2009年1月10日土曜日

「元日」物語(5)

「黙翁年表」の元日分ピックアップ。あと100年分で終わる。
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1848年
イタリア、オーストリア支配下ロンバルト・ヴェーネト王国、ミラノ、一斉禁煙運動。3日、市民と墺軍衝突。死者5、負傷59。
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ニューヨークの亡命者グループ、キューバ人評議会結成。ガスパル・ベタンクール・シスネロス、ホセ・アニセト・イスナガら中心、マダン総裁。「真実」発刊、「5万の”アメリカ人”が白人救出のためにキューバに上陸してくる」と宣伝。奴隷制擁護と併合主義の論陣を張る。
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1854(嘉永7)年
水戸藩主徳川慶篤、あらかじめ米艦の再来を藩士に告げて戒め、冗費節約・武備厳修を徹底させる。
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1857年
クララ・シューマン(36)、家計の為にコンサートピアニストとしての演奏活動再開。この日はライプツィッヒ・ゲヴァントハウスでの演奏。
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1858(安政5)年
堀田正睦、一橋慶喜に斉昭の暴言につき申入れ。2日、慶喜、堀田正睦の懇願により小石川邸に行き、前月29日の斉昭の勘定奉行川路聖謨・同永井尚志への暴言を諌める。4日、川路・永井・岩瀬、一橋邸訪問。慶喜、斉昭の堀田宛詫び状を使者川路・永井に託す。慶喜、川路聖謨に能装束を与う。
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1859(安政6)年
高杉晋作(21)、従兄弟南亀五郎に書状を送り30歳まで妻帯しないと宣言。
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1860(安政7)年
この日~3月末、久坂玄瑞、再び日記をつけはじめる(「江月斎日乗」)。
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パリ市域、20区に拡大再編。
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1861年
米、チャールストン、サムター砦への連邦補給船、砲撃され追い返される。
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1862(文久2)年
午前7時、遣欧使節、英国軍艦「オ-デン」で長崎を出帆。
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1863(文久3)年
坂本龍馬(29)、勝の命で、千葉重太郎・近藤長次郎・他1名と大坂へ出立。「龍馬、昶次郎、十太郎(千葉)外一人を大坂へ到らしめ京師に帰す」(海舟日記)。
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1864(文久4)年
川上音二郎、誕生。
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1865(元治2)年
西郷吉之助、広島より小倉に到着。4日、三条らと5卿移転を議論。
同日、徳川慶勝(第1次征長総督)、広島の陣を撤収、帰途につく。
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1866(慶応2)年
坂本龍馬(32)、長府藩主の内命により印藤肇を介して下関福永専助宅で三吉慎蔵と会見、主客鼎座徹宵懇談。2日、三吉慎蔵と引き続き面談、5日迄逗留。10日、三吉慎蔵と共に船で京都へ向け下関発。西郷・木戸間の話合い結果確認の為。この頃、高杉晋作から送別の漢詩を贈られる。
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マルクス(48)、「資本論」浄書・文体手入れ開始。16日、中央委員会会議で自分の代りにロンゲをベルギー担当書記に推し採択される。22日、ポーランド亡命者団体と国際労働者協会とが開催したポーランド革命祝賀会で演説。30日~3月上旬、ねぷとが沢山でき重症。寝たまま「資本論」の仕事。前年までは全3巻を完成させ出版する意向であったが、エンゲルスの勧めで第1巻の浄書が済み次第、印刷に付すことに決める。
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1867(慶応3)年
伊東甲子太郎・永倉新八・斉藤一ら、島原の角屋で酒宴。4日、帰営、謹慎を申し渡される。
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1868(明治元)年
徳川慶喜、大坂で、朝廷の決定も諸国の暴動も薩摩藩奸臣の仕業で、彼らを誅戮したいとの「討薩表」を起草、強硬派の京都進撃を許す。大目付滝川具挙、「討薩の表」を持ち先鋒と共に大坂から北上開始。
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討薩表。
 「臣慶喜、謹んで去月九日以来の御事体を恐察し奉り候得ば、一々朝廷の御真意にこれ無く、全く松平修理大夫(薩摩藩主島津忠義)奸臣共の陰謀より出で候は、天下の共に知る所、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨、却盗に及び候儀も、全く同家家来の唱導により、東西饗応し、皇国を乱り候所業別紙の通りにて、天人共に憎む所に御座候間、前文の奸臣共御引渡し御座候様御沙汰を下され、万一御採用相成らず候はゞ、止むを得ず誅戮を加へ申すべく候。 
罪状書 
一、大事件は衆議を尽すと仰出され候処、九日突然に非常の御改革を口実に致 し、幼帝を侮り奉り、諸般の御所置私論を主張候事。 
一、主上御幼冲の折柄、先帝御依託あらせられ候摂政殿下を廃し参内を止め候事。 一、私意を以て、宮・堂上方を恣に黜陟せしむる事。 
一、九門其の外御警衛と唱へ、他藩の者を煽動し、兵仗を以て宮闕に迫り候条、 朝廷を憚からざる大不敬の事。 
一、家来共、浮浪の徒を語合い、屋敷へ屯集し、江戸市中押込み強盗いたし、 酒井左衛門尉人数屯所え発砲・乱妨し、其の他野州・相州処々焼討却盗に及 び候は証跡分明にこれ有り候事」(「続徳川実記」)。
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兵庫沖、榎本艦隊(「開陽」「蟠竜」「翔鶴」「富士山」「順動丸」5隻)、薩摩汽船(「平運」「春日丸」)を砲撃、平運丸損傷。
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1869(明治2)年
観音崎の日本最初の燈明台(燈台の呼称は明治5年)、完成点灯。
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1870(明治3)年
長州藩吉田・船木で一揆。12日、長州藩熊毛郡岩田村で一揆。13日、州藩大森県浜田で一揆。
