父信秀についての概要
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○織田信秀
永正7年(1510年)、尾張南西部を支配する海東郡・中島郡に跨る勝幡城(ショウバタ、愛知県愛西市・稲沢市)の織田信定の長男として生まれる。
信定は尾張の守護代織田氏一族で、尾張下四郡守護代「織田大和守家」(清洲織田氏)に仕える庶流として、重臣たる清洲3奉行の1人。
子女は、弟に織田信光。長子織田信広、次男信時、3男(嫡男)信長、信勝(信行)、信包、有楽斎(長益)、市姫他多数。
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信秀/信長以前の織田氏(織田氏のルーツ)はコチラ
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流通拠点を掌握
湊町・津島を支配下に置き、そこからもたらされる恵まれた経済力を後ろ楯に、主家に匹敵するまでに勢力を伸張させる。
天文元年(1532)、主君の尾張守護代織田大和守達勝(ミチカツ)と戦い和睦。
天文2年7月、京都から公家の山科言継と飛鳥井雅綱を居城勝幡城に招いて饗応、言継は信秀と達勝の戦いを記録。
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信秀と今川氏との角逐、挟まれる三河松平氏
天文3(1534)年、今川氏豊の那古野(ナゴヤ)城(名古屋市中区)を奪っ以降、今川氏との角逐が始まり、三河松平氏を間に挟んで激突が繰り返される。愛知郡(名古屋市域周辺)に勢力を拡大。
天文8年(1539年)古渡城(名古屋市中区)、天文17年(1548年)末森城(名古屋市千種区)を築き居城を移す。
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一方の今川義元は、天文5(1536)年、兄氏輝の早世により還俗して家督を継ぎ、翌天文6年、甲斐の武田信虎と結む。これにより、後北条氏との関係が悪化し、北条氏綱は駿河駿東・富士2郡に侵入、以後、義元は今川軍主力を東側に向けざるをえず、手薄になった三河方面に、自立間もない信秀の勢力が浸透。
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氏綱の駿河侵攻はコチラ
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三河は、元来一色氏の守護領国である、永享12(1440)年、一色義貫が第6代将軍義教に暗殺されて以降、阿波守護細川持常(庶流家)の兼帯となるが、応仁の乱後、細川氏が支配権を手放し、東海地方では守護職が最も早く形骸化した地域となる。
しかし、擾頭する国人松平氏の統制力は弱く、大名化にはほど遠い状態で。信秀が尾張で自立化した頃は、三河松平氏は今川義元の保護下(間接支配) にあり、天文6(1537)6月、元服前の松平広忠(家康の父)は、ようやく駿府での人質生活から解放され、岡崎城に入る。
天文9(1540)年6月、信秀は尾張から大軍を率い三河安祥城(愛知県安城市)を攻略、城主松平長家は戦死、織田氏は待望の三河拠点を獲得。
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信秀の三河守任官
伊勢の外宮(ゲグウ、豊受宮)社司の記録「外宮引付」によれば、この頃信秀は外宮仮殿造替費に700貫文を寄進。
外宮は永享年問(1429~41)の最後の式年遷宮以降、造替が途絶え、この頃、せめて仮殿として造替をと、神官たちは朝廷に働きかけ、念願の仮殿遷宮が可能となる。信秀は、これが評価され天文10(1541)9月、三河守に任ぜられる。尚、内宮へは近江守護六角定頼が銭700貫を献金。
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今川義元の親征、小豆坂で信秀に敗れる
