赤羽一(号は巌穴)という明治期の社会主義者がいる。
彼は、大逆事件の大量検挙が始まる明治43年(1910)5月、「農民の福音」という本を出版、直ちに発売禁止の処分をうけ、朝憲紊乱罪で入獄する。
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そして、大逆事件被告たちが処刑された翌年の明治45年(1912)年3月1日に、獄中自死するに至る。
但し、彼の獄中死については、自死、病死など、説は一定ではない。
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例えば、大杉栄は、次のように書いている。
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「千葉では、僕等が出たあとで直ぐ、同志の赤羽厳穴が何んでもない病気で獄死した。其後大逆事件の仲間の中にも二三獄死した。今後もまだ続々として死んで行くだろう。
僕はどんな死にかたをしてもいいが、獄死だけはいやだ。少なくとも、有らゆる死にかたの中で、獄死だけはどうかして免れたい。」(大杉栄「続獄中記」)
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以下、赤羽一の簡単な年譜
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巌穴赤羽一は、明治8 (1875)4月5日、長野県東筑摩郡広丘村郷原(塩尻市)の地主・問屋の長男(父赤羽無事、母京)として誕生。
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16歳で家督を相続するが、病弱で農業に適さず、家督を弟の宜十に譲り、明治27(1894)年に上京。
翌明治28年、東京法学院(中央大学)入学する。
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明治31年(1898)7月、東京法学院を卒業し「神戸新聞」記者となり、この時、内村鑑三に傾倒する。
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明治32年1月、再上京し、島田三郎が主宰する雑誌「革新」、松村介石の雑誌「警世」の記者となる。
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明治35年(1902)、「嗚呼祖国」を出版し渡米。
明治36年10月、在米邦人が経営する経済新聞「新世界」に入社、サンフランシスコ日本人福音会で社会主義者と交流する。
日露戦争に反対し、片山潜・岩佐作太郎らと桑港日本人社会主義協会を結成し幹事となる。
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明治38年、帰国。
明治39年(1906)2月24日、結成された日本社会党に参加。
翌明治40年1月15日創刊の「日刊平民新聞」(4月14日廃刊宣言)編集委員となり、その後「京都日報」主筆となる。
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明治40年8月28日、片山潜・田添鉄治・西川光二郎ら議会政策派(「社会新聞」派)が結成した社会主義同志会に参加。
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翌明治41年2月16日、西川光二郎は、「社会新聞」より片山潜を除名し、社会主義同志会は、片山潜・田添鉄二派と西川光二郎派に分裂。
3月15日、西川らが「東京社会新聞」創刊すると、これに参画。筆禍で入獄する。
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明治43年(1910)5月、直接行動主義者の農民問題に対する総括見解とも言える「農民の福音」を出版。
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明治42年、サンフランシスコ(桑港)領事館事務代理領事官補高橋清一から外務大臣小村寿太郎に送られた報告書に赤羽一の名がある
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機密第六号
明治四十二年四月一日
在桑港総領事館事務代理
領事館補 高橋 清一
外務大臣伯爵小村寿太郎殿
当地在住本邦無政府主義者ノ近況ニ関シ別紙報告書差進候ニ付、御一覧相成度此段申進候敬具
米国加州ニ於ケル日本人社会党ノ状勢報告
目次
桑港日本人間社会党主義ノ萌芽
社会主義者演説会ノ嚆矢
安部磯雄ノ渡来
幸徳秋水ノ渡来
雑誌「革命」
天長節ノ不敬
近来ノ言動
「フレスノ」労働同盟
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(中略)
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社会主義者演説会ノ嚆矢
(*改行を施す)
越ヘテ千九百四年(明治三十七年)日露戦争既ニ始マリテ在留同胞社会ハ奮然トシテ起チ、軍資献納等ニ狂奔シ鶴首シテ捷報ノ到ランコトヲ待チツヽアルノ際、春三月頃ナリキ日本人美以教会ノ一室ニ社会主義者演説会ヲ開キタリ、
其出席弁士ハ赤羽巖穴、岩佐作太郎及二三ノ輩ナリ
赤羽巖穴ハ明治三十年頃日本ニアリテ数々ニ雑誌「日本人」ニ投書シタルコトアリ、
東京法学院ニモ二年程通学シタルモノニテ、
渡米后ハ桑港ニ於テ発行サルヽ日刊「新世界」ニ筆ヲ執リタル事アリ、
日本ヲ去ルノ際『嗚呼祖國』ヲ著ハシテ東京ニ於テ出版シタルカ、其中ニハ日本ノ国体ヲモ罵リタル意味アリ、
平生「トルストイ」ノ著ノ英訳シタルモノヲ愛読シタル故、宗教的博愛観ヨリ社会主義ヲ取ルニ至リタルモノニテ、今日ノ普通ノ経済上ノ理論ニ根拠ヲ置ク社会主義トハ大ニ其趣ヲ異ニシタリ、
彼レハ日露戦争ノ真最中ニ当ツテ、日本人福音会ニ於テ「平和ノ撹乱者ハ誰ソ」ト題スル演説ヲナセリ、其ノ大意ハ
日露間ノ平和ヲ撹乱シテ戦争状態ニ至ラシメタルモノハ誰ナル乎、
日本側ノ人ハ即チ曰ク露国ナリト、
左レト所謂漠然露国ト云フハ露西亜皇帝ヲ指スカ聞ク「ツアー」ハ極メテ意思弱クシテ多クノ場合ニ於テ皇后ニ支配セラレ彼ノ和蘭「ヘーグ」ニ開カレタル萬国平和会議ノ発議ノ如キハ正ニ皇后ニ動カサレタル結果也、
故ニ戦争ノ如キモ他ノ悪臣ノ為メニ制セラレ止ムヲ得スシテ起スニ至リタルモノニ然ラハ「ツアー」ハ戦争ヲ起シタルニアラスシテ其下ニアル野心家カ起シタルノミ、
又タ翻テ露西亜側ヨリ日本ヲ見タル説ハ戦争ハ露国政府ニ非ス、
日本カ之ヲ起シタルニヨリ止ムヲ得スシテ之ニ應スルノミト云フモ、偖其日本ト云フハ日本天皇陛下ヲ云フカ陛下ハ一視同仁ニシテ決シテ戦争ヲ好マス、
然ラハ日本ノ国民カ、
否 国民ハ何事モ知ラス、結局戦争ハ野心アル政治家富豪上級ノ軍人、功名心ヲ以テ満チタル新聞記者輩ニヨリテ起サレタル也
憐ムヘキハ一般下級ノ軍人ト国民トナリ、彼等ハ一部少数野心家ノ犠牲トナリテ其心血ヲ絞リ、其生命ヲ擲チツヽアリ、此点ヨリ見レハ我等ハ戦争ヲ非トスルト同時ニ暗殺ヲ是トス何トナレハ戦争ハ野心家カ他人ヲ犠牲トスルモノナレトモ暗殺ハ直ニ其野心家ヲ殺スモノナレハナリ云々
赤羽ハ名ヲ一ハジメト云フ長野縣ノ産、巖穴ト号ス、千九百五年(明治三十八年)ノ夏七月母ノ病ニヨリテ帰朝シ、後チ東京ニアリテ島田三郎氏ノ家ニ食客タリシ趣ニテ、又タ漸クニシテ社会主義ヲ捨テタリト傳ヘラル
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(後略)
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