先週金曜日(9月3日)、長く闘病生活を送っていた叔父(今年2月に逝った父の2歳年下の弟)が亡くなった。
9月4、5日と京都に行った。
叔父の自宅は京都市の南側、長岡京市の勝龍寺町というところにある。
勝龍寺城は、信長が細川藤孝に与え、明智光秀の娘お玉(細川ガラシャ夫人)がその藤孝の子の忠興と新婚生活を送った城で、光秀が山崎の戦いで拠った城である。
かねてから一度行ってみたい城址であり、少し早めに家を出て、寄ってみた。
折から、京都の京田辺市が39.9℃を記録した日であった。
もっとも、この気温、温度計に蔦が絡んだままの測定だったので、記録に残らないかも知れないとのこと。
最寄駅はJR「長岡京」駅。
城跡は、ここから歩いて10分足らずのところにある。
ところで、この「長岡京」駅、私がまだ京都に住んでいたころは、「神足」(こうたり)駅という名前であった。
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駅前にある道標
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駅前にある道標
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駅前の交番は「神足(こうたり)交番」であった。
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城跡までの一本道は「ガラシャ通り」というらしい。
城跡までの一本道は「ガラシャ通り」というらしい。
通りの風景は写真掲載すると「ロマン」が壊れると思う。
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勝龍寺城跡は、元の勝龍寺城の本丸を復元したもので、現在は公園として整理されています。
下の写真は、城(本丸)の北東角にある櫓
下の写真は、城(本丸)の北東角にある櫓
ここは、駅からは一番近い場所で、城の裏側にあたる。
勝龍寺は南に開けた山城国のその南にある前線基地であるため、城も南に向いている(従って、城の北側は裏側にあたります)
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北側の濠
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北側の濠
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北門跡
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北門跡
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整備された公園内
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整備された公園内
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城の南面
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城の南面
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西山連峰が見える
西山連峰が見える
この連邦のずっと南(写真でいう左側)に天王山がある
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井戸跡
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井戸跡
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「ガラシャおもかげの水」という。
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「ガラシャおもかげの水」という。
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忠興・お玉の像
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忠興・お玉の像
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神足遺跡の説明板
神足遺跡の説明板
言うところの「ガラシャ通り」にある。
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「★京都インデックス」をご参照下さい。
黙翁年表に見る勝龍寺城
①信長上洛直後の永禄11年(1568)9月26日
・先鋒の柴田勝家・蜂屋兵庫頭頼隆・森可成・坂井右近政尚4将、桂川を越え、三好三人衆岩成友通の西岡勝龍寺(2,500、向日市)攻撃。信長、勝龍寺表に着陣。
29日、岩成友通降伏。信長先手に加わる。
②将軍義昭追放後の天正元年(1573)7月10日
・細川藤孝、山城国桂川以西(西岡)の支配権を与えられる。一職に領知せよとの指令。
居城は勝龍寺城。
この地域に含まれる古くからの荘園領主は不満。従って、細川藤孝はその領域の各寺社家など荘園領主の所領をそのまま認める。
細川藤孝:
奉公衆三淵晴員2男、養子先の細川家は御供衆。
仕えた将軍義輝が三好三人衆・松永久秀に殺害された後、弟一乗院覚慶(のち義昭)を救出し近江・若狭・越前と放浪。
信長と対立しこれを除こうとする義昭を説得、疎まれ義昭に勘当される(実際は、これより先に藤孝の忠誠心が薄れる)。
