3.能員活躍の足跡2(文治5年)
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文治5年(1189)5月22日
・義経死すの報、鎌倉に届く。頼朝、これを京都に連絡(「吾妻鏡」同日条)。29日、京にも届く。
朝廷はもはや泰衡の責任を問う必要はなくなったとするが、頼朝は既に2月に泰衡追討の動員を全国にかけており、出兵強行の意思を表示。
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「今日、能保朝臣告げ送りて云く、九郎泰衡の為誅滅せられをはんぬと。天下の悦び何事かこれに如かずや。実に仏神の助けなり。抑もまた頼朝卿の運なり。言語の及ぶ所に非ざるなり。」(「玉葉」同29日条)。
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「夜に入り、・・・。師中納言の返報到来す。義顕誅罰の事、殊に悦び聞こし食すの由、院の仰せ候所なり。兼ねてまた彼の滅亡の間、国中定めて静謐せしむか。今に於いては弓箭を嚢にすべきの由内々申すべきの旨、その沙汰候と。」(「吾妻鏡」6月8日条)。
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6月13日
・藤原泰衡の使者新田高衡、義経の首を鎌倉腰越浦に持参。和田義盛・梶原景時の侍所の所司2人が実検(「吾妻鏡」同日条)。
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6月24日
・朝廷、奥州征伐の準備を進める頼朝に中止を勧告。
「・・・義顕すでに誅せられをはんぬ。今年は造太神宮の上棟、大仏寺の造営、彼是計会す。追討の儀猶予有るべしてえり。その旨すでに殿下の御教書を献られんと欲すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
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6月25日
・頼朝、重ねて泰衡追討の宣旨を請う(「吾妻鏡」同日条)。義経没の時点で、正当な理由もない為、後白河院は奥州侵攻許可を与えず。
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6月26日
・藤原泰衡、義経と通じていた弟の藤原忠衡(23、和泉三郎)を討ち、幕府に恭順の意を示す。
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6月27日
・泰衡追討の動員により諸国の軍勢1千騎が鎌倉に到着。
・「この間奥州征伐の沙汰の外他事無し。この事、宣旨を申さるるに依って、軍士等を催せらる。鎌倉に群集するの輩すでに一千人に及ぶなり。・・・而るに武蔵・下野両国は、御下向の巡路たるの間、彼の住人等は各々用意を致し、御進発の前途に参会すべきの由触れ仰せらるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。
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6月30日
・大庭景能、追討宣旨が得られないまま奥州出陣をひかえる頼朝に対し、既に出兵を上申した以上、返事を待たず出兵すべきと献言。頼朝、奥州征伐の意志を固める。
「大庭の平太景能は武家の古老たり。兵法の故実を存ずるの間、故に以てこれを召し出され、奥州征伐の事を仰せ合わさる。曰く、この事天聴を窺うの処、今に勅許無し。なまじいに御家人を召し聚む。これをして如何。計り申すべしてえり。景能思案に及ばず、申して云く、軍中は将軍の令を聞く。天子の詔を聞かずと。すでに奏聞を経らるるの上は、強ちその左右を待たしめ給うべからず。随って泰衡は、累代御家人の遺跡を受け継ぐ者なり。綸旨を下されずと雖も、治罰を加え給うこと、何事か有らんや。就中、群参の軍士数日を費やすの條、還って人の煩いなり。早く発向せしめ給うべしてえり。申し状頗る御感有り。」(「吾妻鏡」同日条)。
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幕府の軍事行動に対する朝廷の干渉を排除する論理(勅許なき戦争を遂行する論理)。
①「軍中の論理」:
軍中では将軍の命令が天子の詔に優先する。「軍中聞将軍令、不聞天子之詔」は、漢の将軍周亜夫が配下の将兵に命じた言葉として「史記」に見える。
②「主従制の論理」:御家人と見なされる限りこれを討つのに朝廷の許可は不要。「私戦」である。
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7月8日
・千葉常胤、頼朝から旗の新調を命じられ、小山朝政から献上された絹を用いて、この日献上。同日、下河辺行平は新調の鎧を頼朝に献上(「吾妻鏡」同日条)。
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7月16日
・京都守護一条能保(頼朝の妹婿)の使いの後藤基清が鎌倉に到着。朝廷では義経が討たれたので奥州討伐は天下の大事となるため、今年は猶予せよとの宣旨が7日に発せられたとの報告をもたらす。
