大正12年(1923)9月2日
・朝鮮人暴動に関する(「不逞鮮人来襲」の)流言拡大。
朝鮮人虐殺(~7日)2,613人、中国人160人。10日迄兵員5万動員。
1日正午前の初震についで、人体に感じる余震がその日だけで128回以上に達し、翌2日は96回、3日は59回、4日は43回と連続する。
2日夜、「今夜二時頃、また大地震が来るかも知れません。その時は宮内省で大砲を二発打つから、皆さん用意して下さい」(法務府特別審査局資料第一輯「関東大農災の治安回顧」(特別審査局長吉河光貞著)との流言が広がる。
しかし、砲撃音なく烈震もないが、更にそれを追うように翌3日牛後11時に大地震が発生するなどという流言が続く。
その他の流言では、政友会首脳死亡(圧死)説、山本権兵衛暗殺説、囚人釈放・暴動説(実際に、2日夜には巣鴨刑務所で騒擾、看守の抜剣警備・威嚇発砲により鎮圧)。
1日夕方~夜、東京・川崎や横浜の一部で、「社会主義者や朝鮮人の放火が多い」「朝鮮人が来襲して放火した」との流言が起る。
全市が焼失して救済の見込みもなく、一部では掠奪事件も起る横浜(本牧町付近)では、1日夜7時頃、「不遇鮮人が来襲して放火する」との流言が起り、附近一帯に広がり、1時間後には、近くの北方町・根岸町・中村町、南吉田町に流布し、横浜港外に碇泊する船舶等にまで達する。
また、流言は「朝鮮人放火す」から、夜の間に「朝鮮人強盗す」「朝鮮人強姦す」というものとなり、更には殺人し、井戸その他の飲水に劇薬を投じているという流言にまで発展。
流言は、その日正午頃迄には横浜市内に拡がり、鶴見・川崎方面にまで達す。
震災で被害の甚だしい横浜市の被難民が東京西部にこれを伝える。
江東方面からもこの種の流言が広がり、2日午後迄にほ東京全市を包み、警察もこれを事実と信じて応戦体側をとる。
警視庁幹部は、
「流言の根源は、一日夜横浜刑務所を解放された囚人連が諸所で凌辱、強奪、放火等のあらゆる悪事を働き回ったのを鮮人の暴動と間違えて、どこからともなくいろいろの虚説が生まれ、電光的に各方面に伝わって不祥事を引き起した」
と話したという(10月22日付「報知」)。
吉野作造は流言飛語の出所についてこの説をとる。
後に警視庁刑事部捜査課は、
・流言が横浜方面から東京府に伝わった最初の地域は荏原郡であり、
・同郡の六郷村をはじめ蒲田、大森、入新井、羽田、駒沢、世田ケ谷の6町と調布、矢口、池上、玉川の4分村に
・ついで平塚、馬込の2村と、目黒、大崎町に、
またたく間に広がった事を確認。
捜査課の調べによると、2日牛後4時頃、六郷村方面から自転車に乗って大森町に入ってきた34~5歳の法被を着た男が、「大変な騒ぎだ。今、不逗朝鮮人千名ばかりが六郷川を渡って襲撃してきた。警戒、警戒」と、大声で叫びながら大井町方面に走り去ったという。
2日午前中、警視庁へは昨日来の火事は不逞鮮人の放火によるものとの流言飛語が伝わる。
午後3時頃、富坂署から暴行・放火の鮮人数名を検挙したとの報せがあり、正力松太郎官房主事が急行。
同時に、神楽坂署からも不遇鮮人の放火現場を民衆が発見したとの報告が入る。
4時頃、大塚署長から不達鮮人が大塚火薬庫襲撃の目的で集合中との訴えありと、応援を求めてくる。
5時、警視庁は、「鮮人中不逞ノ挙ニツイデ放火ソノ他強暴ナル行為ニイヅルモノアリテ、現ニ淀橋・大塚等ニ於テ検挙シタル向キアリ。コノ際コレラ鮮人工対スル取締リヲ厳ニシテ警戒上違算ナキヲ期セラレタシ」として各署に厳重取締りを命ずる。
