2009年1月24日土曜日

明治17(1884)年9月23~30日 秩父(9)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 秩父困民党、高利貸し説諭請願から集団交渉へ路線変更 

■明治17(1884)年秩父(9)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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9月23日
・高ケ坂村の矢口甚左衛門家で会合。原町田分署の巡査によって矢口ら14名が引致。25日、高ケ坂村市川四郎助、
細野喜代四郎に書簡。「自村一同決議ニ及」び、市川と「党内之内一両名」は八王子へ出頭するので、細野にも同道してほしい旨を依頼。
仲裁グループの活動に期待し、そこで提示される妥協案にそって問題の解決を計ろうとする姿勢に決定したことを意味する。
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9月25日
・築地の有一館で自由政談演説会。平野友輔・田中力が参加。
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9月25日
・夕刊新聞「今日新聞」、主筆仮名垣魯文で創刊。後の「都新聞」。
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9月26日
・秩父、千鹿野で集会。警察署請願の署名集め指示(困民党の組織確認)。
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9月26日
・橘樹郡の上田忠一郎・井田文三ら13名、多摩川で遊猟の名目で会合。
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9月27日
・この日、共融会社・甲子会社が、28日に八王子銀行・旭銀行が、30日に東海貯蓄銀行・武蔵野銀行・武相銀行が仲裁人への回答書を出す。無利息40ヶ年賦要求に対し年利1割5分・3ヶ年賦の解答。頭取・有力株主は自由党員。
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自由党同志を多く抱え仲裁人の影響力を強く受ける共融会社(社長土方健之助、役員森久保作蔵、共に自由党員、役員・出資者には日野地域の自由党員が関係)と甲子会社(社長林副重、自由党員、広徳館館長)は、5ヶ年賦の回答案を示し、極貧者へは5ヶ年以上の年賦の可能性を認め、延滞利子の3割棄捐処置を盛り込み温情的な対応。
八王子・東海貯蓄(頭取成内頴一郎、自由党員、のち改進党か)・旭・武蔵野銀行(頭取中藤弥左衛門、副頭取鈴木芳良(自由党員))・武相銀行など「悪意」の私立銀行・金貸会社は、元金は3ヶ年賦、それも負債額100円以内のものに限るとの制限付き。
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□共融会社・甲子会社連名の解答書。
「一、負債主ノ内貧困ナル者ニ限り五ケ年以内ノ年賦済方ヲ許スベシ 
一、極貧ニシテ最可憐者ニ限り会社ノ見込ヲ以テ五ヶ年以外ノ年賦ヲ許スコト有ベシ 
一、年賦金利子ハ一割五分以上二割迄トス 但シ極貧者ハ此定限ヲ減ズル事有ベシ 
一、右負債延滞利子ハ(明治十七年六月迄)改テ元金ニ加へルモノトス 但シ明治十七年七月ヨリ十二月迄ノ利子ハ年一割二分ノ割合ヲ以テ請求スベシ 
一、延滞利子皆済セントスル者ハ其金額ノ三割以内ヲ棄損スベシ 
一、証書ハ都而旧証書ヲ用ヒ副証書ヲ以テ年限利子各期日等確乎タル契約ヲナシ再ビ違約無之ヲ要ス」
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□債主中の銀行・金融会社と自由党との関係。
①特に南多摩郡の大土地所有者の上位6名中3名が自由党員・党友であり、各銀行に巨額の株券を持っているか自身が頭取を勤めている。彼らは債主層として明治10年代後半の数年間に多大の土地・資本を集積。
②地価4千円以上(所有地約50町歩以上)所有者7名中、徹底した個人高利貸で一生を貫いた浜中重蔵を除き、6名の党員の殆どが有名銀行の頭取乃至副頭取格である。
彼らは、多くの銀行・会社に数百円ずつの株を分散所有し、金融業者としての利害では他の債主層と連帯している。更に、この6名中3名は、自由党県会議員として党の幹部クラスに属している。彼らも、明治13~18年の間に急速に土地・資本を集積した利殖型(石坂や須長らの型とは異質な豪農)商人資本=寄生地主である。
③自由党内の中堅クラスからも、林副重(甲子会社)や森久保作蔵(共敵会社)ら債主側の人物をだしている。
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株の分散所有の例。