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「右武衛の使者後藤兵衛の尉基清、並びに先日これより上洛の飛脚等参着す。基清申して云く、泰衡追討の宣旨の事、摂政・公卿已下、度々沙汰を経られをはんぬ。而るに義顕出来す。この上猶追討の儀に及わば、天下の大事たるべし。今年ばかりは猶予有るべきかの由、去る七日院宣を下さるるなり。早く子細を達すべきの由、師中納言これを相触る。何様たるべきやと。この事を聞こしめ給い、殊に御鬱憤有り。軍士多く以て予参するの間、すでに若干の費え有り。何ぞ後年を期せんや。今に於いては、必定発向せしめ給うべきの由仰せらると。」(「吾妻鏡」同日条)。
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7月17日
・頼朝、奥州征伐の部署を定める(東海道・北陸道・中路)。18日、雑色里長を奥州情勢探索の為出発させる。また、比企能員がこの日出陣。
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「奥州に御下向有るべき事、終日沙汰を経らる。この間三手に相分けらるべし。てえれば、所謂東海道の大将軍は千葉の介常胤・八田右衛門の尉知家、各々一族等並びに常陸・下総両国の勇士等を相具し、宇多行方を経て岩城岩崎を廻り、逢隈河の湊を渡り参会すべきなり。北陸道の大将軍比企の籐四郎能員・宇佐美の平次實政は、下道を経て、上野の国高山・小林・大胡・佐貫等の住人を相催し、越後の国より出羽の国念種関に出て、合戦を遂ぐべし。二品は大手、中路より御下向有るべし。先陣は畠山の次郎重忠たるべきの由これを召し仰す。次いで合戦の謀り、・・・。仍って武蔵・上野両国内の党者等は、加藤次景廉・葛西の三郎清重等に従い、合戦を遂ぐべきの由、義盛・景時等を以て仰せ含めらる。次いで御留守の事、大夫屬入道に仰す所なり。隼人の佐・藤判官代・佐々木の次郎・大庭の平太・義勝房以下の輩候すべしと。」(「吾妻鏡」同日条)。
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□現代語訳。
「十七日、乙亥。奥州下向について、終日審議。(軍勢を)三手に分ける。東海道の大将軍千葉介常胤・八田右衛門尉知家は、それぞれ一族らと常陸・下総国両国の勇士らを率い、宇大(ウダ)・行方(ナメカタ)を経由し、岩城・岩崎を廻って遇隈(アブクマ)河の湊を渡り、そこで(大手軍と)合流せよ。北陸道の大将軍比企藤四郎能員・宇佐美平次実政らは、下道(シモミチ)を経て上野国高山・小林・大胡・左貫などの住人を動員し、越後国から出羽国の念種関(ネスガセキ)に出て合戦を遂げよ。二品(頼朝)は大手軍として中路より下向する。(その)先陣は畠山次郎重患とする。次に、合戦の謀に優れていると評判の者の手勢が少ないので、軍功を立てがたいであろから、軍勢を付けるようにせよ、と定め、武蔵・上野両国内の者らは加藤次景廉・葛西三郎清重ら(の指揮)に従って合戦を遂げるように、と(和田)義盛・(梶原)景時らを通じて命じる。次いで、(鎌倉の)留守のことは、大夫属(タユウノサカン)入道(善信、三善康信)に仰せつける。隼人佑(三善康清)・藤判宮代(藤原邦通)・佐々木次郎(経同)・大庭平太(景能)・義勝房(成尋)をはじめとする者たちは待機するように、ということであった。」。
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7月19日
・頼朝、奏衡追討の宣旨を待たず奥州藤原氏征伐に出陣。
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「大手軍」、「東海道軍」、「北陸道軍」の3隊28万4千(実際は3~4万))に分け進撃開始。範頼は鎌倉守備。
①太平洋岸を進む東海道大将軍は千葉介常胤・八田知家の2将、夫々の一族と常陸・下総の軍勢を率い、宇太・行方郡を経て、岩城・岩崎を廻り、阿武隈川に向かい合流。
②日本海側から攻め込む北陸大将軍は比企能員・宇佐美実政2将、上野国高山・小林・大胡・佐貫等の軍を率い越後から出羽国念珠ヶ関に出る。
③中央を進む大手軍は頼朝が自ら率いて出陣、先陣は畠山重忠、大内義信・足利義兼・北条時政・新田義兼・小山朝政・三浦義澄・葛西清重・加藤景廉・和田義盛・梶原景時・河野通信・工藤祐経・佐々木兄弟ら鎌倉の大将が従う。熊谷次郎直実、従軍。途中、宇都宮・佐竹軍が合流。
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19日、梶原景時は、平永茂(長職)の従軍を頼朝に提案、許可され、更に永茂に城家の旗を用いることも許す。永茂は、会津4郡を奪われた恨みを奥州藤原氏に対して持つ。28日、頼朝軍、白河郡に入り、白河関を前に新渡戸駅に進駐。頼朝は、各御家人の手勢を申告させ、永茂の郎党が200余いるのに喜ぶ。戦後、論功行賞で永茂は御家人となり、奥山荘の荘司乃至地頭に補任される(「吾妻鏡」)。
