黙翁年表から、元日の出来事のみをピックアップ
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1113(天永4)年
鳥羽天皇(11)、元服。
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1129(大治4)年
崇徳天皇(11)、元服。
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1182(養和2)年
「卯の刻、武衛鶴岡宮に御参り、神馬一疋を奉らる。佐野の太郎忠家これを引く。」(「吾妻鏡」同日条)。
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1185(元暦2)年
源範頼、赤間関到着。渡海しようとするが船・兵糧なく諦め、豊後に渡ることを考え周防に戻る。
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1187(文治3)年
「二品鶴岡宮に御参り、その儀例の如し。御台所並びに若公同じく参り給う」(「吾妻鏡」同日条)。
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1188(文治4)年
鎌倉、佐野基綱邸より出火、数十軒被災(「吾妻鏡」同日条)。
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1191(建久2)年
「千葉の介常胤椀飯を献る。その儀殊に刷う。これ御昇進の故と。・・・御劔は千葉の介常胤、御弓箭は新介胤正、御行騰沓は二郎師常、砂金は三郎胤盛、鷹羽(櫃に納む)は六郎大夫胤頼。」(「吾妻鏡」同日条)。「御椀飯(三浦の介義澄沙汰す)。三浦の介義澄御劔を持参す。御弓箭は岡崎の四郎義實、御行騰は和田の三郎宗實、砂金は三浦左衛門の尉義連、鷲羽は比企右衛門の尉能員。」(「吾妻鏡」同2日条)。「小山右衛門の尉朝政椀飯を献る。御劔は下河邊庄司行平、御弓箭は小山の五郎宗政、御行騰沓は同七郎朝光、鷲羽は下河邊の四郎政能、砂金は最末に朝政自らこれを捧持す。」(「吾妻鏡」同3日条)。「宇都宮左衛門の尉椀飯を献る。御酒宴の間、即ち堪能者を召し弓始め有り。一番 下河邊庄司行平 榛谷の四郎重朝 二番 和田左衛門の尉義盛 藤澤の次郎清親」(「吾妻鏡」同5日条)。
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椀飯は御家人が御所で将軍に御馳走を振るまうこと。「おうばんぶるまい」の語源。この年までは、元日になかったのかもしれない。幕府内の序列がよくわかるので、1~5日までを記した。
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1193(建久4)年
「将軍家鶴岡八幡宮に御参り。還御の後椀飯有り。千葉の介常胤これを沙汰す。源氏並びに江間殿及び御家人等庭上に候ず。時刻に将軍家出御す。上総の介義兼座を起ち参進して御簾を上ぐ。相模の守惟義御劔を持参す。八田右衛門の尉知家は御調度。梶原左衛門の尉景季御行騰を持参す。千葉の大夫胤頼砂金を役す。千葉の介常胤は鷲の羽。次いで御馬五疋を引き進す。常胤が子息三人・孫子二人これを引く。所謂師常・胤信・胤道・胤秀等なり。また今日人々の座敷の次第を定められ、御自筆の式目を下さると。」(「吾妻鏡」同日条)。
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1194(建久5)年
頼朝、鶴岡参詣の後、椀飯。足利義兼、御征箭、弓馬以下を進ぜる。里見義成、御釼を持つ(「吾妻鏡」)。義兼は頼朝の「御門葉」(頼朝が親族と認めた源氏)として頼朝の御家人として高い位置におり、 将軍への随行などの序列では常に最上位。
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1195(建久6)年
足利義兼、頼朝に椀飯を献じる。2日「千葉の介常胤椀飯を進す。」。3日「小山左衛門の尉朝光椀飯なり。」(「吾妻鏡」)
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1200(正治2)年
「北條殿椀飯を献らる。」。2日「椀飯、千葉の介常胤。」。3日「椀飯、三浦の介義澄が沙汰なり。」。4日「兵庫の頭廣元朝臣御椀飯。」。5日「椀飯、八田左衛門の尉知家が沙汰なり。」。6日「相模の守惟義朝臣御椀飯なり。」。7日「小山左衛門の尉朝政椀飯なり。」。8日「椀飯、結城の七郎朝光これを沙汰す。」。13日「椀飯、土肥の彌太郎沙汰なり。」。15日「佐々木左衛門の尉定綱(在京)椀飯を進す。」。(「吾妻鏡」同日条)
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この年の正月の垸飯(わうばん)では、独裁者が没した動揺を反映して11名となり、首位が新将軍頼家の外祖父時政(頼朝時代には千葉・足利・三浦・小山・宇都宮ら東国豪族領主層で、時政はない)。北条氏の抬頭が、「将軍の外戚たる地位を殆ど唯一のより所として」、頼朝没後表面化した「将軍独裁制支持者と東国御家人との反目抗争」の「調停者」となるで実現。
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1205(元久2)年
「遠州椀飯並びに御馬・御劔以下を献らる。」。3日「千葉の介椀飯を献る。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1211(承元5)年
・「相州椀飯を進せらる。」。2日「前の大膳大夫廣元朝臣椀飯を沙汰し進す。」。3日「椀飯、小山左衛門の尉朝政これを沙汰す。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1212(建暦2)年
「相州椀飯を進せらる。」。2日「椀飯、前の大膳大夫廣元朝臣沙汰す。」。3日「椀飯、小山左衛門の尉朝政これを進す。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1213(建暦3)年
「巳の刻地震・・・還御の後椀飯の儀を刷わる。廣元朝臣これを経営す。」。2日「相州椀飯を献らる。」。3日「武州椀飯を沙汰し進せらる。」。4日「椀飯、和田左衛門の尉義盛これを沙汰す。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1214(建暦2)年
