12月25日
・日本陸軍、この日予定の広東を目標とする華南方面の上陸作戦を中止。
上陸作戦は台湾で臨時編成した第5軍(第11師団の1個旅団、重藤支隊基幹)を使用して、この日決行の予定。しかし、海軍が、一時は日米開戦の風説さえ流れたバネー号事件の反響に慌て、新たな刺激材料を作りたくないと、急遽中止を申し入れ。陸軍は憤慨するもこれを受け入れる。但し、陸軍も南京での非行を放置すれば、対外関係で動きにくくなると判断。28日の戒告となる。
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・撃墜された日本の爆撃機の調査の為に南京入りした奥宮正武、中国兵の処刑を目撃。27日にも。(「私の見た南京事件」)
「・・・そこには広大な玄武湖があった。ところが、そこで、目もあてられないような惨状を目撃した。湖岸やそこに近い湖上に数え切れないほどの数の中国人の死体が投棄されていたからであった。
・・・このことは、それまでの南京で異常な事態が発生したことを示唆していた(註 十三日、一部の部隊がここで敗残兵を処刑したとの記録があるが、私の見たところではそれだけではないようであった)。・・・下関にはかなり大規模な停車場と開源碼頭(波止場)があった。そこで、その付近を見回っているうちに、陸軍部隊が多数の中国人を文字通り虐殺している現場を見た。
・・・構内の広場に入って見ると、両手を後ろ手に縛られた中国人十数名が、江岸の縁にそって数メートル毎に引き出されて、軍刀や銃剣で惨殺されたのち、揚子江上に投棄されていた。
・・・この一連の処刑は、流れ作業のように、極めて手順よく行なわれていた。大声で指示する人々もいなかった。そのことから見て、明らかに陸軍の上級者の指示によるものであると推察せざるをえなかった。
・・・その日、私は、しばらく一連の処刑を見たほか、合計十台のトラックが倉庫地帯に入るのを確認したのち、現場から退去した。・・・」。
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「十二月二十七日。・・・下関の処刑場に・・・再び、警戒中の哨兵にことわって、門を入ったところ、前々日と同じような処刑が行なわれていた。・・・「日本刀や銃剣で処刑しているのはなぜか」と質間したところ、「上官から、弾薬を節約するために、そうするように命じられているからです」との答が返ってきた。このような処刑が、南京占領から二週間近くを経た後の二十五日と二十七日に手際よく行なわれていた。
・・・この日もまた、一連の処刑が、ある種の統制のとれた行動であるように感じた。私は、この二目間に下関で見た合計約二十台分の、言いかえれぱ、少なくとも合計五百人以上の中国人の処刑だけでも、大虐殺であった、と信じている。もっとも、どれだけの被害者があれば大虐殺であるかについては、人それぞれに見解の相違があるかも知れないが。それらに加えて、玄武湖の湖上や湖岸で見た大量の死体のこととも考え合わせて、正確な数字は分からなかったが、莫大な数の中国人の犠牲者があったのではないか、と考えざるをえなかった。そうだとすれば、それは、明らかに、国際法上の大間題ではないかと思われた。
・・・その後、市の南部にある中華門を出て、雨花台方面を調査したところ、計九名の遺体を発見することができた。二人は九六式艦爆の搭乗員で、七人は九六式陸攻の搭乗員であった。いずれも土葬で、立派な木製の棺に納められていた。私はそのような手厚い取り扱いをしてくれた紅卍会の人々に感謝せずにはいられなかった。・・・」。
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・中国共産党、対時局宣言を発し、遊撃戦の展開・大衆動員を主張。
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・南京、金陵女子文理学院の婦女難民キャンプ開設責任者ミニー・ヴォートリン(51、同学院教授)のこの日の日記。
「クリスマスがきた。街には、いぜんとして殺戮、強姦、略奪、放火がつづき、恐怖が吹き荒れている。ある宣教師は〝地獄の中のクリスマスだ″と言った」
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・トスカニーニとNBC交響楽団の最初のコンサートが放送される。
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12月26日
・駐華ドイツ公使トラウトマン、日本の新4条件を行政院副院長孔祥煕に伝達。
孔はトラウトマソに対し、「日本が提出した条件には思いつくかぎりのすべてのことが含まれている。日本は十個の特殊政権と十個の非軍事区が欲しいとでもいうのだろうか。こんな条件を受け入れられるものはいない。日本は将来に思いを致さなければ自ら滅亡するだろう」といったという(「蒋介石秘録」12)。
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・難民区内で安全区国際委員ベイツらの立会いのもとで「査問工作」。
日本の将校が元兵士でと「自首」すれば米と仕事を与えると説得、男子200~300(殆ど市民)が「自首」し、銃殺される。
「元兵隊であろうがなかろうが、とにかく元兵隊と認定されたものの集団虐殺となったということだ。ここは、捕虜の生命はさしせまった軍事上の必要以外においては保障されるという国際法の条文を語る場所ではないし、日本軍もまた、国際法などは眼中になく、いま南京を占領している部隊の戦友を戦闘で殺したと告白した人間にたいしては復讐すると公然と言明したのである。」(ベイツ)。
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・日本軍、青島の交通遮断宣言
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・第9師団(金沢)、蘇州へ出発
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・第73回議会開院式。
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12月27日
・江浦県、日本軍40が村々を捜索し、農民・難民17を殺害、婦女6人を強姦。(「江浦県誌」)。
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・駐蒙兵団(兵団長蓮沼蕃中将)、関東軍と切離し編成
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・文芸評論家・「東京朝日」嘱託杉山平助、朝7時に車で上海を発ち、夕5時、南京支局に着。
