2010年9月10日金曜日

天文22(1553)年2月~3月 幕府政所執事伊勢貞孝、三好長慶に帰服 今川仮名目録追加21ヶ条制定 足利義輝と三好長慶との和睦が再度破綻 [信長20歳]

天文22(1553)年2月
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2月2日
・足利義輝、京都霊山城を修築。
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2月10日
・長尾景虎(24)の兄晴景、病没。
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2月17日
・フランシスコ・ザビエルの遺体、マラッカに運ばれ丘の聖母教会に埋葬。12月ゴアへ送られる。
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2月20日
・三好長慶軍、細川晴元軍を京都西郊に於いて撃破(「言継卿記」)。
月末、三好長慶指示で足利義輝、霊山城より御殿に戻るが、3日8日、再び霊山城へ入城。
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2月26日
・細川晴元勢が高雄に城を築き、27日、長慶軍がこれを攻撃。
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「今日、細川前右京兆(晴元)衆高尾五台山に城を用意し、人数これを出すと云々。鳴滝に於いて軍(イクサ)これあり。・・・」(「言継卿記」2月26日条)。
「今日三好(長慶)以下高尾へ押し寄す。一万計りと云々。今夜は山陣と云々。」(「同」27日)。
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2月26日
政所執事伊勢貞孝(元来親長慶派、幕府財政の総元締め、管領なきあとの最高責任者)、奉行人数人と共に長慶に起請文を提出、正式に帰服。
この存在が、後の長慶独裁を成功させる。
同日、長慶、将軍義輝を軟禁、反三好派奉行人上野信孝ら6人を人質に出すよう要求しこれを拉致(「言継卿記」2月26日条)。
幕府中枢の奉行人・奉公衆を義輝の手元から離す。
この頃、またも晴元残党が出没、徘徊。
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2月26日
・今川義元、家法「今川仮名目録追加」21ヶ条を制定。
父氏親が没直前の大永6年(1526)4月14日に制定した「今川仮名目録」33ヶ条の追加と条文の一部修正。
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「只今はをしなべで、自分の力量を以って国の法度を申付け、静謐する事なれば、しゆごの手入間敷き事、かつてあるぺからず」と述べる。
「自分の力量」で領国経営を推進する義元の決意表明。
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「仮名目録追加」第13条
「一、田畠山野境問答対決の上、越度の方、知行三ケ一を没収すべき旨、先条これあると雖も、あまり事過ぎたる歟(カ)のよし、各訴訟に任せ、問答の牓示境一ばいを以て、公事理運の方へ付け置くべき也」。
「先条」(氏親の「今川仮名目録」第2条)では、境相論の敗訴者が所領の1/3を没収されていたが、それでは厳しすぎるということで、訴訟対象の土地の2倍の広さの土地を敗訴者が勝訴者に渡すよう緩和されている。
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不人権の否定。
「仮名目録追加」第20条
「一、不人の地の事、代々の判形を戴し、各露顕の在所の事は沙汰に及ばず。新儀の不入、自今以後、之を停止す。惣別不人の事は、時に至て諸役免許を申し付け、叉、悪党に付ての儀也。諸役の判形申し掠め、棟別・段銭沙汰せざるは私曲也。棟別・段銭等の事、前々より子細有て、相定むる所の役也。然りと雖も、判形に載せ、別して忠節を以て扶助するにをいては、是非に及ばざる也。不入とあるとて、分国中守護使不人など申す事、甚だ曲事也。当職の綺、その外内々の役等こそ不人の判形出す上は、免許する所なれ。他国のごとく、国の別法にかゝらず、うへなしの申し事、沙汰に及ばざる曲事也。旧規より守護使不人と云ふ事は、将軍家天下一同の御下知を以て、諸国守護職仰せ付けらる事也。守護使不人とありとて、御下知に背くぺけん哉。只今はをしなべて、自分の力量を以て、国の法度を申し付け、静謐する事なれば、守護の手、入る間敷事、かつてあるべからず。兎角の儀あるにをいては、かたく申し付くべき也」

 「守護使不入」という中世的権利(=「うへなしの申し事」=「上がいない」「上を上とも思わない」という不人の特権)を否定。
「守護使不入」を楯とした治外法権的動きへの牽制。
この時期の三河での在地状況は、「守護使不入」を楯とした一揆体制が強固に構築されており、今川氏の三河支配は、まず「他国のごとく、国の別法にかから」ない「守護使不入」を楯とする一揆体制を「うへなしの曲事、不及沙汰曲事也」として解体しなければならなかった。
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第2条「たよりなき者訴訟のため、目安の箱、毎日門の番所に出し置く上ハ・・・」とし、目安箱を設置する。
通常、訴訟は、寄親寄子制の場合、寄子が寄親を奏者として訴え出るが、寄親寄子関係にない多くの領民(「たよりなき者」)のために目安箱を設ける。
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引き続き訴訟に関する法令をまとめた綻書13ヶ条が制定される(「訴訟条目」或は「訴訟条目十三ヶ条」)。
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3月
・毛利軍、備中に進出。成羽城主三村家親を援ける。猿掛城主穂田為資を攻め落とす。
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3月8日
足利義輝、三好長慶との和睦が破綻し京都霊山城へ入城

「武家(義輝)と三好筑前守との間の事、今日あい破れ、武家霊山へ御入城と・・・」(「言継卿記」)。
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3月16日
・松永久秀、山城畑で細川晴元の兵と戦い、これを破る。  
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3月18日
・相国寺方丈の地鎮祭。再建開始するも遅々として進まず。
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3月29日
・武田勢、深志城着。刈矢原進出。
31日、筑摩郡内で唯一小笠原方として残る刈矢原城下(松本市)焼討ち。
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この年正月末、信玄は佐久郡内山城主小山田備中守虎満に自筆書状をもって、「来る六日に不図出馬侯、世上への批判をば、砥石再興の出陣の由、堅く申し触れらるべく候、努々(ユメユメ)動(ウゴキ)などの事、流布あるべからず候」と伝える。
今回の出陣の目的は、実際には村上氏本拠の葛尾城攻めの出陣であるが、戸石城修築の為との噂を流させる。
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「★信長インデックス」をご参照下さい
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