2009年1月20日火曜日

天文3(1534)年信長誕生と父信秀

天文3(1534)年5月12日
織田信長、誕生
尾張下4郡守護代織田大和守の3奉行の1人織田信秀(居城勝幡(しょばた)城)次男。幼名吉法師。母は正室土田氏。生誕地には勝幡城・那古野城の2説(勝幡説が有力)。誕生日を決める確実な手掛りはなく、11、12、28日説あり。父信秀は天文3年以降に古渡城を新築、那古野城に平手政秀ら宿老を付けて吉法師を居城させる。
*
○[信長以前の織田氏(概要)]:
越前丹生郡織田郷の織田剣神社の神官の家柄。越前・遠江・尾張斯波氏に従い尾張に下向。
1400年初、守護斯波義重のとき、織田伊勢守入道常松(常昌とも)が尾張8郡守護代となる。又代(小守護代)として織田出雲守入道常竹が尾張に在住。
織田伊勢守家は、14世紀~15世紀半、岩倉城を拠点に勢力を増すが、その傍流の一族が清洲城を拠点として一方の勢力となり、織田大和守として尾張下4郡を支配するようになると、伊勢守家は上4郡を支配するのみとなる。
尾張下4郡を支配した織田大和守家は、その後、勝幡城を拠点の織田弾正忠家、小田井城(名古屋市西区小田井)を拠点の織田籐左右衛門家、拠点は明らかではない織田因幡守家に分割され、3奉行として尾張下4郡を統治。その中で、勝幡の弾正忠家が勢力を増していく。
*
「去程に尾張国八郡也。上之四郡、織田伊勢守諸侍手に付、進退して岩倉と云う処に居城也。半国下四郡、織田大和守下知に随へ、上下川を隔て、清洲之城に・・・」(「信長公記」巻頭)
----------
今回は、①この年と1年前くらいの世界の動き
②父信秀
③信秀/信長以前の織田氏(やや詳細)
について、先に触れてみます。
-----------
天文2(1533)年の出来事概要
*
・この年、毛利元就、三入高松城(広島市安佐北区可部町)を攻め、熊谷信直を降服させる。五龍城(広島県高田郡甲田町)宍戸元源と和約。さらに備後に影響力をもつ宮惣領家の本拠亀寿山城(芦品郡新市町)、多賀山氏の蔀(しとみ)山城(比婆郡高野町)などを攻略。大内氏の威力を利用しながら備後・安芸両国に影響力を及ぼすまでになる。
この時点で毛利はようやく「家中」とよばれた「譜代」家臣の外側に、周辺の国人領主を「国衆」として臣従させ、戦国大名としての姿を整え出す
*
・この年、毛利元就、3男隆景誕生。
*
・この年、フランシスコ・ザビエル(27)、イグナチオ・ロヨラの感化を受け、その仲間に入る(大回心)。
*
1月15日
・英、ヘンリ8世、妃カザリンの侍女アン・ブーリンと結婚。カンタベリ大司教に兄嫁であったカザリンとの結婚は無効との裁定を出させる。
(カザリン;スペイン王フェルナンド5世とイザベラの子。早世したヘンリ8世兄の妃、スペインとの同盟維持を望む父ヘンリ7世が無理やり結婚させる。ヘンリ8世(18)、カザリン(24)。2人の間には6人の子ができるが5人が死産、1人の娘がメアリ1世(位1553~58))
*
その後、ヘンリ8世は、・・・
・春、ヘンリ8世、腹心トマス・クロムウェルと図り「上告禁止法」を制定。教会関係裁判、直接ローマに上告することを禁止(最終決定権はイングランド国王)。
イングランド議会、教皇の最高司法権を否定(イングランド、教義的にもローマから分離)。 
*
・5月23日、英、ヘンリ8世、自ら任命したカンタベリ大司教トマス・クランマー(44)に王妃キャサリン(カザリン)との離婚(結婚無効)を成立させる
そもそも結婚が無効であったという論法。
兄嫁キャサリンとの結婚を認めた法王庁は誤り、キャサリンは妻ではなく愛人と主張。キャサリンはウィンザー城を追われる(キャサリンの能力は高く評価され、国民の受けもよく、結婚無効後は皇太子アーサー未亡人としてアムプティルに引き篭るが、1536年(50)没まで住民にはPrincessでなくQueenと呼ばれ慕われる。
*
・9月7日、エリザベス1世、ヘンリ8世とアン・ブーリンの間に誕生(1533~1603、位1558~1603)。男子出生と決めつけていたヘンリ8世は落胆。
*
・翌1534年11月、イングランド国教会成立
ヘンリ8世、宗教改革議会召集。「国王至上法(国家首長令)」可決・制定。国王を英国宗教界における唯一・最高の首長と定める。英教会制度はローマ・カトリック教会から独立。首長はイングランド国王。
*
3月19日
・大内氏の陶興房、大友方の是松太郎の筑前柑子岳城(福岡市西区)を攻略、少弐資元を高祖(福岡県前原町)まで進撃。22日、陶軍別働隊は筑紫平野を南下し筑後に迫り、この日、立花(福岡県立花町)で大友軍主力と激突。大内軍は筑前一帯をほぼ固めるが、少弐・大友軍は一層結束を固める。
*
6月20日
・細川晴元・本願寺講和