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「丁丑 巳の刻、二品奥州の泰衡を征伐せんが為発向し給う。この刻景時申して云く、城の四郎長茂は無双の勇士なり。囚人と雖も、この時召し具せられば何事か有らんやと。尤も然るべきの由仰せらる。仍ってその趣を長茂に相触る。長茂喜悦を成し御共に候す。但し囚人として旗を差すの條、その恐れ有り。御旗を給うべきの由これを申す。而るを仰せに依って私旗を用いをはんぬ。時に長茂傍輩に談りて云く、この旗を見て、逃亡の郎従等来たり従うべしと。御進発の儀、先陣は畠山の次郎重忠なり。先ず疋夫八十人馬前に在り。五十人は人別に征箭三腰(雨衣を以てこれを裹む)を荷なう。三十人は鋤鍬を持たしむ。次いで引馬三疋、次いで重忠、次いで従軍五騎、所謂長野の三郎重清・大串の小次郎・本田の次郎・榛澤の六郎・柏原の太郎等これなり。凡そ鎌倉出御の勢一千騎なり。次いで御駕(御弓袋差し・御旗差し・御甲冑等、御馬前に在り)。鎌倉出御より御共の輩、・・・」(「吾妻鏡」同日条)
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奥州合戦の意義:
①頼朝自らの出陣(石橋山以後初めて)、②28万4千の大軍。全国からの動員。⇒武威を誇るデモンストレーション。
鎌倉殿への忠節度を見極める踏み絵。謀反人・囚人預かりとされる平家家人も参戦機会が与えられる。
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7月25日
・「二品下野の国古多橋の駅に着御す。」(「吾妻鏡」同日条)。
26日、佐竹秀義、源頼朝に臣下の礼をとり、奥州藤原氏征伐に従軍。「宇都宮を立たしめ給うの処、佐竹の四郎常陸の国より追って参加す。」(「吾妻鏡」同日条)。
28日、「新渡戸の駅に着き給う。・・・城の四郎の郎従二百余人なり。二品驚かしめ給う。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。
29日、「白河関を越え給う。」(「吾妻鏡」同日条)。
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8月7日
・伊達郡阿津賀志山合戦。~10日。
頼朝軍、藤原秀衡長男国衡(泰衝の異母兄)が大将を務める奥州軍2万と遭遇。重忠率いる兵80人は泰衡側の阿津賀志山の城に構築した堀を埋める。葛西清重、先陣として活躍。佐藤庄司(佐藤継信・忠信の父)ら討たれる。平泉軍、敗走。10日、国衡、柴田郡で畠山重忠・和田義盛らに討ち取られる。多賀国府の南の国分原鞭楯にあった泰衡、戦わず北走。
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和田義盛、藤原国衡と弓矢一騎討ち。義盛の矢が早く、国衡の鎧の射むけの袖を射ぬき左肩へ。逃げる国衡を畠山重忠軍が追い、郎等の大串重親が首をあげる。翌日、船迫の頼朝の前で戦功でもめる。
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宇佐美実政・天野則景、由利惟平生捕りの功で争う。梶原景時の無礼な尋問に由利は答えず。畠山重忠は礼儀尽し穏やかに問い、由利は生け捕った者の鎧・馬の特徴を答える。畠山重忠、葛岡郡の惣地頭職に補任される。
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8月13日
・頼朝、陸奥国府の多賀城に到着。北陸道軍、出羽で田河行文・秋田致文を追討(「吾妻鏡」同日条)。
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8月22日
・頼朝、玉造郡を経て平泉に入城。泰衡捜索を命じ、千葉胤頼を衣川館に派遣。25日、前民部少輔藤原基成父子を捕捉(「吾妻鏡」同日条)。
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「申の刻、泰衡の平泉の館に着御す。主はすでに逐電し、家はまた烟と化す。・・・但し坤角に当たり、一宇の倉廩有り。余焔の難を遁る。葛西の三郎清重・小栗の十郎重成等を遣わしこれを見せしめ給う。沈紫檀以下唐木の厨子数脚これに在り。その内に納める所は、牛玉・犀角・象牙の笛・水牛の角・紺瑠璃等の笏・金沓・玉幡・金華鬘(玉を以てこれを餝る)・蜀江錦の直垂・不縫帷・金造の鶴・銀造の猫・瑠璃の灯爐・南廷百(各々金の器に盛る)等なり。その外錦繍綾羅、愚筆余算に計え記すべからざるものか。象牙の笛・不縫帷は清重に賜う。玉幡・金華鬘は、また重成望み申すに依って同じくこれを給う。氏寺を荘厳すべきの由申すが故なり。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。
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8月26日
・泰衝、投降・亡命するゆえ許してほしいと頼朝に書状で嘆願。義経は父秀衡が扶持したもの、自分は頼朝命に従い義経を討った。奥州・出羽両国は既に頼朝沙汰に入っており、自分を赦して御家人に列して欲しい、叶わなければ、遠流されても構わない。頼朝、これを許さず。