「鎌倉右府将軍家に正月朔日大名とも参たりけるに、三浦介義村もとより作て大侍の座上に候けり。其後千葉介胤綱まひりたりける。いまだ若物にて侍けるに、おほくの人を分すにて座上せめたる義村が猶上に為てけり。義村しるへくもおもいて、いきとをりたる気色にて、下総犬はふしとをしらぬそとよと云たりけるに、胤綱すこし意気色らしてとりあへす、三浦犬は友をくらふ也といひたりけり。輪田左衛門か合戦の時のことをおもひていへるなり。ゆゝしくとりあへすはいへりける。」(「古今著聞集」)。
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1219(建保7)年
将軍実朝の館での御家人参集。千葉胤綱(12)、三浦義村に対して、和田合戦のときに従兄弟和田義盛に味方するといい北条義時に寝返ったことを皮肉る。
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1222(承久4)年
「奥州例に任せ椀飯を献らる。」。足利義氏、椀飯に於いて御剣役となる。2日「椀飯(足利前の武州これを進す)。」。3日「椀飯(前の大膳大夫入道覺阿沙汰す)。」。7日「椀飯(結城左衛門の尉朝光これを進す)。」。8日「椀飯(中條右衛門の尉家長これを進す)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1223(貞応2)年
「椀飯有り(奥州御沙汰)。」(「吾妻鏡」同日条)。
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1224(貞応3)年
「前の奥州椀飯を献らる。」(「吾妻鏡」同日条)。
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1225(元仁2)年
「相州椀飯等を献らる。御剱役人駿河の前司義村と。」(「吾妻鏡」同日条)。
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1226(嘉禄2)年
「新造御所の椀飯、武州沙汰し進せしめ給う。相州以下布衣を着し西侍に侯す。」。2日「椀飯、越後の守朝時これを沙汰す。」。3日「椀飯、駿河の前司義村これを進す。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1227(嘉禄3)年
「椀飯(武州御沙汰)。」。2日「椀飯(相州御沙汰)。戌の刻田楽の辻子東西一町余り焼亡す。」。3日「椀飯(三浦駿河の前司これを進す)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1228(安貞2)年
「今日椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(武州御沙汰)。」。3日「椀飯(越州沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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この年~仁治元(1240)年迄、正月の垸飯(わうばん)の序列、首位時房・2位泰時・3位朝時で変化なし。執権政治安定期。合議制ではあるが、北条氏による高位独占体制である。
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1229(安貞3)年
「今日椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(武州御沙汰)。」。3日「今日椀飯(越州沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1233(貞永2)年
「椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(武州沙汰)。」。3日「椀飯(越州沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1234(天福2)年
・「椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(武州沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1235(文暦2)年
「椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(武州沙汰)。」。3日「椀飯(越州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1236(嘉禎2)年
「椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(武州沙汰)。」。3日「椀飯(越州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1237(嘉禎3)年
「椀飯(匠作御沙汰)。」。2日「今日の椀飯、左京兆の御分たりと雖も、御軽服に依って、孫子彌四郎殿これを沙汰せらる。」。泰氏(22)、御剱役となる。(「吾妻鏡」同日条)。
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1238(嘉禎4)年
「椀飯(匠作御沙汰)。」。2日「椀飯(左京兆御沙汰)。」。3日「椀飯(遠江の守沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1239(暦仁2)年
「椀飯(匠作御沙汰)例の如し。」。2日「椀飯(前の武州御沙汰)。」。3日「椀飯(遠江の守沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1240(暦仁3)年
「椀飯(匠作御沙汰)。」。2日「椀飯(前の武州御沙汰)。」。3日「今日椀飯(越州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1241(仁治2)年」
「椀飯(前の武州御沙汰)。」。2日「椀飯、左馬の頭義氏朝臣沙汰。」。3日「椀飯(遠江の前司朝時沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1243(仁治4)年
