大正12年(1923)9月1日
関東大震災
午前11時58分、相模湾の北西端を震源とするマグニチュード7.9の大地震。
昼食時のため火災が発生、大被害がでる。
死者9万9,331人、行方不明者4万3,476人、家屋全壊12万8,266戸、半壊12万6,233戸、被害総額60億円、震災恐慌突入。
主要動の継続時間は10分、震源地は東京の南26度西方向102kmの相模湾、地震は約1時間20分継続。
相模湾南西部の深さ1,300mの海底が、長さ24km・幅2~5.5kmにわたり100m以上陥没。最も激しい個所は180m陥没し、反動で湾北東部では海底が100m以上も隆起。
その影響で津波が発生。大島の岡田で12m、伊豆の伊東で12m、房総半島南端布艮附近で9m、三浦半島の剣ヶ崎で6m、鎌倉で3mの高波が襲来し、伊東で人家300棟以上、熱海で510戸、布良で90戸が流失。
殊に小田原~鎌倉の相模湾沿岸地域と房総半島の那古、船形・北条・館山等は最も激しい震動に襲われ、木造建物の全壊率は50%超、中には90%超の建物が倒癒した地域もある。
□神奈川県:
家屋倒壊数は、全棟4万6719戸、半壊5万2,859戸、仝家屋敷の36%強にあたり、これ以外に津波による流失家屋が425戸。
小田原:全家屋の8~9割が倒壊、市内は全焼。同町小峰の閑院官別邸も倒壊、滞在中の寛子殿下圧死。
根府川:山津波が根府川部落を埋め、駅に停車中の列車を乗客もろとも海中に押し流し約140名が没す。
鎌倉:神社仏閣多数破壊、津浪による被害も出る。
横浜市:
家屋倒壊数は全壊9800、半壊1万0732、全戸数の20%強。
中央部の関内周辺は埋立地で、洋館は石造又は煉瓦造りで耐震性なく、最初の強震で崩壊、内部にいた者は大半が圧死。グランドホテル、オリエンタルホテルも 倒壊し外人多数が即死。官庁の大半も倒れ、横浜裁判所では末永所長以下100余名がすべて圧死。南京街で在留中国人5千中2千が没す。
また、火災により多くの焼死者・溺死者を出す(市の全戸数9万8900戸中6万2608戸が全焼、庄死者を含む死者は2万3335名、重軽傷者1万208名。)。
横須賀:丘陵の地すべりが発生、鉄道トンネルが崩壊して列車3輌を埋め、家屋2301戸が倒壊。
浦賀、逗子、葉山、大磯、平塚、藤沢等の家屋も殆ど倒壊、平塚では海軍火薬廠でガスの引火による大爆発が起り構内の建物22棟が飛散。
□千葉県:
家屋の全壊1万2894、半壊6204。
館山湾内の那古では人家900戸が全て全壊。
館山町でも戸数1,700戸の99%が倒壊、附近一帯の田は2m沈下し砂が吹き出す。
館山町に隣接する北条町では、戸数1,600余戸中、全壊1,502、半壊47、郡役所、中学校、停車場等全てが全壊。古川銀行・房州銀行の建物が奇蹟的 に残った以外は柱の立つ家さえなく、町全体が壊滅。亀裂は深さ2mに及び、陥没地域も多く、測候所・小松屋旅館などは亀裂の中に落ちこむ。
□埼玉県:全壊4,562、半壊4,348、
□静岡県:全壊2,241、半壊5,216、
□山梨県:全壊562、半壊2,217、
□茨城県下:全壊157、半壊267
□東京府:
全壊家産1万6684戸、半壊2万0122戸。
山の手台地の倒壊家屋は全体の1割内外、江東の本所・東川方面では2割5分前後。
昼食時と重なり出火、また薬品による出火も多い。出火134ヶ所中57ヶ所は消し止めるが、残り77ヶ所の火が58の火流を作り、3日未明まで燃え続け る。210日を翌日に控え、この日朝方、低気圧が関東地方南部を横切り、東京では10時頃激しい降雨、やがて青空となり秒速10mを越す南風が吹き、各所 の出火は、この南風に煽られ燃え広がる。