天野清助の明治11~18年「銀行及諸会社加入該社株券売買簿」では、第三十六国立銀行に10株500円、東海貯蓄銀行に10株500円、八王子銀行に15株750円、共融会社に6株300円、日野・武蔵野銀行、自由新聞社等に株券を所有し、年々増殖させている。
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こうした事情は石坂ら「志士型」豪農党員(単純な地主=豪農型党員)の行動を制約し、内在的矛盾を持つ自由党と困民党との関係を分離=雁行の関係におしとどめる結果となる。
しかし、自由党と困民党とが敵対関係に陥らなかったのは、石坂らの型の豪農党員が神奈川自由党のヘゲモニイを掌握していたからであり、彼らの大部分が地主等級の下位クラス(所有地価600円~1千円)に属し、没落傾向にあったから。
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この銀行解答によって人民内部には2つの反応が現われる。
①運動の前途に失望、仲裁条件に不服ながらも諦めて脱落してゆく(一部の富裕層と身代隈を覚悟した一部の極貧層)。
②自由党や名望家へも期待を棄て、独自な困民党再組織の方向に踏み切る。
武相困民党の第3の局面に転回

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9月30日
・秩父困民党(総代高岸善吉・犬木寿作・飯塚森蔵・村竹茂市)、大宮警察署へ28ヶ村代表の合法的請願運動(連印帳は127名)。高利貸し説諭請願、受理されず。翌々日、大野福次郎らを加え「御説諭願」提出、不受理。
以降、高利貸との集団交渉路線に戦術転換(善吉が小鹿野分署に、寅市が大宮署に赴き、おだやかに交渉するなら債主との交渉はさしつかえない、との言質をとる)。
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小柏常次郎が、繰り返してきた山林集会も限度に来ており、山林集会はきりあげ、困民一同の委任状を集め、これをもって大官郷警察署に出願し、高利貸と負債農民の実情をの述べれば、「何トカ御裁判モ下サロウカラ左様ニシテハ如何」と提案し、これが採択され9月30日、10月1日、大官警察へ説諭請願を実行。
オルグたちは秩父の山野に散り、署名を集める。
署長は連名委任状に難癖をつけ、1名ずつの委任状を持って出直して来いと請願を受理せず。
総代たちは切り返す。1人1人となれば、また各部落で集会をしなければならない。
署長は渋々、「山ナドニ寄ラズニ吉田ノ宿ナラ宿ニ寄テ穏便ニ為サバ差支へナイ」と答える。
総代たちは引揚げる。
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負債農民たちは警察署への請願は幻想と悟り、高利貸への直接交渉という戦術に転換する。
常次郎は善吉・寅市に策を授け、小鹿野・大宮両署に対し高利貸への直接交渉を事前通告させ、「穏カニ掛ケアフナラバ、差支へナイ」との署長の言質を取らせる。(小柏常次郎訊問調書)
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蜂起へ向けての戦術
①請願を通じて借金農民を結集する、
②警察は農民ではなく高利貸に味方するものと農民大衆に実地教育する、
③請願が受け容れられられなかった事実は、のちの蜂起を正統化させる効果がある。
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○請願署名集め(風布村大野福次郎の場合)
「上吉田へ参集セヨ」との通知があり、27日、福次郎は吉田村井上善作の許に赴く。
善作宅には農民10名ほどが集まり、懇談場所は千萱(千鹿谷)鉱泉に準備されている。この日初めて高岸善書・井上伝蔵・落合寅市ら困民党中枢を知る。
善吉が、「このたび自分ら各村の総代となり、貧民が高利のために責めらるるを見るに忍びず、ために身命を抛ちて貸主を説諭せられんことを警察署に歎願する条、貴殿は申すにおよはず、その村の者に借用金ある者は一切書付をいたして九月二十九日までに大宮郷平野屋方まで来れ」と言う。
各村オルグは、この善吉の言葉を受け、自村に帰り精力的に呼びかけ。風布村でも近隣の者あげて賛意を表すと云う。
風布村では福次郎と大野苗吉が署名を集める。福次郎は地価52円の貧農だが、苗吉の家は地価90円で風布村で13番目の中堅農家。しかし、借金額では福次郎が36円、苗吉は390円で、苗吉はこの時点で身代限りの身と云える。
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○犬木寿作(32):
明治14年、小鹿野町の高利貨柴崎佐平・加藤恒吉らと共同出資で製糸会社「共精杜」を設立、自らも金貸しをし、村祭りで打ち上げる花火作りの名人でもある。9月初め、高岸善吉・坂本宗作らの和田山「山林集会」に臨んで事情をきき、「高利貸ノ貪利苛薄ナルヲ憂ヒ、爾来其事ニ周旋尽力スル」ようになる。10月31日の石間村の加藤織平方における田代栄助の「職務分担ヲ予選スル」席にも加わる。