天文10(1541)年8月、義元は三河から織田氏を駆逐する為、自身は田原(愛知県田原町)まで親征し、今川軍先鋒は岡崎城外に迫る。信秀はこれを小豆坂(岡崎市)に破る。
岡崎城主松平広忠は、信秀の三河守任官にも拘らず、義元に忠誠を誓っているが、天文12年9月、最も尾張寄りの刈谷城主水野信元が義元に背き、信秀に内通し、広忠は妻の水野氏(家康の母)を離別して水野氏と断絶の意を示す。
天文14(1545)年9月、広忠は矢作川を越え、信秀方の安祥城を攻めるが、信秀が来援し失敗。こうして矢作川以北の西三河は殆ど信秀の支配に帰し、その勢力圏は東三河にも及ぶ。
信秀の三河守任官作戦は奏功し、禁裏に修理料4千貫を献じる。
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「あづき坂合戦の事 八月上旬、駿河衆、三川の国正田原へ取り出で、七段に人数を備へ候、其の折節、三川の内・あん城と云ふ城、織田傭後守かゝへられ侯ひき。駿河の由原先懸けにて、あづき坂へ人数を出だし侯。則ち備後守あん城より矢はぎへ懸け出で、あづき坂にて傭後殿御舎弟衆与二郎殿・孫三郎殿・四郎次郎殿を初めとして、既に一戦に取り結び相戦ふ。其の時よき働きせし衆。織田備後守・織田与二郎殿・織田孫三郎殿・織田四郎次郎殿、織田造酒丞殿、是れは鎗きず被られ・内藤勝介、是れは、よき武者討ちとり高名。那古野弥五郎、清洲衆にて侯、討死侯なり。下方左近・佐々隼人正・佐々孫介・中野又兵衛・赤川彦右衛門・神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口左馬助、三度四度かゝり合ひ貼、折しきて、お各手柄と云ふ事限りなし。前後きびしき様体是れなり。爰にて那古野弥五郎が頸は由原討ち取るなり。是れより駿河衆人数打ち納れ侯なり。」(「信長公記」巻首)。
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義元の巻き返しと松平竹千代の略奪
今川義元は、関東の上杉憲政と結び北条氏康挟撃策が成功、天文14(1545)年、富士川を越境して北条軍を攻撃、駿東・富士2郡を回復し、北条領国の範域を伊豆国境まで押し戻す。
これにより、義元は西部戦線に専念できる態勢となり、天文15年10月、広忠と結び戸田康光の三河吉田城(豊橋市)を陥れ、翌天文16年9月には家臣天野景貫を派遣し広忠を支援し、寵る田原城を落とす。
田原・吉田両城を失った信秀は、同年10月、広忠の同族松平忠倫を手なずけ、岡崎城を攻略させようとするが、広忠は先手を打って忠倫を殺す。
しかし事態がここに至った以上、織田軍の来寇は避けられず、広忠は駿府に援軍を求め、竹千代丸(5歳未満、家康)を質子として義元に差し出すことになる。ところが、竹千代の駿府護送中に、三河国渥美郡の田原城の戸田康光が待ち伏せ、竹千代を略奪、尾張の信秀に送り銭500貫文に換える。信秀は人質竹千代を織田家菩提寺の万松寺に預ける。
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信秀、禁裏に修理料4千貫を献上
これより先の天文8(1539)年8月17日、「百年以来未聞」といわれる大雨洪水が京都を襲い、内裏の建物に大損壊を与える。天皇自ら、「さてはこの御所、大破に及び候」(1544年9月、阿蘇惟豊に下した女房奉書文)と告白。
天文9年3月4日、天皇は関白近衛植家を召し内裏修理を幕府へ申し入れる件につき合意。しかし幕府も、室町第の造営中のため対応できず、同12日、近江守護六角定頼と協議。この結末は不明であるが、豊後の大友氏の許に、この5月、禁裏修理要脚賦課の記録が残っており、将軍義晴は諸大名に献金上納を触れ巡らしたことがわかる。
まず越前の朝倉孝景が、同年9月、この要請に応じ100貫を納入。しかし他の大名は不協力だったようで、9月23日、能登守護畠山義総は幕府に対し、かねて義晴が諸大名に触れてある第6代将軍義教100年忌の仏事銭50貫は納めるが、禁裏修理料は勘弁ほしいと連絡、翌々日、伊勢国司北畠具教も、禁裏修理料は出せぬと申し入れ。
