2009年1月15日木曜日

1871年3月24~25日 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・(6)

■1871年3月 ジャコバンの見果てぬ夢か・・「未完の黙翁年表」より
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3月24日
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・仏、パリ第7区庁舎制圧。ヴェルサイユ議会に対するパリ区長たちの調停の試み、失敗。
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・国民軍中央委員会、反革命弾圧の為、断固とした処置をとり、パリの軍事権カをウード、プリュネル、デュヴァル将軍からなる軍事評議会に委ねる決定。元国民軍司令官リュリエ逮捕。
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22、23日は、中央委員会にとって状況は重大になる。
共和主義連合(自由主義的で合法主義的な連合)との間の交渉は失敗。
ブルジョア派大隊は市の中央の一部を占拠し、活発な再組織を実施。
中央委員会支持者、インターナショナル派、監視委員会委員の間に様々な困難と不決断。しかし、この時(24日)、中央委員会は、確信をもって精力的に行動開始、リュリエを無能力者として解任し、代りに3人の活動家を任命。
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・3将軍は、任命されるやベルヴィルの大隊を派遣して第6区区役所を占領させる。「秩序派大隊」が占拠するされたサン=ラザール駅を遮断するため聖バチニョル高地から道路を監視させる。
最後に、プリュネルは、中央委員会代表者が否応なく、第3、10、12、18区の区長、助役の地位を奪っている間、ベルヴィル住民と共に、第1、2区の区役所を奪取。
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3将軍の宣言。
「中央委員会の求めによって共和国国民衛兵を臨時に指揮するという重要で困難な任務を担当するに際し、われわれは全市民の間の社会的協調の回復を確立するため、この使命を強力に遂行することを誓う。われわれは秩序を望む
・・・しかし、おとなしい歩哨を殺害し、あらゆる悪弊を許すことによって、すでに失格した体制が擁護する秩序は望まない。暴動を挑発する者どもは、君主制の復活という彼らの目的を達するために、恥ずべき手段を用いることも躊躇しない。彼らは銀行や糧秣庫を差押え、国民衛兵を飢えさせることも躊躇しない。もはや議会主義の時ではない。行動し、共和国の敵を厳しく罰する必要がある。われらと共にあらざる者は、すべてわれらにそむく者である。バリは自由でありたいと望む。反革命はパリをおぴえさせはしない。しかしながら、この大都市は、公共の秩序を乱すものが罰されずにいることを許さない。・・・」。
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○[コミューン群像:エミール・フランソワ・デジレ・ウード]
パリで医学を学び、同時に印刷所で働く。無神論的な新聞編集者として、プランキ主義的出版物にも寄稿、第2帝政反対闘争に積極的に参加し、たびたび警察の弾圧を受ける。プランキの最も近い協力者で、1868~69年プランキが作った秘密戦闘組織の百人隊長である。1780年8月14日プランキ主義者のラ・ヴィレット監獄襲撃に参加して死刑判決。
1870年9月4日の革命後、国民軍第138大隊長、10月31日の蜂起に参加し、その後一時ベルギーにいく。国民軍中央委員会委員。第20軍団長として、3月18日の革命にめざましい役割を果たす。
3月24日、将軍に任命され、パリの軍隊の3司令官の1人に任命される。26日、パリ・コミューン議員に当選(第11区)。コミューン執行委員会および軍事委員会の委員になる。4月3~4日のコミューン戦士のヴェルサイユ進撃の際、1縦隊を指揮。4月15日から南部戦線諸堡司令官、4月19日からセーヌ左岸諸堡査察総監。5月5日から第2予備旅団指揮官、5月9日、第2次公安委員会委員。
「五月の一週間」の市街戦の積極的な参加者。軍法会議で欠席のまま死刑判決。1871年夏、ロンドンにいく。コミューン亡命者グループのなかで、バクーニン派と、改良主義的トレードユニオンの指導者たちに反対する闘争を支持。のちにスイスにおちつき、新開『レヴァンシュ』を発行。1880年の恩赦ののちフランスに帰国。プランキ主義の組織「中央革命委員会」創立者の1人。
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○[コミューン群像:ボール・アントワヌ・マグロアール・ブリュネル]
1855~64年将校として勤務(騎兵隊、のちアフリカ狙撃兵部隊)。ドイツ軍のパリ攻囲中、国民軍第107大隊を指揮。プランキ主義者に近い。
70年10月31日、71年1月27~29日の諸蜂起に参加。国民軍将校団会議で総司令官と宣言され、国民軍諸大隊の全体会議についての命令を出すが、失敗し、逮捕、軍法会議による禁錮2年。
2月26日夜~27日、国民軍により釈放され、国民軍中央委員会委員に選ばれる。3月18日、市中心部に前進した国民軍諸部隊を指揮し、18日夜~19日、市庁舎占領、赤旗を掲げる。24日、国民軍兵士を率い、ルーヴル区役所(パリの反革命の中心部の一つ)を占領。同日、将軍、国民軍司令官に任命される。26日、パリ・コミューン議員に選出(第7区選出)。公安委員会設置に賛成投票。国民軍第10軍団長となり、南部戦線の連盟兵第2軍の編成に入り軍事作戦を指揮。イシ堡陥落後、イシ村防衛部隊を指揮し、頑強な戦闘(5月12、13日)の後撤退。必要な補強を受けなかったと主張するが、勝手に自分の戦闘のポストを離れた点で軍法会議にかけられ、ヴェルサイユ軍のパリ侵入まで投獄。
