2009年1月18日日曜日

鎌倉 鎌倉五山 浄智寺







昨日(17日)午後、私をいれて4人で北鎌倉~鎌倉まで歩いた。
意識してなかったけど、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺と「鎌倉五山」の4つまで参拝することになった。
今日の写真は浄智寺(他も追って掲載します)。
北鎌倉から行くと、円覚寺、明月院(昨日はここには行かず)、東慶寺の次に訪れることになるお寺。とは云え、いつもはこのお寺の脇の道を通って源氏山~銭洗弁天というコースを歩くのが常で、このお寺に入ったのは初めて。
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[パンフレットの説明文]
寺    史
浄智寺が創建された十三世紀の終わりごろの鎌倉は、北条氏の勢力がきわめて盛大で禅宗がもっとも栄えた時期である。
開   基
執権として有名な北条時頼の三男宗政が二十九才の若さで弘安四年(一二八一)に歿しているが、間もなく宗政夫人が一族の助けをえて寺を起こし、亡夫と幼少の師時を開基にしたと思われる。
開   山
中国の名僧兀庵普寧と仏源禅師大休正念(請待開山)、および日本僧の真応禅師南州宏海(準開山)の三人が名をつらねている。
・・・南州宏海は嘉元元年(一三〇三)に死去し、以後、高峰顕日・夢窓疎石・清拙正澄・・・などの高僧がつぎつぎに住職に迎えられている。
延文元年(一三五六)の火災で、初期の伽藍をうしなうが室町時代ごろには、方丈・書院・法堂・五百羅漢像を安置した三門・外門・行堂・維那寮・僧堂などの主要な建物、・・・といった塔頭が建ちそろっていた。
戦国時代から江戸時代にはいると、鎌倉は農漁村になってさびれ、寺院の多くもしだいにかつての繁栄ぶりをうしなう江戸時代の後期ごろには、仏殿・方丈・鐘楼・外門・惣門そして塔頭の中の八院などがあったが、これらの建物は大正十二年の関東大震災でほとんど倒潰した。現在は三門・二階に鐘をさげた楼門や新しい仏殿の曇華殿・方丈・客殿などが伽藍を形造っている。
環    境
浄智寺が建つ山ノ内地区は、鎌倉時代には禅宗を保護し、相ついで寺院を建てた北条氏の所領であったので、今でも禅利が多い。山を挟んだ隣りが駆込寺の東慶寺で、その向かいには円覚寺があり、建長寺も数分の場所にある。どの寺院も丘を背負い、鎌倉では谷戸と呼ぶ谷合に堂宇を並べている。
浄智寺も寺域が背後の谷戸に深くのぴ、竹や杉の多い境内に、長い歴史をもった禅刹にふさわしい閑寂なたたずまいを保つ。うら庭の隧道をぬけると、洞窟に弥勒菩薩石化身といわれる、布袋尊がまつられている。全域が、昭和四十三年三月・史跡に指定された。
参道入口の石橋のほとりにある甘露の井は鎌倉十井の一つとして名高く、裏山天柱峰には名僧竺仙梵僊の供養塔や以前この地に住んだ英国の日本文化史研究家G・B・サンソムの記念碑がある。植物もゆたかで、梅・牡丹・シャガ(著我)・夏椿などのほか、庭の白雲木が、五月には美しい花を開く。参道右横の大木タチヒガン(さくら)は、見事な美しさで神奈川県指定百選の一つになっている。また、仏殿横のコウヤマキは鎌倉第一の巨木で、鐘楼前のビャクジンとともに鎌倉市指定文化財である。
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パンフレットでは「梅」とある「蝋梅」という花が写真のようにほころびはじめてました。
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室町時代の五山の威力は絶大のもので、僧院経営・荘園経営にあたる僧侶集団(東班衆)は高利貸しにも転化していったと云います。
「・・・、禅宗に関しては京都および鎌倉の両五山を二つの核とする幕府の〝官寺〞として南北朝時代を通じて着々と整備され、五山関係の禅宗寺院の荘園は増大の途をたどった。・・・、これらの荘園を拠点に、五山僧侶の経済活動が著しく活発化したことが室町中期の大きな特色である。」(今谷明「戦国期の室町幕府」)。
パンフレットには、戦国時代~江戸時代は鎌倉はさびれたとあり、上の今谷本と矛盾するように思えますが、そもそも戦国~江戸をひとくくりにするのに無理があるように思えます。
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6月の再訪もご覧下さい。
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「寺社巡りインデックス」をご参照下さい。

「鎌倉インデックス」もご参照下さい。

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