仲介の六角定頼は、「堅く申し下すべく候」「いかようにも思案を加えられ候え」(なんとしても納入するよに)と返事を出すが、納められた形跡はない。
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そのうち、天文10(1541)年8月10日、大風雨が内裏を襲い、陣座・宜陽殿・軒廊・月華門・車寄・外様番所の諸棟が転倒。翌日幕府内談衆(引付衆)らは善後策を協議するが名案なく、洛中の土倉方(金融業者の組合)へ賦課する意見が多数を占めるが、これは先例も実現性もない。
9月20日、天皇は執政細川晴元に修理を内命、晴元は「四方の築垣」をとりあえず請け負う。
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翌天文11年3月、陣座再建が見切り発車し、参議山科言継は、近江坂本に居陣の将軍義晴と天皇の間を周旋するが、結局近江・若狭・能登3ヶ国に修理国役を課することで妥協。義晴宛て女房奉書には、「一向大破に及び候て、今の為躰(テイタラク)は日を増し正体も候わぬまま」(日ごとに崩壊している)と破損状況を報じる。しかし現実にはこの3ヶ国役は殆ど納入されず、修理費献上大名は、天文12年2月織田信秀4千貫(家老平手政秀が上京して進納)、同年今川義元500貫などとなる。
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信秀の献上額4千貫は、一件金額としては天皇家に諸大名から納入された中で最大の金額であり、他に伊勢外宮仮殿造替費も負担していることを考慮すれば、その財力は東国大名中でぬきん出ていたことが知れる。
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朝廷では、信秀の抜群の献金に対し、尾張へ勅使派遣の議が起こり、たまたま、連歌師宗牧の東国遊覧の噂を聞きつけた広橋兼秀が、信秀宛ての女房奉書をことづけることになり、宗牧が臨時勅使として信秀に「叡感」(天皇側の謝意)を伝えることになる(この時の宗牧の紀行文が、「群書類従」にも収められている「東国紀行」)。
天文12年2月、京都出立。10日近く石山寺に滞在、同月末瀬田を出帆、六角氏重臣永原重秀の居館(敦賀県野洲町)に1泊、10月3日、六角定頼の城観音寺(滋賀県安土町)登城し定頼に対面。ここで馳走接待を受け、六角家臣らが引き止めて連歌興行のため滞在。
10月29日、鈴鹿鞍掛越の峠道に入り、11月4日、大泉(三重県員弁町)を経て桑名へ出、翌5日、ここから織田家の川舟で津島(勝幡城の外港、愛知県津島市)に1泊。6日は信秀の城下那古野に到着、登城し、信秀に面謁して、宸翰の女房奉書や「古今集」写本などを手渡す。
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信秀は9月23日、美濃稲葉山城に斎藤利政(道三)を攻めるが、利政は朝倉教景の来援を受け、信秀は大敗北を喫しからくも身一つ逃れ去るという苦汁を嘗めており、信秀は宗牧に、「今度は、思いがけず一身助かったのは、この宸翰を拝領するためであった。織田家の面目、これに過ぎるものはない。美濃攻めは、将来本望を達することもあれば、その折重ねて御修理の内命を頂きたい。天子様には宜しくお伝えを。」と語る。
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宗牧は熟田宮社参、連歌興行など行い、桑名へ戻り、伊勢浜田(三重県明和町浜田)で閏11月4日連歌会、伊勢湾を海路知多大野(常滑市大野)へ渡り、常滑から再び海路知多半島を回航して三河大浜(碧南市大浜)に上陸。ところの住職の言では、「数年合戦が続き、ことに敵の城ほど近く、毎日足軽などが不意に攻めてきます」と、慢性的な尾張と三河の戦乱状態をかこつ。閏11月14日、岡崎城主松平広忠へ人伝てに預かってきた女房奉書を渡す(広忠が朝廷の内命に応じて、禁裏料所の年貢を納入したことを褒めた内容)。宗牧は、これで大役を果たし、東国へと旅立つ。