元亀2年頃より信長・藤孝の手紙のやり取りは頻繁になり、元亀4年にも京都・畿内の情報を信長に送る。
信長の上京時、逢坂で出迎え忠誠を誓う。
上洛当初の信長は、荘園領主(公家・寺社家・武家)ごとに、将軍の保障(公方様の御下知)を出し、これを信長が朱印状を添える手続きを行う。
細川藤孝へは「一職のこと」の条件提示。
入組、所々散在、本役、加地子、下司、公文分など荘園に対する様々な領主権益(職)を改めて整理・掌握する狙い。
一方、名主百姓には「他納」「二重成」を厳禁し、「指出」提出を命じ負担関係整理掌握を狙う。
③山崎の戦い天正10年(1582)6月13日
両軍の戦力:
秀吉軍。高山右近・中川清秀・池田恒興など摂津衆が約1万、織田信孝・丹羽長秀など四国方面軍が約5千、秀吉勢が播磨衆・但馬衆など約1万5千の計3万。秀吉配下の因幡衆や与力大名宇喜多家の備前・美作衆は、毛利家に対する警戒のために残置。
光秀軍。光秀配下の坂本衆・丹波衆約1万2千、山城衆約3千、近江衆約3千の計1万8千人。
戦力差を跳ね返すため光秀の作戦計画:
光秀方は攻撃の主軸を右翼(西側)に置く。
この方面の秀吉勢は、背後に天王山があり戦力に厚みがなく、部隊の進退も難しいので、そこを力攻めで押し潰す。その頃には、大山崎町から出撃した秀吉方主力部隊が、左翼(東側)を押し込んでいる筈であり、その伸びきった側面に光秀方右翼が突入し敵主力を分断する。
作戦成功の鍵は左翼である。主軸の右翼部隊に兵力を集中すれば、左翼は手薄になり、その少ない兵力で敵主力の攻勢に耐えねばならない。
右翼の作戦が成功する前に左翼が突破されれば、全軍が崩壊することになる。この任務を担当するのは斎藤利三。
斎藤利三:
美濃出身。かつては美濃三人衆の稲葉一鉄に仕え、その姪を妻に迎えている。
武勇に秀で、蒲生氏郷は、若年の折に利三から合戦の手ほどきを受け、武辺に専心せよと訓戒されと述懐している。
「利三、平生嗜むところ、啻(タダ)に武芸のみに非ず、外には五常(仁・義・礼・智・信)を専らにして朋友と会し、内には花月をもてあそび、詩歌を学ぶ」(「惟任謀反記」)とある。
稲葉家は約3万石で、利三の知行は3千石を超えない程度。
稲葉家は約3万石で、利三の知行は3千石を超えない程度。
元亀2年頃、光秀が坂本5万石の大名に取り立てられた頃、利三は稲葉家を出て光秀に引き抜かれる。
天正7年、光秀の丹波平定後、利三は知行1万石と黒井城を与えられ、氷上郡の旗頭に据えられる。
6月8日、光秀が大坂に向けて出陣した際、安土城には伊勢の信雄への抑えとして明智秀満、長浜城には北陸の柴田勝家に対する備えとして斎藤利三を残留させる。勝家と戦う際に、長浜城は光秀方前線基地となるので、城の防御強化、兵糧・弾薬の集積などの準備を命じる。
しかし、乾坤一擲の決戦に臨み、利三を長浜に残す余裕はなく、9日夕、光秀は秀吉東上を知り、急使を派遣。
長浜~山崎の約90kmを3日で強行し、利三が戦場に到着したのが13日午後と考えられる。
光秀軍の奮戦:
光秀は、天王山側の右翼に山城衆・丹波衆ら約8千を、敵正面に対する左翼には斎藤勢・近江衆の約5千を配置。左翼は兵力が少なく、近江衆の戦意も乏しく、斎藤利三だけが頼り。
午後4時頃、斎藤勢が高山右近の守る大山崎町の東黒門に攻め懸け、合戦が開始。
この時、秀吉は、信孝勢が合流していたが、依然、前線から10km後方の富田にいる。
「秀吉の人数、備中・備前に相後れたる者これ多し」(「惟任謀反記」)、「この軍勢(秀吉勢)は幾多の旅と長い道のり、それに強制的に急がせられたので疲労困憊していて、予想どおりには到着しなかった」(フロイス「日本史」)とある。
秀吉の本隊の到着が遅れ、前線の秀吉方は苦戦。
光秀方左翼の斎藤利三は、部隊を徐々に後退させて、秀吉勢を大山崎町の陣地から引っ張り出し、円明寺川の線まで下がったところで反撃を開始し、敵主力部隊をその位置に釘付けにする。
右翼では、並河掃部・四王天但馬守・松田太郎左衛門などの丹波衆と、伊勢貞興・諏訪飛騨守・御牧三左衛門など山城衆からまる光秀方主力が、秀吉方の中川清秀を猛攻。
しかし、秀長配下の黒田孝高と神子田正治が中川勢を援助し、右翼の進撃を防ぎとめる。
膠着状況の中での両軍の激戦が続く。
光秀は、旗本部隊を藤田伝五に預けて右翼に追加投入するが、敵陣を突破できない。
右翼の進出が遅れている間に秀吉の本隊が戦場に到着し、左翼への圧力は増大するが、斎藤利三が懸命に防ぎとめる。
秀吉方の池田恒興・加藤光泰は、正面からの斎藤勢突破は困難と見て、迂回して淀川脇の葦原を進み、泥濘に悪戦苦闘しながら進撃し、斎藤勢の側面に突入。
たまらず斎藤勢が崩れ、戦意の乏しい近江衆は逃げ散り、明智方左翼は総崩れとなる。
秀吉勢はそのまま進出して、光秀方右翼の背後に回り込み、光秀方右翼は包囲されて壊滅、
並河掃部、伊勢貞興、諏訪飛騨守などの諸将が次々と討死。御牧三左衛門は、光秀に勝龍寺城に帰還するように進言した後、敵中に斬り込んで戦死。藤田伝五は淀城まで血路を切り開くも重傷を負い自刃。
光秀は、一旦勝龍寺城に戻り、夜半、溝尾庄兵衛など僅かなと脱出、坂本城を目指すが、伏見東北の小栗栖で落ち武者狩りの襲撃を受けて落命。
「哀れな明智は、隠れ歩きながら、農民たちに多くの金の棒を与えるから自分を坂本城へ連行するようにと頼んだということである。だが彼らはそれを受納し、刀剣も取り上げてしまいたい欲に駆られ、彼を刺殺して首を刻ねた」(フロイス「日本史」)。
旧参謀本部編「日本戦史 山崎の役」では、この合戦による死者数を、光秀方3千余、秀吉方3千3百余とし、戦死者の数の括抗を指摘。
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