3万の法華勢、京都に戻る。丹波勢引上げ。この後、京都の法華宗徒勢力最盛期を迎える。
*
この年の細川晴元、本願寺、法華勢力の関係は、・・・。
・1月2日、川辺郡一向一揆1万、尼崎大物城(細川晴元属将松井宗信)包囲。一向一揆摂津で攻勢。
* 
・1月18日、洛内法華門徒・晴元勢3万、京都進発。23日、摂津富田の一向一揆駆逐。
(細川晴元部将薬師寺国長、法華宗徒を率い摂津山田に一向宗徒を攻撃、山田市場焼討ち)
*
・2月9日、一向一揆、堺の細川晴元の陣屋襲撃。細川晴元・茨木長隆、淡路洲本へ敗走。4月7日、再上陸。
*
2月14日、京都町衆、真宗僧侶を逮捕し、一向一揆のスパイとして処刑(「実隆公記」同日、2月15日条)。警察権掌握。
細川晴元の不在の間、畿内は無政府状態。洛中は木沢長政の軍が駐留、町衆主体の法華一揆の自検断が支配。
*
・3月5日、・一向一揆、細川晴元属将伊丹親興居城伊丹城攻撃。7日、木沢長政、法華法徒1万で出陣、伊丹の一向一揆追払う。
*
・4月1日、法華一揆、京都帰還。
* 
・4月2日、池田伊丹衆、佐井寺へ軍勢差向。伽藍炎上。
* 
・4月7日、細川晴元、淡路洲本から摂津池田島入り。池田城入城、後に芥川城入城。
* 
この月、京都町衆が法華一揆として細川晴元と呼応して摂津に進出。晴元・長隆らは池田から摂津上部の芥川城に進出、淀川を挟み中島・石山の一向一揆と対峙。晴元政権内での日蓮宗徒=町衆の勢威は上昇、軍事的にも侮り難い存在となる
この年(天文2年)末、幕府は法華宗寺院に京都防衛を命じる。京都の権門は日蓮宗(特に本願寺)の干渉を恐れる(「実隆公記」)。前年末には、日蓮宗とが先例を破り参内(「実隆公記」)。
*
・「東の声聞師村に日蓮点差懸け放火す。言語道断の事なり」(「実隆公記」4月7日条)。
* 
・4月29日、法華宗徒・細川晴元・木沢長政の軍勢、堺攻撃。本願寺証如、堺より石山本願寺に戻る。
* 
・5月9日、法華一揆・摂津国人、石山本願寺包囲。
*
・5月26日、細川晴国、山城高雄に出陣、細川晴元客将(摂津守護代)薬師寺国長と丹波に交戦。
*
・6月中旬、細川晴国の丹波勢、京都乱入。18日、総攻め。薬師寺国長討死。
*
石山本願寺(証如(16))は、畿内の武士勢力の半数近くの心をつかんでいる三好氏の権威に頼って、教団存続をはかろうとし三好千熊丸(12、長慶)に、晴元との講和を依頼。一揆側も、農村の疲弊甚しく、晴元政権も、室町幕府を復活させたばかりで、これ以上の戦乱は双方続けたくないという意志もある。阿波芝生城から大坂にあらわれた長慶は本願寺と幕府との和平を調停。証如法主は、ようやく武家への抵抗と引きかえに北陸加賀一国支配と、教団維持を全うするが、坊官下間氏率いる徹底抗戦派は、なお一揆をとかず、摂津各地にくすぶる。長慶は、これら一揆残党と、ある時は和し、ある時は掃蕩戦を行ない、しだいに摂津方面を安定させ、旧元長党を支配下に組み入れる。晴元は、この長慶の実績と、本願寺和平仲介の功により、木沢長政の斡旋により、天文3年10月、遂に長慶と和を結ぶ。ここに表むき長慶は晴元の有力被官、すなわち内衆となり、京都に屋敷を構え、幕府に出仕する身分となる。のち、長慶は摂津越水城を与えられる。
*
6月24日
・スペイン、フランシスコ・デ・ピサロ、インカ帝国征服
ピサロは遅れてきたアルマグロとカハマルカで合流。「リマ」建設。スペイン人は海路補給に依存しているため海岸近くに新首都を建設。
ピサロのカハマルカ到着時、インカ帝国は、嫡出ワスカルと庶出アタワルパによる皇位継承争いの内乱でアタワルパがワスカル軍を破り支配を始めたばかりの頃。アタワルパの身柄を抑えたピサロはインカの財宝を集めるのに数ヶ月を要し、1533年7月26日無用になったアタワルパを絞殺、11月インカの道路を辿ってクスコへ入る。後、10年以上にわたるスペイン人同士の内乱が始まる。
*
セバスチャン・ド・ベラルカサール:
カハマルカでピサロからペルー北部に建設の居留地サン・ミゲル・デ・ピウラの責任者に任命。ピウラへ向う途中、インカ帝国アタワルパの本拠地キトーに財宝が沢山あると聞きキトーへ直行、アタワルパの将軍ルミニャウイを倒してキトーへ入城(実際には財宝は無し)。1534年ピサロは彼をキトー総督に任命。15355年、海岸部に港町グアヤギルを建設。
*
・11月15日、フランシスコ・ピサロ、合流したアルマグロ一行と共に。黄金財宝に飾られたインカ帝国の帝都クスコに侵入、占領、略奪。
*
to be continued to 「信秀」、「信秀/信長以前の織田氏」
*
(信秀/信長以前の織田氏)
http://mokuou.blogspot.com/2009/05/blog-post_13.html
*
「★信長インデックス」 をご参照下さい。
*

0 件のコメント: