22日
・院に参ず。按察参会す。清談やや久しくして退出す。承明門院に参ず。私に九条の宿所に向う。夜に入り、騎馬して家に帰る。一品の宮御目の病、此の間たちまち御平減。広隆寺より直ちに院の御所におわしますべしと。これらの事、皆故あるか。末代の人口、ただ狂えるが如し。
彼の姫宮、日吉に於て人々を咒咀し奉るの由、権門の辺りの人々謳歌し、披露すと。
「近代ノ生老病死、只悉ク咒咀ノ聞エアリ。咒咀ニアラザレバ、病死ノ恐レナキノ由、人存ズルカ。是レ皆業報ノミ。」。(呪詛ではなく、前世の報いだと、定家は言う)
故斎院、八条殿におわしますの間、思いおわしますにより属事に付け、此の姫宮幷に女院を咒咀し奉る、彼の御悪念、女院御病をなすの由、種々雑人狂言す。これにより、斎院ようやく御同宿なし。押小路殿に於て、御出家の間、故院なお此の事を以て、御不請。次いで、故院の御病最後の間、女院幷に三位の局、咒咀邪気の由、二品謳歌するの旨を示す。式法、筆端に尽し難し。ついで、斎院春宮を迎え奉り給う。この故、二品咒咀するの由を示す。又一品宮・三位中将幷にその御妻、近日連々病悩。これ皆、彼の姫宮の咒咀と。一事以上無益。悲しむべき世なり。抑々、守覚法親王の御病、弟子法親王の方人の咒咀と。末代の極みなり。御祈り、ひとえに祭の祓なり。当世の奇特によりて、年来勝事の一端を記す。なお以て益なし。(『明月記』)
定家は、姫宮が人々を咒咀という、権門の辺りの人々の言を憂える。
かつて(時期不詳)式子内親王にも生涯の痛恨事として咒咀の噂あり、父の後白河さえ、それを疑ったという。式子は幼いころからの斎院であったが、仏教にも帰依しており、この痛恨事を機として出家する。
今度また、守覚法親王の病悩も又咒咀によると風聞、悲しむべきことである。
8月23日
・北条泰時が三浦吉村の娘を妻とした。(『吾妻鏡』)
8月25日
・定家、院が有家を使者として八幡に御製30首を奉納したと聞く。
有家朝臣を以て、御製三十首、八幡に奉られたという。
為家の腹病、六月より、今に平減せず。今日、赤痢の気あり。なす方なきをうらみとなす。(『明月記』)
8月26日
・守覚法親王(53)没
つづく
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