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マルクス、ジュネーブのバクーニン派「エガリテ」紙が総務委員会を攻撃したのに対し、総務委員会特別会議でジュネーブのラテン系スイス人連合委員会に宛てて回答書草案を提出。採択。8日まで草案に手を入れ、16日、国際労働者協会各支部に送付。
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1871(明治4)年
山川健二郎、アメリカ留学へ出発、横浜港。
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ドイツ帝国(第2帝政)発足。プロイセン中核の連邦国家「ドイツ帝国」成立。ヴェルサイユ宮殿鏡の間、プロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝即位。
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ドイツ帝国憲法:
北ドイツ連邦を代表するプロイセン王と南ドイツ4ヶ国君主の同盟という形をとり、内容は1867年成立の北ドイツ連邦憲法の延長。北ドイツ連邦憲法もそれを構成する諸国君主及び3都市市政府の同盟という形をとる。そこで連邦首長と云われていた者がここでは皇帝となり、連邦がライヒと呼ばれるようになる(但し帝国議会の名称は北ドイツ連邦の時から用いられている)。新帝国は25の国家(王国4、大公国6、公国5、侯国7、自由市3)と直轄地エルザス・ロートリンゲンより成る連邦で、各国政府代表者から成る連邦参議院と全国民の直接普通選挙による帝国議会がある。
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ドイツ帝国の統一主義と連邦主義との矛盾は、連邦内の1国であるプロイセンが、面積・人口において2/3を占める超大国であることにある。プロイセン王=ドイツ皇帝は憲法に定められているが、皇帝の任命する帝国宰相=プロイセン首相との規定はない。しかし実際には短い期間の例外を除き、帝国宰相=プロイセン首相であり、しかも帝国には内閣制度がなく形の上では宰相の独裁であるので、ドイツの政治がプロイセンによるドイツ征服の観を呈するのは当然。そしてプロイセンは依然三級選挙法の下にユンカー支配が存続している国である。ビスマルク失脚後、ドイツ帝国の矛盾が顕著になり、いわゆる「プロイセン=ドイツ問題」「プロイセンのドイツへの解消」がドイツの良心的知識人の最大の関心事となる。
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アイルランド国教会廃止
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仏、パリ、全20区共和主義中央委員会、全20区代表団という名に変える。
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1873(明治6)年
日本、太陽暦実施
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ブダ、ペシュト合併。ブダペスト、ハンガリー側首都となる
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ゴッホ弟テオ、セント伯父の紹介によりグーピル商会ブリュッセル支店に就職。
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1877年
エンゲルス「反デューリング論」、「フォルヴェルツ」紙(ドイツ社会民主党機関紙)に連載。
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1879年
ブラームス「ヴァイオリン協奏曲」初演。ライプニッツ・ゲバントハウス。ヨハヒム演奏。
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1881(明治14)年
仏、オーギュスト・ブランキ(76)、没。
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1883(明治16)年
鳩山一郎、東京に誕生。
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1885(明治18)年
清国北洋副大臣呉大澂、随員40・護衛兵250で漢城入京。朝鮮政府に譲歩を説く。
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1888年
チャイコフスキー、ライプツィッヒでブラームス、グリークと知合う。
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1890年
ドイツ公使西園寺公望(40)、リューマチを再発し、医師の勧めで南フランスのニースに転地療養中(小林菊子宛の西園寺公望の手紙)。
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1891年
(光緒16年11月21日)醇親王(光緒帝の実父)、没。后党・帝党のパイプ役。
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1893(明治26)年
川上音二郎、単身渡仏。
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1896(明治29)年
衣笠貞之助、誕生。
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1897(明治30)年
尾崎紅葉「金色夜叉」(「読売新聞」連載)。前年7月、巌谷小波が川田綾子に求婚し、長兄が小波が文士であるという理由で拒絶したこと。明治25年秋~27年秋、同じく小波が「京都日出新聞」勤務期間中に、なじみの芝紅葉館の女中須摩子を博文館社主大橋佐平の息子新太郎が金で自由にしたエピソードなどがモチーフ。
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1898(明治31)年
福澤諭吉「福澤全集」発刊。~5月13日、5巻。
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徳冨蘆花(29)、「湘南歳除」(「国民新聞」)掲載。逗子滞在中。以来自然をスケッチした文を多く寄稿し、自然派詩人として目されるようになる。
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ルイジアナ州、「祖父条項」新憲法採択。黒人公民権剥奪目的。'67年1月1日現在、父・祖父が選挙権を持っていた人だけに終身選挙権登録許可。
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1899(明治32)年
「労働世界」に社会主義欄。片山と高野の対立。
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to be continued to 1900 onwards soon

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