都心の官庁街でも、有楽町1丁目の山勘綾丁から出火、3時過ぎには警視庁全焼。
和田倉門内の帝室林野管理局からの出火は、大手町の内務省・大蔵省に飛び火し、官庁街を焼いて日本銀行に迫る。
神田・日本橋・京橋・浅草・本所・深川の下町一帯は、各所の火の手が人々の退路を絶ち、また狭い道路と木造の橋とにより多数の焼死者が出る。
江東方面の人々は、両国横網町の陸軍被服廠跡の空地に争って避難するが、3時半頃旋風が起り、人々が持ちこんだ荷物に火がつき、避難者3万8千を一挙に焼き殺す(震災による東京市の全死亡者の4割)。
下町方面の火災が広がるにつれて下町からの避難民は、上野公園、靖国神社、宮城前広場、日比谷公園などの一帯に押し寄せ、夜には、宮城前~日比谷公園・東京駅前に50万、上野公園に40万となる。
浅草の凌雲閣(12階)は8階から折れる。建築中の内外ビルは後方に倒れ労務者300余が圧死。
芝区三田四国町の日本電気会社工場は米国製最新式設備をもつ3階建て鉄筋コンクリート造りであったが、第1震で全壊、勤務中の社員・職工約400中で、出口近くの10数名以外の全員没。
火災発生
昼食時で、かまどや七輪の火の上に材木・家財がのしかかり、火災が起る。
天ぷら屋などの飲食店では、激しい震動で油が鍋からこぼれ出て引火。
学校、試験所、研究所、製造所、工場、医院、薬局等にあった薬品類は、棚等から落下して発火。特に学校からの出火は最も多い。
地震直後より火災は東京市内15区全てに起り、麹町区10、神田区12、日本橋区2、京橋区10、芝区3、麻布区1、赤坂区4、四谷区1、牛込区5、小石 川区7、本郷区10、下谷区12、浅草区23、本所区17、深川区11、計134、郡部で44ヶ所から出火、合計178ヶ所に及ぶ。
内83ヶ所は消火され、95ヶ所で発した火災が強風に煽られ延焼し、更に飛火によって100余ヶ所から火の手があがる。炎は炎と合流し市内のみでも58の 大火系となって、最も速度の速い火系は毎時800m以上の速さで町をなめ尽し、58の流れの内13の火系で100万㎡(約30万坪)以上を焼失。
①本所区菊川町1丁目の煮豆商と2丁目の下駄歯入業・自動車業からの火が合流して北進、更に東南に転じ、竪川以南大横川東部の地域を焼き払い郡部に達す。
②日本橋本石町3丁目の薬品商と薬種問屋からの火は、北は神田川、南は京橋川、東南は大川、西北は高架線に連する日本橋区の大部分と神田区の一部を焼き、更に京橋区船松町に及ぶ。
③京橋区八官町の芸妓屋から起った火災は東進し、銀座通り~木挽町~築地に進み、大川を越えて月島に飛火し附近一帯を焼く。
④下谷区入谷町の洋傘柄商から発した火は、北風に乗じ左右に伸びて南進し、西は上野、東南は隅田川に達す。
⑤赤坂区田町の待合2軒と新町の蒲焼屋から出た火は、東南に急進し芝区北部の中心地~古川に達す。
⑥浅草区蔵前の東京高等工業学牧からの火は、浅草区南部、外神田、下谷南部を焼いて御成街道に及ぶ。
⑦京橋区霊岸島塩町の足袋商からの火は北進し、日本橋区~大川を越えて深川区に飛火し越中島に侵入。
⑧神田区猿楽町の人家に起った火は本郷区を焼く。
⑨麹町区帝室林野管理局からの火は、内務省に飛火して神田区東北部に延焼。
火災は、1月正午~3日午前6時迄続き、東京市の43.5%の1,048万5,474坪が焼き払われる。
日本橋区は1坪も残らず全焼し、浅草区98.2%・本所区93.5%・京橋区88.7%・深川区87.1%と被害は甚大。
東京市の全焼戸数は、全戸数48万3千戸中の30万924。死者・行方不明者(圧死・溺死含む)6万8660名、重軽傷者2万6268。
本所区横網町の陸軍被服廠跡の惨劇。