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○村竹茂市(45):
上日野沢村自由党員竹内吉五郎の勧めで困民党に参加。「無情ノ債主ノ家ヲ毀シ、借金証書等ヲ奪ヒ取リ焼捨候ハパ、富者ヲ倒シ貧者ヲ助クルノ途相立ツベキニ付、賛成シテハ如何トノ相談ヲ受ケタルニヨリ、同胞人民ヲ救フニハ至極良キ策卜感心仕り、無異議同意イタシタリ」(「村竹茂市訊問調書」)。
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▽神官田中千弥が書き残した高利貸の農民収奪。「秩父暴動雑録」。
「今般暴徒蜂起するやその原因一にあらず。高利貸なるものその一なり・・・。
そもそも高利貸なるものは元来日歩に違約付の証書を取って金貨を貸しつけ、返期延滞するときはすなわち多夥の違約金を収り、数度証書を改めついに負債主をして身代限の処分を受くるにいたらしむ。官これを不良としたまいけん。
明治十一年利息制限法の発令ありて日歩違約金等ある貸借を廃せられたり。・・・しかれども陰に奸策をなし証書金額のうち二割あるいは三割を減じて貸与す。これを切金貸という。そしてその返期を三月限りと定め三か月目にいたり返却すまざるものはさらに証書を改替し新規貸付に書記せしむ。その証券改替の都度利息は加えて元金となし、また証書面の金額の歩を切り、これも元金となすなり。これを一年間借りるときは二倍を超過す。
観るペし、まず今年一月七円入用にてこれを借らんと乞う。高利貸のいわく、十円ならば貸すべしと。よって十円の借用証書を出す。また言う、例の二割切れ承服ならば貸与せんと。話して金八円を受けとり、一時要度を弁ず。
三月十五日期限なるにより、利息金を納めて延期を約せんため負債主は康主の家にいたる。家人のいわく、主人は四、五日他出せり。帰宅の後来れと。負債主己が家に帰り、四、五日間に彼利息に備えし金は他事に使用しつくせり。さて同月二十日頃またゆきて遅延を謝す。借主は顔を和らげ、証書を改めたまううえは仔細におよはずという。
負「しからば下案をたまえ」債「証書金高十二円六十銭なり(元金十円利子五十銭書面の切金二円十銭)」負債主は不審ながらこの証書を渡して帰る。また三か月日五月証券を改む。書面金額十五円八十七銭六厘なり。この五月十五日の借金は七月十五日返期なり。この期にいたりまた証券を改替す。券面金二十円四厘。これまた同前九月にいたって改券す。書表金額二十五円二十銭。またまた三か月日十一月にいたる。
ここにおいてすっかり返済の督促を受け返納する金額二十六円四十六鏡なり。これを計算するに一か月元金一円十九銭につき二十五銭の利子にあたるべし。僅々八円一年未満にしてかくのごとし。いわんや多数の金を累歳措置するにおけるやいくぱくの高利なること料るべからず。
・・・数次この金を借用するものはほとんど返却に困難し、勧解あるいは民事の裁廷をへて身代限の処分を受くるにいたるなり。」
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9月30日
「国権拡張論」が、「自由新聞」社説に始めて登場。~10月1、4、5日。
加波山事件を機に「自由新聞」の論調が国権拡張に転じる。既に自由党は8月の清仏全面戦争に絡み、8月の東洋学館開設、杉田定一の渡清、板垣・後藤の対朝鮮画策など国権的な動きを見せていた。
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「彼ノ壮年有志等ノ熱心ヲシテ、内事ヨリ転ジテ外事ニ向ハシメ、政府ハ則チ之ヲ利用シテ、大ニ国権拡張ノ方法ヲ計画スルヲ得バ、内ハ以テ社会ノ安寧ヲ固フシ、外ハ以テ国利ヲ海外ニ博スルニ足ルニ非ズヤ」(「国権拡張論」)。
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国権拡張・官民協力・排外主義鼓吹の真の意図は、少壮有志の熱心を内事から外事に転換させることにある。
「特に当時実際に党務の中心となっていた星亨、加藤平四郎らに対して、恐らくは秘密裡に朝鮮進出の計策に従事していた板垣・後藤がその朝鮮進出の論理をいわばここへ転用したのではなかったろうか。この論理は加波山事件の突発という条件なしには公然と社説としてかかげることはできなかったであろう」(下山三郎編・解説「自由民権思想」下)。
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9月30日
・天野貞祐、津久井郡鳥屋村に誕生。24年4月鳥屋村小学校入学。30年東京の獨協中学校(=独逸学協会学校中学)に進む。
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下旬
・南多摩郡日野駅で小作人400余が、小作料減免要求を掲げ集会や地主と交渉。1割5分の減額で妥協。~11月上旬まで。
to be continued

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