2009年6月15日月曜日

太郎焼亡 安元大火  方丈記「・・・都の巽より火出で來りて、乾に至る。・・・」


前回の「京都のいしぶみ」で朱雀門址、大学寮址をご紹介しました
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大極殿はコチラ
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今回は、二条城周辺(5)の前に、この辺一帯が焼けたというはなし。
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「方丈記」の「序」にあたる段に続いて記されている「安元の大火=(太郎焼亡)」により、この朱雀門、大学寮一帯は焼けてしまいます。
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「およそ物の心を知りしより以來このかた四十(ヨソヂ)あまりの春秋(ハルアキ)を送れる間に、世の不思議を見ること、やゝ度々になりぬ。
いにし安元三年(1177)四月(ウヅキ)二十八日かとよ、風烈しく吹きて靜かならざりし夜、戌の時(午後8時頃)ばかり、都の巽より火出で來りて、乾に至る。はてには朱雀門、大極殿、大學寮、民部省まで移りて、一夜(ヒトヨ)が程に、塵灰(クヮイヂン)となりにき。
火元は樋口富小路とかや。病人(ヤマウド)を宿せる假屋より出で來けるとなむ。吹き迷ふ風に、とかく移り行くほどに、扇をひろげたるが如く、末廣になりぬ。遠き家は煙にむせび、近き邊(アタリ)はひたすら焔を地に吹きつけたり。空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じて、あまねく紅なるなかに、風に堪へず吹き切られたる焔、飛ぶが如くにして、一二町を越えつゝ移り行く。その中の人現心(ウツツゴコロ)あらむや。或は煙にむせびてたふれ伏し、或は焔にまぐれて忽ちに死ぬ。あるは又、僅に身一つ辛くして遁れたれども、資材を取り出づるに及ばず、七珍萬寶(バンパウ)、さながら灰燼となりにき。その費いくそばくぞ。このたび公卿の家十六燒けたり。ましてその外は數を知らず。すべて都のうち三分が一に及べりとぞ。男女(ナンニョ)死ぬる者數千人、馬牛の類邊際を知らず。」
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28日夜半、樋口富小路(現、万寿寺通富小路附近)から出火、南東の風に煽られて、西北方面に扇状に延焼。
焼失範囲は、東は富小路、西は朱雀大路(千本通)、南は六条大路、北は大内裏までの約180余町(180万平方m)。
大極殿を含む八省院全部と朱雀門・応天門・神祇官など大内裏南東部、大学寮・勧学院、関白藤原(松殿)基房ら公卿の邸宅13家、重盛の邸宅などが焼失。
焼死者は数千人に及ぶという。
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九条兼実は、「火災盗賊、大衆兵乱、上下騒動、緇素奔走、誠に乱世の至りなり。人力の及ぶところに非ず。天変しきりに呈すと雖も、法令敢て改めず。殃を致し禍を招く。其れ然らざらんや」」(「玉葉」)と書きます。
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この年は、のちに年号が改まり治承元年となるが、別に扱っている治承4年の以仁王・頼政挙兵の予兆を示す年といえる。
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まずこの年、後白河と清盛が人事を巡って激しい綱引きを演じる。
正月、太政大臣を望む藤原師長が大将を辞すと、左大将に重盛、右大将に宗盛が任じられ、両大将を平氏の二人が占めることになる。更に知盛が三位に任じられる。
「平家物語」は、これを「世にはまた人ありとは見えざりけり」と評している。
そして、3月5日、その師長が太政大臣に任じられると、その跡の内大臣に重盛が任じられる。
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次に起こるのが「山門強訴」。
後白河法皇の近臣西光の子藤原師高が、加賀守となり、師高は藤原師経を目代に任じるが、この目代が、山門の末寺である加賀の白山と争い、白山の末寺の宇河寺を焼くという事件が起こる。
事件は、中央の大寺院が地方の寺院を傘下に入れ末寺として系列化していく動きと、院近臣が後白河の権威を維持するべく知行国支配を強化していく動き二つの衝突といえる。
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3月22日、山門大衆は京に下り、加賀守藤原師高の配流を要求。
翌日、後白河は奏状を提出して訴えるよう座主に伝え、奏状の審議の結果、目代師経の備後国配流を決める。
しかし大衆はそれでは満足せず、4月12日夜、神輿を持ち出して強訴。衆徒が内裏の陣口に至った際、神輿が官兵の矢に射られ、衆徒は神輿を放置したたまま逃げ帰る。
矢が神輿に当たるという前代未聞の大事に、14日には再び強訴の噂が流れ、高倉天皇は急ぎ法住寺殿に行幸。
そのさまは、あたかも内裏炎上の際と同じであったという。九条兼実は、「仏法王法滅盡の期至るか。五濁の世、天魔その力を得、これ世の理運なり」、「夢か夢にあらざるか」「嘆きて益なし」と記す。
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4月14日、後白河は、山門大衆が下って来た際には、官兵をもって道を塞ぐべきかを諮問するが、京が戦場になる恐れが生じるという意見が出て断念。
17日、国司師高の配流と神輿を射た下手人を罪科に処す方針を天台座主に伝える。
18日、神輿を祀園社に安置するよう祇園別当の澄憲に命じる。
20日、師高が尾張に流され、神輿を射た重盛の家人が獄に下される宣旨が出され、事件は一応の決着をみる。朝廷が山門の言い分をそのまま飲まされた形の決着である。
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そんな折り、末世を思わせる大火が起る。
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5月4日以降、後白河は山門に対し断固とした措置(天台座主明雲の譴責、悪僧の差出命令、更に明雲解職と所領没収)をとる。
もちろん山門も、配流途中の明雲を奪回するなど、これに対抗。
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思いあぐねた後白河は、清盛出馬を要請し、27日、清盛が上洛。28日、山門攻撃を決定。
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しかし、ここで後白河近臣の平氏打倒謀議が、多田源氏蔵人行綱により密告され、鹿ヶ谷事件へと事態は移ってゆく。
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「京都インデックス」をご参照下さい。
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