6時頃、渋谷署長から「銃器・兇器を携えた鮮人約二百名、玉川二子の渡しを渡って市内にむかって進行中との流言あり」との報告が到着、世田谷・中野署長からも同様報告が入る。
警視庁は、渋谷・世田谷・品川等の各署に対し、不穏の徒あれば署員を沿道に配置してこれを撃滅するよう命令。
個々の朝鮮人の放火・暴行から部隊での来襲へと流言が成長する。
実際は、神奈川県高津村で警備の為に在郷軍人や消防夫を集めて半鐘を乱打したことが、対岸の世田谷方面での流言となり、世田谷署から警官隊が急行した事が、更に流言を大きくしたと、後日の調査でわかる。
警視庁は、自動車・ポスター・メガホンなどにより朝鮮人来襲の報を全市に撒く。
2日午後、内務省警保局長後藤文夫は、騎馬伝令を船橋送信所に派遣し、地方長官に宛てて打電。
「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる項締りを加えられたし」。
朝鮮人暴動の流言は、事実と断定され、警察と軍隊の通信網によって伝えられ、新聞も報道し、たちまち全国に広がり、流言には尾ひれが付いてゆく。
「朝日新聞社史」が挙げる警視庁に市内各警察署から報告された具体例。
①1日午後3時頃「社会主義者および朝鮮人の放火多し」、
②2日午後2時頃「朝鮮人約二百人神奈川県寺尾山方面において、殺傷、掠奪、放火等をほしいままにし、東京方面に襲来しつつあり」
「朝鮮人約三千人多摩川をわたりて洗足村および中延付近に来襲し、今や住民と闘争中なり」
など、流言飛語は時間の経過につれて規模が広がり、具体的になる。
吉野作造は、在日朝鮮人学生が結成した「在白朝鮮同胞慰問会」の調査委員から得た東京府、横浜市、埼玉、群馬、千葉、長野、茨城、栃木各県の被害総計として、10月末迄に殺害された朝鮮人の数を2,613名と結論づける。
彼は、改造社が企画する「大正大震火災誌」に、「朝鮮人虐殺事件」「労働運動者及社会主義者圧迫事件」を執筆し、前者の文中に殺害された朝鮮人の政を2613名と記し、虐殺現場の地名も克明に書きとめるが、内務省はこの発表を禁じる。
発行された「大正大震火災誌」の吉野作造論文「労働運動者及社会主義者圧迫事件」の末尾に、編集者の「お断り」を記す。
「法学博士吉野作造氏執筆「朝鮮人虐殺事件」・・・は、豊富なる資料と精細なる検討に依って出来た鏤骨苦心の好文字であったが、共筋の内閲を経たる結果遺憾ながら全部割愛せざるの巳むなきに到った。玆に記して筆者及び読者の御諒恕を仰ぐ」。
尚、「在日朝鮮同胞慰問会」のその後の調査では、殺害された朝鮮人の実数は6千以上に達すると発表されている。
布施辰治は「日本弁護士協会録事大正13年9月」で、官憲当局の発表は、朝鮮人の被害者数が一桁少なく、しかも殺害の原因となった流言飛語の出所を突き止めていない、これは流言飛語を放った者の正体が暴露されるのを恐れるためではないのか、と指摘。
また罪を自警団だけに帰し、官憲・軍隊が虐殺に関係しないという当局の言い方はあまりに白々しい、と官憲が関係した犯罪であることをも示唆。
・埼玉県内務部長通牒「不逞鮮人暴動に関する件」、各町村役場に通達。
各町村で自警団が組織され警察署共に朝鮮人を殺害。
「東京に於ける震災に乗じ暴行を為したる不逞鮮人多数が川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、又其間過激思想を有する徒之に和し、以て彼等の目的を達成せんとする趣聞き及び漸次其毒手を拝はんとする虞有之候。就ては此際警察力微力であるから町村当局者は、在郷軍人分会、消防子、青年団員等と一致協力して其警戒に任じ、一朝有事の場合には速かに適当の方策を講ずるよう至急相当手配相成度き旨其筋の来牒により此段移牒に及び候也」。