「五月の一週間」の頃は、パリ中心部でコミューン戦士諸部隊を指揮。22日~23日、彼の指揮のもと連盟兵はコンコルド広場でバリケード闘争。ブリュネルの行動は、市街戦の戦術を応用した模範となる。25日、シャトー・ドー広場を巡る戦闘で重傷を負いロンドンへ逃れる。
71年10月2日、欠席裁判で死刑宣告。亡命中は、ダームスの海軍学校で教え、亡命したコミューン戦士たちの会合でも演説する。恩赦ののちフランスに帰国。
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・中央委員会声明、5綱領を提示。
①唯一の可能にして不可欠の政府としての共和制の維持。
②パリの自治権。
③警視庁の廃止。
④常備軍の廃止、国民衛兵をパリにおける秩序維持の唯一の責任者たらしめる。
⑤国民衛兵のすべての将校を選挙する権利。
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・パリのインターナショナル派、フランケルの強力な働きかけにより、この日夜の集会においてようやく中央委員会を公然と支持し、選挙候補者を指名し、独自の選挙リストにインターナショナル派候補者の氏名記載を中央委員会に要求することを認める。
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インターナショナル・パリ支部は、幾度かの集会で、中央委員会及びコミューンと結びつく事へのためらいを表明。
最も大きな影響力をもつインターナショナル派プノワ・マロンは、合法主義者と調停派区長たちの呼びかけを支持し、中央委員会の行動と選挙に関する悲観論をかくさず、自ら革命運動を放棄する。別の有力なインターナショナル派グーレは、インターナショナルは中央委員会にヴァルラン1人を送っているに過ぎず、従ってインターナショナルは何の責任も負わされないことを強調。
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・「ラ・コミューン」新聞、地方におけるパリ支持の蜂起の動きを伝える。
「パリの事件は、ヴェルサイユのの『反-官報』が、怯えている地方にむかって証明しようと望んでいるような、孤立した行為でも異常な行為でもない。
パリで起っていることは、リヨン、サン=テチエンヌ、マルセイユに反響をよびおこしている。昔のリュテス(現在のパリ)のコミューン革命は、七世紀前に、北部と南部で、すなわちピカルディ-とイール=ド=フランスにおいては自治都市の形式の下に、南仏のいくつかの都市においては共和政の形式の下に、同じようにして発生したコミューン解放に、多くの点で似ている。当時のごとく、同じ火の粉が国中を燃え上らせ、火災は次から次へと絶えずひろがって行く。
北仏の自治体員は小売商人の代表であり、南仏の共和主義者は古代ローマのいくつかの伝統の後継者であったが、今日の革命派は工業の奴隷の代表であるというちがいはあるが・・・」
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地方の運動は、ばっと燃え上るが、「合法的」権威によって容易に鎮圧される。
パリにおいて、一定の理論的純化を行ない、蜂起的で民衆的なコミューンのイメージに、連合主義原理に従う建設的思想が、どうにか付け加わわる時には、既に遅すぎることになる。
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パリにおけるコミューン勝利の日が、マルセイユ(4月4日鎮圧)、トゥールーズ(3月27日鎮圧)、サン=テチエンヌ(3月28日鎮圧)、クルーゾーにおけるコミューン運動の終りの時期と一致する(3月27日)。リヨンでは、コミューン運動は既に敗北(3月25日)。
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・トゥールーズ。「コミューン万歳!」のスローガンの下に、国民軍兵士のデモ。国民軍将校がコミューン宣言。27日、知事ケラトリが軍隊を率い戻ってきて蜂起者を追い払う。
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[詳細]
24日、衛兵2千が県庁に向い、知事ケラトリーを弾劾、コミューンを宣言、カピトール(トゥールーズ市庁)の大バルコニーで声明文を読み上げる。トゥールーズ・コミューンは単一不可分の共和国を宣言し、パリ選出議員に対しヴェルサイユ政府とパリ・コミューンの和解を要求し、ティエールに国民議会解散を勧告。委員会は穏和急進主義を代表し、サン=シプリアン地区のプロレタリアートは代表をもたない。27日、3日間の混乱の後、ケラトリーは数百の部下と共に攻撃に移り、難なくカビトールと県庁を再び手に入れる。
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・ナルボンヌ、武装大衆、市役所占拠。ナコミューン自治宣言。31日、市庁舎奪回。
運動の先頭に立つのは、有名な民主主義者エミール・ディジョン。24日、国民軍兵士が市役所他の政府の建物を占領し、コミューンを宣言。兵器廠を襲い人民に武器を与え、県庁、駅、郵便局などを占拠。政府軍兵士は市外に撤退するが、28日、司令部は、補強部隊を率い軍隊をナルボンヌに入れる。31日、ゼンツ将軍率いるアルジェリア狙撃兵(アラビア人兵士)が街を包囲し、砲撃すると威嚇。ディジョンは市庁舎を明け渡し、外人傭兵が市庁舎を占領。市内のパリケードは破壊され蜂起は鎮圧。
