2010年9月18日土曜日

明治6年(1873)8月10日~17日 西郷の朝鮮派遣を閣議決定(「内決」) 西郷の「使節暴殺論」の真意は?  [一葉1歳]

明治6年(1873)8月
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8月10日
・京都裁判所長北畠治房、京都府知事・参事が贖罪金を納付しないため、拘留する権利を委任してくれるよう司法省に電報で上申。
司法権中検事澄川拙三は司法大輔福岡孝弟に、京都裁判所へ委任するか司法裁判所を開くべきと上申。福岡は、太政官正院に、勅任官・奏任官の逮捕許諾請求を伺う。
太政大臣三条は困惑して判断を先送り。
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8月12日
・大学は教授、中学は教諭、小学校は訓導の職名決定。
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8月13日
閣議、朝鮮使節派遣議論
14日、西郷、板垣に手紙。閣議での積極的支持発言を求める。西郷を死なしてはならないという消極論に釘をさす。
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14日付け西郷の板垣宛て手紙

「少弟差し出され候儀」(西郷の朝鮮派遣)について、「御口出し成し下されたく」(閣議での板垣の支持発言を求める)。
そして、「是非此の処を以て戦いに持ち込み」たいので、使節派遣という「温順の論を以てはめ込」めば、「必ず戦うべき桟会を引き起こし申すべく」(使節暴殺論)、西郷を「死なせ侯ては不便(不憫)抔(ナド)と、若しや姑息の心を御起こし下され侯ては、何も相叶い申さず」と言う。
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8月14日
・京都府参事槇村正直、在東京の京都府出張所から「出京許可願」(最初から次第を指揮して欲しい)提出。15日、正院、却下。
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8月15日
・大久保利通、村田新八・大山巌に手紙(村田・大山はヨーロッパ留学中、岩倉と別れた大久保をパリで出迎え、川路・川村・前田などと慰労会を開いた。この礼状)。
「追々役者も揃ひ、秋風白雲の節に至り候はば、元気も複し見るべきの開場もこれあるべく候」と、事態収拾の自信をのぞかせる。翌16日、休暇をとり関西旅行へ。
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(改行を施す)
「・・・当方の形光は追々御伝聞も之れ有るべく、実に致し様もなき次第に立ち至り、小子帰朝いたし侯ても所謂蚊を背に山を負うの類にて所作を知らず、今日まで荏苒(ジンゼン)一同の手の揃を待ちおり侯、
たとえ有為の志ありといえども、此際に臨み蜘蛛の抱き合いをやったとても寸益もなし、且つまた愚存も之れ有り、泰然として傍観仕り候、
国家の事一時の憤発力にて暴挙いたし愉快を唱える様なる事にて決して成るべき訳なし、
尤も其の時世と人情の差異に関係するは無論なるべし、
詳細の情実は禿麾(トクキ、ちびた筆)の及ぶ所にあらず、宜しく新聞紙を閲して了察したまえ、
○久光公時しもあれ上京散々の風評、是れが為世上一般人気を動かすのみならず、内輪の患害少なからず、さりながら小子帰朝は一夕立の後にて格別の炎威を受けず候えども、要する処の病根は明瞭なる事ゆえ、小子に於ては其の憂を憂とせざること能わず、折角配意中に御坐候、・・・
○当今の光景にては人馬ともに倦(ア)きはて不可思議の情態に相成り候、追々役者も揃い秋風白雲の節に至り侯わは、元気も復し見るべくの場も之れ有るべく候、・・・
御約束の通り新聞差し送り候、先々月ごろ一度は送り候あいだ届き侯や、・・・」
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8月16日
・西郷、三条に自分を朝鮮使節として派遣するよう直談判。
板垣には、三条に対して「内乱を冀う心を外に移して国を興すの遠略」(国内の反政府エネルギーを海外に放散する効果)と述べて談判、「能々腹に入れ候」と理解してくれたとの手紙を17日の閣議の日の朝に送る。
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8月17日
・京都府知事・参事名代、京都裁判所に出頭し、裁判請書の提出と贖罪金納付を申し出る。
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8月17日
・西郷の朝鮮派遣を閣議決定(「内決」)
三条・西郷・板垣・大隈・後藤・江藤参議会議。
西郷は板垣に「生涯の愉快此の事に御在候」と感謝。
翌々19日、太政大臣三条実美、箱根官ノ下行在所に避暑中の天皇に上奏。天皇は、了承するも、岩倉帰国後に熟議するよう指示。
9月1日、三条は西郷に、使節に「内決」したので外務卿と協議して準備を進めるよう促す。西郷は9月20日出発で準備。
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■17日付け西郷の板垣宛て手紙:
前夜(16日)、参殿して三条に会い、「縷々言上」した。
板垣らの「御療治能く行き届」いたとみえ、「先日正院において申し立て候砌(ミギリ)とは、余程相替り居り候」様子だが、岩倉使節団帰国まで結論は待ちたいとの三条の意向が気がかりで、「何分安心いたし兼」ねと板垣に報告し、三条に対して次のように談判に及んだと説明。