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「美濃国へ乱入し五千討死の事 さて、備後殿(信秀)は国中を憑み勢をなされ、一ヶ月は美濃国へ御働き、又翌月は三川の国へ御出勢。或る時、九月三日、尾張国中の人数を御憑みなされ、美濃国へ御乱入、在々所々放火侯て、九月廿二日、斎藤山城道三が居城稲葉山の山下村々に推し詰め、焼き払ひ、町口まで取り寄せ、既に晩日申刻に及び、御人数引き退かれ、諸手半分ばかり引取り侯所へ、山城道三焜と南へ向かつて切りかゝり、相支へ候と雖も、多人数くづれ立の間、守備の事叶はず、備後殿御舎弟織田与次郎・織田因幡守・織田主水正・青山与三右衛門・千秋紀伊守・毛利十郎・おとなの寺沢又八舎弟毛利藤九郎・岩越喜三郎を初めとして、歴々五千ばかり討死なり。」(「信長公記」巻首」)。
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義元の軍師、駿河臨済寺禅僧太原崇孚(雪斎)の軍略
崇孚は天文14(1545)年正月、天皇から妙心寺の居公文(イナリノクモン、赴任せず辞令だけ受け取る住持)に勅請されるほどの高僧。
天文17(1548)3月、義元の要請で出陣した崇孚は、6年前に今川軍が信秀に敗北した小豆坂で戦って勝利。天文18年3月、広忠が松平家の内紛から暗殺され、今川氏の三河支配終焉が懸念されるが、同年11月9日、崇孚は、織田信広(信秀の一族)の安祥城を攻略、信広を生けどりにし、更に続けて同月23日、三河上野城も攻め落とす。
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このように西三河で武威を示しておいて、崇孚は尾張古渡城の信秀に、竹千代と信広の交換を提案、これが容れられ、同月末竹千代(7歳未満)は岡崎に戻り、再び駿府に送られる。
信秀は、次第に今川・斎藤・国内の敵などに包囲され、苦しめられるようになり、天文18年(1549)、子の信長と斎藤道三の娘濃姫を政略結婚させることで斎藤家とは和睦。
今川氏との対立は尚も続き苦しめられる中、天文20年(1551年)3月3日、流行病により末森城で急没(42)。
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信秀(42)没
「備後守病死の事 一、備後守殿疫癘に御悩みなされ、様々の祈祷、御療治侯と雖も、御平愈なく、終に三月三日、御年四十二と申すに、御遷化。・・・」(「信長公記」巻首)。没年は、天文18、20、21年説あり。また、天文18年没し、天文21年葬儀との説もあり。
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こうして信秀は、主家の尾張守護代「織田大和守家」への臣従関係は保ちながらも、主家やその主君である尾張守護斯波氏をも上回り、弟の織田信康や織田信光ら一門・家臣を尾張の要所に配置し、国内の他勢力を圧倒する地位を築いてゆく。
しかし信秀は晩年まで守護代家臣に甘んじ、尾張国全域を支配することはできなかった。
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信秀没後の義元
三河をほぼ掌握した義元は、尾張辺境を脅かし、天文21(1552)年、信秀没後の混乱に乗じ、尾張村木城・三河小河城などを攻略。
信長は美濃の斎藤利政(道三)の援助を得てようやく撃退するが、相模の北条氏康に誼を通じ、義元もまた武田晴信(信玄)と連携してこれを迎撃。
崇孚は駿河善徳寺に北条・武田の使節を招き、三者の和議が政略婚を媒介にして成立(善徳寺の会盟)。崇字はこの年閏10月に没すが、この遺産によって義元は、西部戦線に全力を傾注することが可能になり、弘治3(1557)年3月迄に品野城(春日井郡)を、永禄2(1559)年8月迄に大高・鳴海の両城(名古屋市)を占取。
「★信長インデックス」をご参照下さい。
to be continued
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