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・ニーム、コミューンの試み挫折。
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・夜、サン・テティエンヌ炭鉱地方、市役所選挙。知事射殺。26日、国民軍委員会がコミューン宣言。28日、軍隊が市役所奪還、占領。
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[詳細] 
3月24、25日、国民衛兵を先頭に大群集が市会を襲い、コミューンの自由選挙の組織を担当する臨時民衆委員会のために市会の譲歩を要求。短い乱闘があり、知事を殺害。25日~26日の夜、委員会を設立、29日の為の選挙人を召集。市議会、辞職。「帝政と王政の立法がわれわれから奪い取った自治権と独立を再び獲得すること」を、コミューンの唯一の任務と定める委員会が、召集をかけるが、坑夫も含め誰れも動かない。28日朝、単純な降伏勧告に従い、最後の国民衛兵たちが市庁を明け渡す。
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・ビチ(ロレーヌ)。フランスの要塞ビチの陥落。ピチ:1870年9月3日、バイエルン軍が包囲。フランス・ドイツとの暫定平和条約締結にもかかわらず、8ヶ月半以上も降服しなかった。
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・ドイツ政府、ヴェルサイユ軍の8万までの増強をティエール政府に許可。条件は集結後3日以内に、パリに対し軍事行動開始するというもの。
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ティエールは着々と軍備を充実させる
25日には、「私は軍隊を再編成しつつある。二、三週間もすれば、われわれはパリを解放するのに充分な兵力をもつことになると思う」とチラールに知らせる。
ルクセンプルグ駐屯部隊を、大砲と共に無傷で取戻し、ラ・マリウズ、ドーデル、ファロン、デロジャがヴェルサイユ周辺を固めている。やがて、指揮官にしっかりと率いられ、巧妙な宣伝によって、パリの共産主義者、略奪者、無政府主義者、唯物論者に対する憎悪を吹きこまれた10万の兵隊をもつことになる。
「区長たちの抵抗は、政府に一〇日間の余裕をあたえた。幾世紀にも価する一〇日間である。じっさいこの一〇日間が政府に防御を組織することを許し、カにカを対抗させることを許したのであった」(ジュール・クラルティ)。
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3月25日
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・仏、国民軍中央委員会とパリの一部の代議士・区長の間に、26日にコミューン選挙施行について協定。国民軍中央委員会は選挙アピールを採択。コミューン議会選挙、支障なく進捗。
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「市民諸君、われわれは、熱烈な和解の願望に導かれ、われわれのあらゆる努力の絶えざる目標であるこの融合の実現を喜び、われわれと戦う人々に友愛の手を心からさしのべた。しかし依然として策動が続けられ、とくに夜間に霰弾砲が第二区の区役所に移されるなど、われわれとしてもその最初の決定を固持せざるをえない。『投票は三月二六日の日曜日に行なわれる。』 もしわれわれが相手の考えを誤解しているのなら、日曜日の一般投票にわれわれと共に参加することによって、誤解を解いてくれることを願うものである。一八七一年三月二五日市庁舎にて 中央委員会委員」
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「国民衛兵中央委員会は、パリ選出代議士、区長および助役の参加をえて、パリにおける内戦と流血を避けると同時に共和国を強固ならしめる唯一の手段は、直ちに選挙に取りかかることであると信じ、明日の日曜日、全有権者市民を召集する。バリの住民諸君は、現在の状態において、選挙だけが市の平和を保証できる真摯な性格をもつので、諸君がすべて投票におもむくことを命じるものは愛国心であることを理解されたい。投票場は午前八時に開かれ、夜の二一時に閉ざされる。『共和国万歳!』 パリ区長ならびに助役(以下署名)。パリ在住セーヌ県選出議員(・・・・・)。国民衛兵中央委員会(・・・・・)。」
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・国民軍中央委員会、とばくを禁止。「官報」に、テュイルリ公園と諸博物館を公開の報道。
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・工業都市クリュゾー市長デュメ、市内のコミューンを代表すると声明。
国民衛兵が中心となり、市役所前広場を占領し、コミューンを宣言。翌日、軍隊到着とともに立消え。
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・ライブツィヒ。社会民主党新聞「フォルクスシュタート」、ドイツ政府のパリ・コミューンに対する敵対的態度を暴露。
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to be continued

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