2023年5月25日木曜日

〈藤原定家の時代371〉建仁2(1202)年閏10月24日~12月26日 定家(41)左近衛権中将 藤原良経、内覧・氏長者、摂政 僧文覚を配流地の土佐より召還 

 


〈藤原定家の時代3470〉建仁2(1202)年9月14日~10月21日 「通親、殊に恩言あり、其の由を知らず。或人密かに語りていう、転任の事、天気快然、丞相毎度遏絶すと。」(『明月記』) 源通親(54)没 後鳥羽院親裁始まる 良経(兼実の次男)摂政氏長者 定家の前途も開けてくる より続く

建仁2(1202)年

閏10月24日

定家(41)、左近衛権中将に任ぜられる。

(文治5年(1189)11月13日、28歳で左近衛少将)

定家の昇任の運動〉

前年、建仁元(1201)年12月6日~12日、寒中、日吉社参籠を行ない祈念。

この年2月22日、藤原兼子(源通親の後妻範子の妹。後鳥羽院の乳母)が病臥と聞き、心ならずも束帯姿で見舞に行き、同3年8月8日、彼女の堂供養に参加して御機嫌をとる。

この年7月22日、内大臣源通親に宛て昇任の申文を認め上申。「寿永二年秋、忝くも仙籍に列して以来、奉公の労二十年・・・(内蔵頭・右馬頭・大蔵卿の何れかを所望)・・・重ねて申入る所に侯なり」。

この月の『明月記』は1日分のみ。閏10月21日付けで、昇進慶賀消息への定家が詠んだ返礼の歌がある。

「閏十月。

慶賀ノ事

右久シク、

鳳闕(ほうけつ)左使ノ旧労ヲ積ミテ、適々虎賁(こほん)中郎ノ朝恩ニ浴ス。自愛極マリ無ク候ノ処、今、賀礼ニ預り、殊ニ感懐ヲ抽ンズ。

立ち昇るたつのこころはをもひやれかひあるみよのわかのうら浪

併(しかしなが)ラ、拝謁ノ次ヲ期ス。恐々謹言。後ノ十月二十一日、左中将定。」(『明月記』)


11月19日

・為家、従五位下に叙される。

11月21日

・頼家の子(のちの公暁、3歳)が初めて鶴岡八幡宮で神拝。

11月27日

・藤原良経、内覧・氏長者となる。

28日、熊野参詣。


12月19日

・定家、日吉社に参籠。~25日。

12月24日

・卯刻、地震・降雪・雷鳴あり。

12月25日

・近衛基通の摂政を停止し、藤原良経が摂政となる。

12月25日

・僧文覚を配流地の土佐より召還。

12月26日

・後鳥羽命により閉門・籠居を命じられた基通、閉門処分を解かれる。嫡子家実も12月23日には出仕を許された(『猪隈関白記』)。

後鳥羽は近衛・九条のどちらに肩入れするわけでもなく、双方の勢力を均衡させ、そのうえで自分が人事権を持つことで、摂関家やそれに従う貴族たちを自分の下に統制しようとしていた。

一般に、摂関家は忠通の息子の基実・基房・兼実がそれぞれ摂関になったことから分立したといわれるが、法住寺合戦で師家が摂政になると基通が没落し、義仲滅亡後は基通が返り咲いて基房・師家が没落したように、三つの家系は同時に併存することはなかった。これは保元の乱前、摂関家の後継者の地位をめぐって忠通と頼長が争ったのと同じで、ここまでは唯一の後継者の地位(嫡流)を三つの家系が争っていたにすぎなかった。

ところが、後鳥羽は近衛・九条両をともに摂関家として処遇した。摂関家領をめぐる争いに敗れ、嫡流を象徴する家産を持つことができなかった九条家は、本来ならば、建久7年の政変後、没落し、二度と摂関を誰出しなくてもおかしくなかった。だが、後鳥羽によって摂関家としての家格の維持を許されることで、ここに新たな摂関家としての九条家が確立した。


つづく

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