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「・・・もし慈恵を垂れ、御返報有らば、比内郡の辺に落とし置かるべし。その是非に就いて、帰降走参すべきの趣これに載す。親能御前にて読み申す。・・・書を比内郡に置くべきの由、泰衡言上するの上は、軍士等各々彼の郡内を捜し求むべきの旨仰せ下さると。」(「吾妻鏡」同日条)。
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9月2日
・頼朝、岩井郡の厨河辺(盛岡市)に着。
「・・・祖父祖父将軍(頼義)朝敵を追討するの比、十二箇年の間所々に合戦す。勝負を決せず年を送るの処、遂に件の厨河の柵に於いて貞任等の首を獲る。曩時の佳例に依って、当所に到り、泰衡を討ちその頸を獲るべきの由、内々思案せしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。
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9月4日
・奥州藤原氏滅亡。
泰衡(35)敗走の途中、比内郡贄柵(にえのさく、大館市)の郎従河田次郎を頼るが、河田は頼朝に寝返り泰衡を殺害。
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9月6日
・河田次郎、泰衡の首を志波郡陣ヶ岡蜂杜にいた頼朝に届ける。泰衡の首は安倍貞任の例にならい、梟首。頼朝は河田次郎を主人殺しの罪人として処刑・晒首。(「吾妻鏡」同日条)
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9月8日
・頼朝、京都の吉田(藤原)経房へ書状。鎌倉出立以降の経過を述べ、泰衡の首級不進上の理由を、「さしたる貴人にあらず、かつは相伝の家人なり」(「吾妻鏡」同日条)とする。
勅許なき戦いを「家人成敗権」の論理で正当化。奥州侵攻を「私戦」として敢行してきた覚悟を示す。
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9月9日
・頼朝、高水寺(紫波町)に安堵状を与える。比企朝宗に平泉寺塔を保護させる。この日、陣ヶ岡の頼朝のもとに泰衝追討の宣旨(7月19日付)がようやく届く。頼朝が諦めていた奥州侵攻を「公戦」とすることができる。10日、中尊寺心蓮らの陳情で、寺領を安堵。(「吾妻鏡」同日条)
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11月3日
・一条能保の飛脚が鎌倉(頼朝は10月24日に鎌倉帰着)に到着。奥州征討の功を賞し、降人の扱い、勧賞についての院宣が届く。頼朝は大いに喜ぶ。この月、頼朝は、大江広元を京都に派遣し、奥州征討の賞を辞退し、陸奥・出羽両国の管領を要求。12月にも。
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12月23日
・泰衝の遺臣大河兼任、出羽で挙兵。24日、頼朝、工藤行光・由利惟平に大河兼任追討命令。(「吾妻鏡」同日条)
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文治6年(1190)1月8日
・頼朝、足利義兼・千葉常胤・比企能員に陸奥の大河兼任追討命令。この日、千葉常胤、出陣。13日、常胤の長男・胤正、出陣。
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比企能員、東山道大将軍となり、上野・信濃の後家人を率いる。
「奥州叛逆の事に依って軍兵を分ち遣わさる。海道の大将軍は千葉の介常胤、山道は比企の籐四郎能員なり。・・・この外近国の御家人結城の七郎朝光以下、奥州に所領在るの輩に於いては、一族等に同道すべきの旨を存ぜず、面々急ぎ下向すべきの由仰せ遣わさると。」(「吾妻鏡」同日条)。
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2月12日
・足利義兼を大将とする奥州追討軍、大河兼任を衣川に撃破、兼任は土民に殺される。
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(奥州合戦の項、終り。戦闘詳細、功賞などは略しました)
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尚、この年2月26日
・西行(73)、河内の弘川寺にて没。
辞世「願はくは 花の下にて春死なん そのきさらぎの 望月のころ」
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1 件のコメント:
こんにちは。 おもしろく拝見しました。 ただ一箇所だけなのですが、大串重親が畠山重忠の郎党と紹介されていますが、大串重親は畠山重忠の郎党ではありません。 烏帽子親と烏帽子子ではありますが、ふたりは血が繋がった親戚関係す。 年は5歳か6歳位しかはなれていない様です。ふたりは兄弟の様な間柄だったと思われます。 大串重親は一国一城の城主であり、「武将」です。 大串重親は決して「郎党」ではありません。
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