(改行を施す)
「此節は戦いを直様(スグサマ)相始め侯訳にては決してこれなく、戦いは二段に相成り居り申し侯。
只今の行き掛かりにても、公法上より押し詰め侯えば、討つべきの道理はこれあるべき事に候えども、是は全く言い訳けのこれある迄にて、天下の人は更に存知これなく候えば、
今日に至り候ては、全く戦いの意を持たず侯て、隣交を薄くする儀を責め、且つ是迄の不遜を相正し、往く先隣交を厚くする厚意を示され候賦(ツモリ)を以て、使節差し向けられ候えば、
必ず彼が軽蔑の振舞い相顕れ侯のみならず、使節を暴殺に及び候儀は、決って相違これなき事に候間、
其の節は天下の人、皆挙げて討つべきの罪を知り申すべく候間、是非此処迄に持ち参らず候わでは相済まざる場合に候。」
と、使節派遣の狙いを説明。
(板垣に対してと同様に、三条に対しても使節暴殺論で自己の使節派遣の意図を説明)。

西郷は、さらに三条に対し、
内乱を冀う心を外に移して、国を興すの遠略は勿論、旧政府の機会を失し、無事を計って終に天下を失う所以の確証を取って論じ侯」
と、征韓には国内の反政府エネルギーを海外に放散する効果があること、および旧幕府の事なかれ主義がその滅亡の原因だったことなどを論じて決断を促し、三条が「能々(ヨクヨク)腹に入れ候」と理解したと、板垣に報せる。