被服廠移転後、大正12年3月逓信省と東京市に払下げられ、近代式運動公園や小学校等が建設される予定の2万430坪余の広大な敷地。
附近の人々は絶好の避難地と考え、地元の相生警察署も避難民を誘導。
被服廠跡には多くの人々が家財とともに溢れ、火が四方から襲い、家財に引火し、大旋風が巻き起こり、推定約3万8千名(震災での全東京市の死者の55%)となる。相生署山内署長もここで殉職。
被服廠跡に避難した人は4万人と云われ、2千人(5%)が奇跡的に難を逃れたことになる。
この惨事は、突然起った大旋風と敷地内にぎっしり運びこまれた荷物の燃焼によって起った大火災によるもの。
旋風は馬と馬車を一緒に、川の水を数10mも、また何百と言う人間を豆を投げたように、巻き上げたとの目撃談があるという。
被服廠跡に次いで死者の多いのは浅草区田中小学校敷地内1081、本所区太平町1丁目46番地先横川橋北詰773、本所区錦糸町駅630、浅草区吉原公国490(内女性435)、深川区東森下町109番地先237、深川区伊予橋際209、本所区枕端際157等。
死者の多い場所は、広場か橋の袂で、火に追われた人々が密集し身動きならぬようになった時に火が四囲から殺到したことを示す。
東京市(郡部を除く)の死者数の最大のものは焼死者で5万2,178、次に溺死者5,358、圧死者は727。
東京市内の橋総数675で、地震によって墜落・破損したのは僅か18で、火災によって340の橋が被害を受ける。
文化学院内に預け置かれていた与謝野晶子が10年来書き溜めた「新訳源氏物語」の草稿1万枚が焼失。
浅草観音境内、石川島、佃島、神田区和泉町、佐久間町一帯が、住民の努力により焼失を免れる。
東京を中心とする交通・通信は全て不通。
地震の瞬間に電信・電話は切断。数時間後に横浜港内の汽船や海軍省船橋送信所から、震災発生が各地に報道される。
鉄道は、荒川鉄橋~御殿場駅区間が破壊され、罷災地では電燈・水道なども止まる。
8月24日に加藤友三郎首相が没し、地震発生時は、後任に推された山本権兵衛が組閣工作の最中で、震災の応急対策には、臨時首相内田康哉外相ら加藤内閣の閣僚があたり、水野錬太郎内相・赤池濃警視総監が当面の責任者となる。
二人は、朝鮮の独立運動弾圧の当事者コンビ。
水野は米騒動当時の内相で、万歳事件後、斎藤実総督の下で朝鮮総督府政務総監となり、赤池を警務局長に起用。赴任の際には爆弾の洗礼を受けている。
政府は地震直後に首相官邸の庭で臨時閣議を開き、首相を総裁とする臨時震災救護事務局を設ける。
しかし、この間に、深川の米倉庫が焼け、越中島の陸軍糧秣廠にも危険が迫り、食料不足の懸念により、緊急勅令によって非常徴発令を出すことにする。
午後4時半、赤池総監は、東京衛成司令官近衛師団長森山守成に対し出兵を請求。
警視庁・警察署が焼失し、弱体化した警察力では帝都の治安を完全に維持することは国難であり、まして窮乏困憊した民衆を煽動して事を起そうと企てる者がないとは限らないとの判断で、兵力による人心安定を図ろうとする。
9月1日夜、近衛師団・第1師団は宮城・官公庁・停車場・銀行・物資集積所などの警備に出動し、憲兵も市内の治安維持にあたる。
しかし、赤池総監は、5年前の米騒動の体験から、民衆の騒擾を恐れ、労働運動・社会主義運動の急進化にも不安を感じており、羅災地一帯に戒候令を布く事を水野内相に進言する。
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関東大震災 (文春文庫)
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