・夕刻近く、東京市と府下5郡に戒厳令施行。緊急勅令による戒厳令の一部施行。
「朝鮮人来襲」の流言が広がると、水野内相は戒厳令施行の方針を決める。
これを公布するには枢密院の議を経る必要があが、枢密顧問官を集めることができない為、伊東巳代治顧問官の諒解を得て、政府の責任で公布することになる。
2日夕方近く、戒厳令の一部が東京市と府下の荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾の5郡に施行。
戒厳司令官は、戒厳の目的に必要な限度で、地方行政事務と司法事務の指揮権を掌握、集会・新聞・雑誌・広告の停止、兵器・火薬等の検査・押収、郵便・電信の検閲、出入物品の捜査、陸海通路の停止、家屋への立入り検査などの権限を持つようになる。
朝鮮人暴動の流言が戒厳令施行の契機となったように、この戒厳は臨戦戒厳の一面も帯びている。
戒厳司令官森山東京衛戌司令官は、指揮下軍隊に対し、
「万一この災害に乗じ非行を敢てし治安秩序を紊るが如き者あるときは、これを制止し、もしこれに応ぜざる者あるときは、警告を与えたる後、兵器を用うることを得」
との訓令を発す。
戒厳は、暴徒鎮庄が直接の目的である。
東京衛戊司令部は、地震直後から活動、1日夜、近衛・第1両師団の全部隊を東京に呼び寄せ、戒厳令施行後は、陸軍は、習志野から来援の20数騎の騎兵に東京全市を駆け巡らせ、軍隊の到着を知らせる。
騎兵の馬蹄の響きは、恐怖と不安に満ちた人々に活気を蘇らせ、これを喜び迎える。
・第2次山本権兵衛内閣成立。夕刻、親任式。蔵相に元日本銀行総裁の井上準之助就任。
首相山本權兵衞、外相山本權兵衞(兼務)、内相後藤新平、蔵相井上準之助、陸相田中義一、海相財部彪、法総田健治郎(兼務)、文相犬養毅(兼務)、 岡野敬次郎、農商務相田健治郎、逓相犬養毅、鉄相山之内一次。
内務大臣後藤新平:
台湾の民政長官(台湾人虐殺)、米騒動時の外務大臣(水野錬太郎の後継。水野は米騒動・「3・15事件」のあとの内務大臣、朝鮮総督府政務総監)。
山辺健太郎説では、食糧暴動を防止するため、政府に向う民衆の反抗を朝鮮人に向ける。
東京衛戍司令官森岡守成中将は東京以外の地方師団の出兵を求め、
「万一、此ノ災害ニ乗ジ、非行ヲ敢テシ、治安秩序ヲ紊ルガ如キモノアルトキハ、之ヲ制止シ、若シ之ニ応ゼザルモノアルトキハ、警告ヲ与エタル後、兵器ヲ用ウルコトヲ得」
と、訓令。
「帝都復興」根本策。
①遷都せず、
②復興費30億円、
③欧米最新の都市計画を採用する、
④地主に対し断乎たる態度をとる。
後藤は、日清戦争後の台湾経営や日露戦争後の満鉄経営に手腕をふるい、2年前にも東京市長として8億円の都市改造計画を立案、大風呂敷の評判をとっていた。
後藤の復興計画案は、大蔵省との折衝で、復興費総額12億円、うち5億円を各省に配り、7億200万円が東京・槙浜の復興と都市計画にあたる帝都復興院の予算に組まれる。
・「夜に入りて発熱三十九度。時に○○○○○○○○(不逞な鮮人の暴動(の噂))あり。僕は頭重うして立つ能はず。円月堂(渡辺庫輔)、僕の代りに徹宵警戒の任に当る。脇差を横たへ、木刀を提げたる状、彼自身宛然たる○○○○(不逞鮮人)なり」(「大震前後」9月2日条(「女性」10月))。
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