建仁3(1203)年
1月
・明恵上人(31)、春日明神の神託により天竺行を中止。
1月2日
「将軍家若君(一幡君)鶴岡宮に御奉幣。神馬二疋を奉らる。御神楽を行わるるの処、大菩薩巫女に託し給いて曰く、今年中、関東に事有るべし。若君家督を継ぐべからず。岸上の樹その根すでに枯れ、人これを知らずしてただ梢緑持つと。その後将軍家隼人入道が宅に御行始め。この所に於いて御鞠始め有り。」(「吾妻鏡」同日条)。
不吉な託宣。
この日、将軍家の若君(一幡)が鶴岡へ参詣したおり巫女を介し御託があった。
今年中に関東においては事件があり、若君は家督を継ぐことが出来ず、あたかも岸上の樹木の根枯れを気付いていないが如きであるという。
『吾妻鏡』は大事件の前には、概してこうした予兆を語る場面が少なくなく、その点では、この話も後になって比企氏事件との脈絡から創り上げられた可能性が高い。正月段階でこうした託宣があったとすれば、それは、反頼家派の策謀という見方ができる。
1月2日
「天晴。夜、雪地ニ積ム。未ノ時許リニ、院ニ参ズ(今日、螺鈿ノ剣ヲ帯ス)。春宮ノ方ニ参ジ、女房ニ謁シテ退出ス。承明門院ニ参ジ、女房ニ謁シテ退出ス。法性寺殿ニ参ズ。旧裏荘厳ヲ増シ、目ヲ悦バンムニ足ル。申シ入レテ退出スルノ間、侍久言ヲ以テ、暫ク候スべキ由ヲ仰セラル。召シ有りテ御前ニ参ズ。仰セテ云フ、今ニ於テハ、人ニ逢フコト思ヒ寄ラザル身卜雖モ、今日ハ猶、人ニ成リ返リテ、祝言ヲ申サル。寿老ハ入道ニ同ジク、官ハ祖父ニ超越スベシト。次デ、昨日ノ事等ヲ、尋ネ仰セラル。粗々之ヲ申ス。」(『明月記』)
1月3日
「晴れ、比の日叙位なり」(『玉葉』最後の記述)。兼実55歳。
1月8日
・慈円の御房に参じ、見参して退出し聖議院の宮に参じ、家に帰る。心神快からず。
夜に入り、良経に参ず。今夜、初の御堂参りである。御供するが、心神殊に悩むにより、早く退出。腹張して苦しむ。(『明月記』)
1月9日
・早旦、高倉中将・少将来りて坐す。尼上の方に於て、相謁す。和歌の会に、両人題を給わる。(『明月記』)
1月10日
・心神殊に悩む。召しにより、構え扶けて、良経の許に参ず。申の時許りに退出、病みて臥す。(『明月記』)
1月11日
・除目始めにて、構え扶けて、良経の許に参じ、御供して参院。神泉苑に御幸の後、女房に謁せしめ給う。昏に臨みて御参内、申し文を撰し終らる。心神殊に悩み、退出す。右大弁除目を伺い見るべき由、かねての日語らる。よって、南掩いの御簾の中を以て、密々これに入る。(『明月記』)
1月12日
・心神殊に悩む。今夜法性寺に御幸。(『明月記』)
1月13日
・所労によりて出仕せず。午の時許りに、聞書到来す。除目ひとえに叡感より出づと。建久の間に、入道殿下御直言、時儀に叶わず。時移るの後、去年に至り、なお内府権を執る。憚り思し食すの間、除目の面なお尋常。今に於ては、権門の女房ひとえに以て申し行う。殿下の御力及ばざるか。後鑒恥ずべき者なり。大納言又あまつさえ八人を任ず。今夜、宜秋門院の女房、法性寺に参ず、出車を献ず。供すべきの由、仰せらるるといえども、所労により参ずるあたわず。(『明月記』)
(除目が偏えに叡慮(後鳥羽院の意向)に出ることは分っている。建久の頃は入道殿下(兼実)が直言されたが、時儀に叶わなかった(改められなかった)。時移り去年までは内府(通親)が執権したが、それでも思召(叡慮)を憚り、除目はなお尋常であった。しかし今は権門の女房(卿三位のこと)が勝手に申し行ない殿下(左大臣良経)の力が及ばないか。これは後の世のためにも恥ずべきことである)
「権門女房」=卿局(卿三位藤原兼子)は上皇の近臣藤原宗頼の妻となって、上皇に夫婦して影響をあたえた(『愚管抄』)
1月15日
・京極殿初度歌合。定家、所労のため不参。
今夜、京極殿初度の御会、御遊あるべしと、所労ついに参ずるあたわず。壮年の人々、和歌を送らる。面々問答す。良経御書を賜う。出席の人、良経・太政大臣・内大臣・右大将 (筝)・隆房(和琴)・公継(拍子)・兼宗(拍子)・公経(琵琶)・宗経・資実(序)・経家(笙)・長房・有家・経通(笛)にて、国通・保季・雅経・具親・家隆・定家は、病みて参ぜず。女房は、俊成卿女・宮内卿・越前。御製講師は兼宗。講師は、長房。読師は大相国であった。"
1月16日
・病気なお以て不快。この病、ただにあらざるの事、もっとも怖るべき事なり。(『明月記』)
1月17日
・夕に少納言信定来訪。病を扶けて逢う。後鳥羽院、御狩の御幸。(『明月記』)
1月18日
・今日、水無瀬殿に御幸。病によりて参せず、恐れをなす。(『明月記』)。後鳥羽院の水無瀬御幸は27日まで。
1月19日
・長楽寺尼は定家の長年の乳母であり、病気であるが、所労のゆえに見舞に行けぬので、妻を行かせる。二歳より乳母となりてここに四十一年。その娘は、思わざる幸運の人である。申の刻許りに、典薬頭来り、病体を診て、灸点を加う。(『明月記』)
1月20日
「将軍家また善隼人入道が宅に入御す。御鞠有り。」。(「吾妻鏡」同日条)。回数は250回、120回。
1月20日
・為家着袴の儀
今日、為家を着袴させる。出仕しない折りから便宜なしといえども、密々この事を遂ぐ。日来、黄門に申しつけ、院の御服を賜るよう願い出ていて、領状の詞はあったが、まだいただけないので、夜前帥の局に語り、「春宮(皇太子)ノ御服ヲ申シ請」い、今朝これをいただく。寸法ひとつも違わず、為家の身にぴったりである。公経が万事経営した。馬を一匹、公経に贈る。風雨の煩いもなく、感悦す。(『明月記』)
つづく
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