建仁3(1203)年
1月21日
・巳の時以後に灸治。腹三所の中、左の方、堪えきれず、全部を終えず中止する。(『明月記』)
1月22日
・心神すこぶるよろし。(『明月記』)
1月24日
・毎日、護身を加う。(『明月記』)
1月25日
・俊成来訪。(『明月記』)
1月26日
・為家を帥殿の宅に向わせる。(『明月記』)
1月28日
・病気すこぶる平常に似たり。良経、明日病を扶けて参ずべしと仰せらる。参上の旨答える。(『明月記』)
1月29日
・藤原宗頼(50)没
1月29日
・三条坊門の良経の許に向い、御前に参ず。行幸の間、権亮を扶持するよう仰せられ、式次第を授けられる。権亮殿と中門に向う。儀式の後、良経が御休所におわします間、病の後、心神違例といえども、人なきにより祇候。(『明月記』)
2月3日
・藤原経通、上臈8人を越えて蔵人頭となる。
定家は、中納言二人闕により天下の人々競ってこれを望み東西奔走するが、「予、独リ絶望ス。浮生幾春ゾ」と悲観し、「近日官途無遮大会(むしゃだいえ)たり、無縁一路此の恩に漏る」と不平を洩す。
「無遮大会(単に無遮会とも)」とは、「通俗・貴賎・上下の別なく、来集した全ての人々に一切平等に財と法を施す法会」(『広辞苑』)のことであるから、官途の機会は誰にでもあるはずなのに、自分にはそれがない、と欺いているのである。むろん「無遮大会」は反語として用いられている。
2月4日
・北条義時(41)、鶴岡宮に参詣する千幡(頼家の弟、実朝)を扶持す。
2月4日
・参院。家長言う、和歌所を渡された、今日着座すべしと。相共に其の座に着す。束の弘御所の南面である。馬場殿におわしますの後、退出。中納言中将良輔参ず。すなわち幣車を引き入る。同乗せしめ給い、良経の許に参ず。近日行政の間の事を申さんと欲す。習い申さしめ給う。有家参ず。同じくその間の事を申す。深更、御共して退出し、家に帰る。(『明月記』)
2月6日
・午の時許りに参院。馬場殿におわしますの後、退出、慈円の吉永御房に参じ、見参の後に退出し、良経の許に参ず。若君の御元服、来る十三日と。(『明月記』)
2月8日
・灸治。殊に堪え難し。出で行かず。(『明月記』)
2月9日
・終日、病み臥す。(『明月記』)
2月10日
・灸の跡に膏薬をつける。(『明月記』)
2月11日
・天晴れ雪飛ぶ。巳の時許りに院に参ず。良経院参。しばらくして退下。招請に依り、公経の冷泉亭に向い、清談移漏して帰る。夜に入り、家司忠弘の父死去するの由を聞く。(『明月記』)
2月12日
・夕に、相扶けて良経の許に参じ、昏黒に追出して、九条に宿る。明月の若君御元服、女院に於て行わると。(『明月記』)
2月13日
・九条道家(良経の子)元服。
定家、良経男道家元服に参仕。
乗燭以後、女院の寝殿に参上す。定家に、能季が、ただいま若君の御装束の間、御帯をとり忘れ、周章極まりなしとささやく。この懈怠を聞き、定家は早速、中御門大納言の後家の尼公に帯を借りて進める。人々驚感する。加冠は内大臣である。御服は主上のを賜る。式終って、門のところより逐電し冷泉に帰る。灸治を扶け出仕、窮屈極まりないので、常に閑所にいたので、次第を見落すこと多し。(『明月記』)
2月15日
・参院。終日、日﨟。又良経の許に参ず。俄に御院参すべしと。退出し、夕に帰参、御供して子夜(しや、真夜中)に退下す。(『明月記』)
2月16日
「御鞠有り。」(「吾妻鏡」同日条)。
つづく
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