「椀飯(足利左馬入道沙汰)。」(「吾妻鏡」同日条)。
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1244(寛元2)年
「椀飯(遠江入道沙汰)。」(「吾妻鏡」同日条)。
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遠江入道:「朝時法師(遠江入道と号す。故泰時朝臣舎弟、相模守重時舎兄)」
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同日、将軍頼経の発願で、久遠寿量院で隆弁が如意輪法を修す。16日に月食が起こるというので、隆弁は明王院の北斗堂に参籠、祈祷を凝らす。16日は朝から快晴、月食が始る頃、雲が湧き小雨が降り出し、晴れ上った満月。月食が見えなかったのは、隆弁の祈祷の功と考え、頼経は自筆賀状・鞍置の名馬・剣を隆弁に贈る。
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1245(寛元3)年
「今日の椀飯(武州沙汰)。」(「吾妻鏡」同日条)。
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1246(寛元4)年
「椀飯、武州の御沙汰なり。夜に入りこれを行わる。」(「吾妻鏡」同日条)。
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1247(寛元5)年
「椀飯、左親衛御沙汰。」(「吾妻鏡」同日条)。
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1248(宝治2)年
「椀飯(左親衛御沙汰)例の如し。」。2日「椀飯(相州御沙汰)」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1250(建長2)年
「椀飯(相州御沙汰)」。2日「椀飯(足利左馬の頭入道沙汰)」。3日「椀飯(奥州御沙汰)」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1251(建長3)年
「椀飯、相州御沙汰。」。2日「椀飯、奥州御沙汰。」。3日「椀飯、左馬の頭入道正義沙汰。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1252(建長4)年
「椀飯、相州御沙汰。」。2日「椀飯、奥州御沙汰。」。3日「椀飯、左馬の頭入道沙汰有り。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1253(建長5)年
「椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(入道左馬の頭義氏朝臣沙汰)。」。3日「椀飯(奥州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1254(建長6)年
「椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯、左馬の頭入道沙汰。」。3日「椀飯(奥州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1256(建長8)年
「椀飯(相州御沙汰)の儀有り。」。2日「椀飯(奥州沙汰)。」。3日「椀飯(足利の三郎利氏沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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3日に足利頼氏(17)が、将軍への椀飯を沙汰。正月3が日の椀飯は、御家人筆頭格の者が沙汰することになっており、 安貞2(1228)年以降、北条氏以外では、足利義氏・利氏(頼氏)のみ。これ以降、頼氏の椀飯沙汰はなく、椀飯沙汰は北条氏が独占。
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1257(建長9)年
「椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(奥州禅門沙汰)。」。3日「椀飯(左近大夫入道沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1258(正嘉2)年
「椀飯(相州禅室御沙汰)。」。2日「今日の椀飯奥州禅門の沙汰。」。3日「椀飯(相州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1260(正元2)年
「椀飯(相州禅室御沙汰)。」。2日「椀飯(奥州禅門沙汰)。」。3日「椀飯(相州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1261(文応2)年
「椀飯(相州禅室御沙汰)。」。2日「椀飯(奥州禅門沙汰)。」。3日「椀飯(相州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1263(弘長3)年
「椀飯(相州禅室御沙汰)。」。2日「椀飯(相州御沙汰)。」。3日「椀飯(武州御沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1265(文永2)年
「椀飯(左典厩御沙汰)を行わる。」。2日「椀飯(相州御沙汰)。」。3日「椀飯(越後入道圓勝沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1266(文永3)年
「椀飯(相州御沙汰)。」。2日「椀飯(左京兆御沙汰)。」。3日「椀飯(陸奥の孫四郎義宗沙汰)。」。(「吾妻鏡」同日条)。
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1321(元応3)年
北畠顕家、従五位下に叙される。
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to be continued to 1334 onwards
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