2010年9月18日土曜日

天文22年(1553)4月~6月 武田信玄の更級・埴科郡への侵攻  織田信長(20)と斎藤道三との対面 [信長20歳] 

天文22年(1553)4月
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・毛利軍、備後吉舎山に出陣、尼子軍と戦う。
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4月2日
・信玄の更級・埴科郡への侵攻
武田勢、筑摩郡刈矢原城を陥落させる。城主太田長門守捕縛。同日、塔ノ原城開城、降伏。
3日、会田虚空蔵山(松本市)付近焼討ち。葛尾城攻撃支度。
6日、同城を包囲。この間、埴科郡屋代城の屋代氏、更級郡塩崎城の塩崎氏、葛尾城下の坂木の地侍大須賀氏らが武田氏に帰属。
9日、葛尾城開城降伏。村上義清、越後長尾景虎頼る。
22日、武田勢、更科八幡で義清・北信濃の土豪らの要請をうけた越後長尾景虎軍5千と姥捨山北麓で遭遇戦。
長尾軍の猛攻に退却(越後勢の支援はなく、北信の国衆が主体で武田勢を破るという説あり)。葛尾城守備隊全滅。城番於曽源八郎討死。村上義清は旧領を回復、小県郡塩田城に拠る。第1回川中島の合戦のきっかけとなる。
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4月4日
・山科言継、禁裏東南の堀の浚渫にかかる役夫の洛中への賦課を大納言四辻季遠・日野晴光らと審議(「言継卿記」同日条。
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4月4日
・ミシェル・セルヴェ、異端者としてカトリック教会宗教裁判官の告発を受けヴィエンヌに監禁。7日脱獄。5月10日欠席裁判で有罪。6月17日セルヴェの似顔絵と蔵書5冊、火刑。
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4月8日
・山科言継、清水寺内地主(ジシュ)神社の祭礼にゆく(「言継卿記」同日条)。
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4月20日
・織田信長(20)、斎藤道三との対面
尾張中島郡の一向宗の大坊(尾張一向宗の中心御堂)富田正徳寺(愛知県一宮市)。
信長は供回り700~800を連れ、長さ3間半の朱槍500本、弓と鉄砲500挺を装備。
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「弓・鉄炮五百挺もたせられ」「富田と申す所は、在家七百間これあり。富貴の所なり。大坂より代坊主を入れ置き、美濃・尾張の判形を取り候て、免許の地なり」(「信長公記」)。
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会見は、信秀・政秀死後の尾張情勢と信長の本性を確認したい道三の強い希望で実現。
道三は、信長の真の器量を見抜き、「山城(道三)の子供、たわけ(信長)の門外に馬を繋ぐべき事案の内にて候」と嘆く。
以後、織田・斎藤同盟はより強くなる。
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5月1日
・武田晴信(信玄)、帰還。
7日、信濃の守護小笠原長時と桔梗原に交戦。
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5月20日
・信長(20)、津島社の禰宜九郎太夫の借銭を破棄(「張州雑志」)。
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5月21日
・ヘンリ7世曾孫娘ジェーン・グレイ、ノーサンバランド公ジョン・ダドリー息子ギルフォード・ダッドリーと結婚。
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6月13日
・山科言継、納涼を兼ねて妻の実家の葉室(西京区山田葉室町付近)に出かけ、松尾神社の御田植神事を見物(「言継卿記」同日条)。以後殆ど連年この神事を見物。
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6月17日
・讃岐の十河一存と三好長慶の弟・義賢、阿波国守護の細川持隆を阿波勝瑞城に暗殺。
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細川持隆は、三好元長・長慶父子の庇護者であったが、従兄弟の細川晴元が没落・流寓し、一方で長慶の弟、三好義賢が阿波・讃岐に実力を振うようになると、三好氏と関係は悪化。
持隆暗殺の口実は、持隆がかつての堺公方、足利義維の子、義栄を将軍につけようとして上洛しようとしたのに、義賢が強硬に反対したためという。実際には10数年後、この持隆の構想通りのことが行なわる。
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6月末
・ジョン・ダドリー、エドワード6世の病床を訪れ、カトリック教徒の異母姉メアリーへの王位継承の危険を説き、ついにジェイン・グレイの男子への王位継承を指示した勅状を手に入れる。
しかし、ジョン・ダドリーの不穏な動きは、カトリック貴族ノーフォーク公トマス・ハワードが察知。
トマスはメアリー逮捕の機先を制してメアリーを所領のフラムリンガム城に匿う。
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「★信長インデックス」をご参照ください
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