支局は国際難民区の中にあり、「避難民がまはりにいっぱい住んで」おり、「死骸はまだ、いたるところに転がってゐ」た。夜、若い従軍記者がランプの周りで「戦争と人道」を巡り議論を始める。「勝利のためには・・・一切の道徳律は無力であり無能である」と杉山は論じる(「南京」(「改造」38年3月号))。
南京滞在中、「支那人の死骸がツクダニのやうに折り重なった南京の城壁のほとりを、ひとり静かに歩い」た。「南京城内外、鬼哭啾々たるの恨み」を聞く。
「南京の印象は、あまりに強烈だ。私の心はレストレスである。不安である」と、杉山は朝日紙上で告白(38年1月18日)。
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・新京(長春)の日本産業株式会社、満州重工業開発株式会社に改組、満州国特殊法人となる。日産コンツェルンが満州に進出し、「満州国政府」と折半出資(資本金4億5,000万円、総裁鮎川義介)。
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この会社は、満州軽金属、満州自動車などの既設特殊法人を傘下におさめ、その他の既設企業とならんで、「5ヶ年計画」の中心的推進企業となってゆく。
「満業」設立は、満鉄のあり方に大きな改変を加える。即ち、「満業」が持株会社として重工業部ブロックと満鉄が持っている株式譲渡を受けるため、鞍山製鉄所をもつ昭和製鋼所の株式の75%をはじめ、持株会社に投資してきた持株1億890万円を満州国に譲渡し、残った鉄道部門、炭鉱部門、それに製油・中央試験所などを含め調査研究部門を業務の中心におくかたちとなる。
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・内務省警保局、中野重治、宮本百合子、戸坂潤、岡邦雄、鈴木安蔵、堀真琴、林要に執筆禁止措置。
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「一九三七年十二月二十七日、警保局図書課が、ジャーナリストをあつめて懇談会を開く。その席上、ジャーナリストが自発的に執筆させないようにという形で、執筆禁止をした者、作家では中野重治、宮本百合子、評論家では岡邦雄、戸坂潤、鈴木安蔵、堀真琴、林要の七名があった。益々その範囲を拡大するという風評と図書課長談として同様の意こうの洩されたことは、事実指名をされなかった窪川夫妻などの執筆場面をも封鎖した結果になっている。
一月十七日中野重治と自分とが内務省警保局図書課へ、事情をききに出かけた。課長は数日前に更迭したばかりとのことで、事務官が会う。大森義太郎の場合を例にとって、何故彼の映画時評までを禁じたかという、今日における検閲の基準を説明した。それによると、例えば大森氏はその時評の中に、日本の映画理論はまだ出来ていない、しかしと云ってプドフキンの映画理論にふれている。大森氏がプドフキンという名をとりあげた以上、それは日本にどういう種類の映画理論をつくろうとしている意図かということは 『こっちに分る』 のだそうである。又、同じ映画時評の中に、ある日本映画について、農村の生活の悲惨の現実がある以上それを藝術化する当然さについて云っているが、これは、悲惨な日本の農村の生活は『どうなれば幸福になれるかと云っているのだという意味がある』。従って映画時評であっても人によっていけないというわけで云々。
『内容による検閲ということは当然そうなのですが、人民戦線以来、老狡になって文字づらだけではつかまえどこがなくなって来たので・・・』云々。『一番わるく解釈するのです』 本年は憲法発布五十年記念に当る年である。
二月十一日には大祝祭を行うそうである。その年に言論に対する政策が、一歩をすすめ、こういう形にまで立ち到ったことは、実に深刻な日本の物情を語っている。常識の判断にさえ耐えぬ無理の存在することが、執筆禁止の一事実でさえ最も雄弁に告白されているのである」」(宮本百合子「一九三七年十二月二十七日の警保局図書課のジャーナリストとの懇談会の結果」)
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この時、中野重治と宮本百合子は中島健蔵を訪ねるが、よい知恵は出ない。こうして、執筆禁止措置は、抗議も出ぬまま既成事実化される。
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宮本百合子の覚え書の末尾。
「文藝家協会へ行って様子をきいて見た。予想どおりである。大体今回の執筆禁止は文壇をつよく衝撃したが、全般的にはどこやら予期していたものが来た、その連中はやむを得まい、却ってそれで範囲がきまってすこし安心したような気分もあり、だが、拡大するという威嚇で、やはり不安、動揺するという情況である。文藝家協会の理事会は、その動揺さえ感じない、益々わが身の安全を感じて安心している種類らしい。従って、生活問題としても、はっきりそれをとりあげる気組みは持っていないと見られる。文学者の問題として声明を発表するなどということは、存じもよらぬ程度である」。
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中野重治の北川省一宛て葉書、「小生は去る十二月二十七日午後を以て一切の新聞雑誌に一切のものの執筆を禁止されました。小生の文筆業もここにひとまず終りを告げたわけです」(日付けなし、消印不明、年末~年始と推定)。
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中野重治「島木健作氏に答え」(「文藝」38年2月号)のために書いた力作評論が、発表間際に検閲の為に削られる。
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・綿製品ス・フ等混用規則、規制強化。
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・京都帝国大学(京都大学)文学部に日本精神史講座設置。38年1月15日、東京帝国大学(東京大学)に日本思想史講座設置。
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・この日、女優の岡田嘉子が家を出る
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to be continued
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