板垣には、ともかく必ず出席するよう要請し、
「少弟差し遣わされ候処御決し下されたく、左候えばいよいよ戦いに持ち込み申すべく候に付き、此の末の処は、先生に御譲り申すべく侯間、夫迄の手順は御任し下されたく合掌奉り候」
と述べ、また決定のあかつきには、岩倉使節の帰国までに手筈を整えるため外務卿に国書案の作成を命ずるよう、三条に「押し付け置」いたと伝えている。
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17日の閣議で西郷を朝鮮派遣使節に任命する件が議決され、西郷は、
「実に先生の御蔭を以て快然たる心持ち始めて生じ」、
「病気も頓(ニワカ)に平癒、条公の御殿より先生の御宅迄飛んで参り候仕合い、足も軽く覚え申し候。もふは(もはや)横棒(ヨコボウ)の憂いもこれある間敷、生涯の愉快此の事に御座候」
と板垣に感謝している。
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■西郷の論旨の矛盾
「全く戦いの意を持たず・・・往く先隣交を厚くする厚意を示」す意図(賦ツモリ)をもって使節を派遣せよと主張し、朝鮮側が「必ず・・・暴殺に及」ぶから開戦に持ち込むと言う。
しかし、もし朝鮮側が暴殺に及ばない場合は、開戦の名義が作れないことになる。
周到な西郷はそれに気付いているはずであり、使節暴殺開戦論が西郷の真意かどうかを検討する必要がある。
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■使節暴殺開戦論は開戦派の板垣説得の便法:
たとえ西郷の使節派遣が内決しても、清国との交渉で成果を上げた外交の直接の責任者である外務卿副島種臣が使節に任命される可能性が高い。
おまけに、西郷を除く参議5人中で肥前出身の大隈、大木、江藤は、同藩出身の副島派遣に同調する可能性が高い。これら3人は、肥前藩の学者で副島の実兄である枝吉神陽の門下生である。従って、西郷が期待できるのは、残りの2名の板垣、後藤の土佐勢であった。
実際にも使節暴殺に触れているのは、板垣宛て書簡のみである。
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■西郷のこれまでの、対立の平和的解決の事例
①元治元年(1864)の第1次長州征討の際、征長軍参謀の西郷は、当初長州藩に厳しい処分を加える方針を表明。
9月7日付け大久保利通宛の書簡には、「是非兵力を以て相迫り、其の上降を乞い候わば、わずかに領地を与え、東国辺へ国替迄は仰せつけられず候ては、往先御国(薩藩)の災害を成し」と主張。
しかし、同月19日付け大久保宛書簡では、「(長州領へ)攻め掛り日限相分り侯わは、直様私には芸(州)へ飛込み、吉川、徳山辺の処引き離し候策を尽くし申したく、内輪、余程混雑の様子に御座侯間、暴人の処置を長人に付けさせ侯道も御座あるべきかと相考え居り申し侯」
(芸州に乗り込んで、長州の末家(吉川家)や支藩(徳山藩)を本藩から引き離し、かれらに「暴人」を始末させて無血降伏に導くやり方もある)とし、「兵力を以て相迫り侯て、右等の策を用い侯わば、十に五六は背立ち侯わん」と言う。
「兵力を以て相迫」るのは平和解決への布石・条件づくりといえる。
結局、第1次長州征討は、西郷の目算どおり、吉川家の斡旋で長州藩が謝罪降伏して落着する。
この時、降伏条件の一つに、長藩に亡命している三条実美ら五卿を藩外に移転させる事があり、奇兵隊など長州強硬派が、五卿のいる長府に集結する不穏な情勢となった。西郷は、わずかの供を連れただけで敵地に乗り込んで説得し、この難問を解決している。
西郷は、表面では強硬態度を示しながらも平和的解決の可能性を模索し、かつ決定的時点では敵地にみずから乗り込んで話をつけるという行動をとっている。
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①慶応4年(1868)1月7日、新政府は、徳川慶喜追討を布告し、西郷は東征大総督府参謀(東征軍の事実上の責任者)となる。
西郷は、当初慶喜に厳重処分を下すべしとの意見を表明。
2月2日付大久保利通宛て書簡では、「慶喜退隠の歎願、甚だ以て不届千万、是非切腹迄は参り申さず候ては相済まず、・・・断然追討在らせられたき事」と述べている。
しかし、この2月中に、大久保は、三箇条の降伏条件(「一、恭順の廉を以て慶喜処分の儀寛大仁恕の思食しを以て死一等を減ぜらるべき事、一、軍門へ伏罪の上備前へ御預けの事、一、城明け渡しの事、但し軍艦銃砲相渡し侯勿論の事」)を岩倉具視に提案すると、西郷は、3月9日に徳川の使者山岡鉄太郎に殆ど同じ条件を回答している。
既に、大久保と西郷との間で降伏条件についての事前了解があったと推定される。
しかし、西郷は、表面では強硬態度をくずさず、静寛院(和宮)ら徳川側の嘆願を受け付けず、江戸城総攻撃の気勢を示す。
ところが、3月13日、勝海舟との会見によって江戸開城が決まる。
江戸無血開城は、西郷にとっては予定の行動であり、彼が表明した強硬意見は、無血解決への条件づくりの意味合いが強い意図的発言と推測できる。
戊辰戦争末期の庄内藩降伏問題でも同様な行動様式をとっている。

まず強硬態度を表明し、併せて実力行使への周到な準備をも整えながら、交渉による解決の可能性を徹底的にさぐり、土壇場ではみずから先方に乗り込んで話をつける、というやり方
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10月15日の閣議に際し、西郷は、太政大臣にこれまでの経緯を説明した「始末書」(朝鮮使節問題に関する西郷の最終的な公的意思表明)を提出。
西郷は、「公然と使節差し立てら」れ、「是非交誼を厚く成され侯御趣意貫徹いたし候様これありたく」、かつ先方の対応如何では、「是非曲直判然と相定め侯儀、肝要」と述べている。
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■西郷は、なぜ朝鮮国政府との交渉を急いだのか。
「木戸孝允日記」明治4年11月9日条(11月12日の岩倉使節団出発直前)に、
「四字(時)西郷を訪う不在、直に岩卿(岩倉)に至り条公(三条)、西郷、大隈、板垣等の会す。且朝鮮へ着手の順序を論ず。五字過退散」とある。
この日、三条太政大臣以下の正院全メソバーが集合し、5時過ぎまで「朝鮮へ着手の順序」を協議。翌10日には一行は東京を出発。
この出発直前の会合で朝鮮対策についての意思統一がはかられ、その実行が留守政府の手に託されたと推測できる。
このときの了解に基づいて、西郷は、北村や別府を朝鮮に派遣し、副島外務卿も渡清することになったと思われる。
従って、5月に釜山大日本公館で事件が発生すると、西郷は自己の職責として問題の解決にあたらねばならないと思った。
西郷の主観においては、使節派遣提案はかれの個人プレーでなく、岩倉使節団出発に際して大臣・参議間で事前に了解し合ったことの具体化を意味している。
西郷は、朝鮮との国交関係の正常化を実現することが緊要な国家的課題であると見て、自らの修交を期した。
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■西郷の征韓論(「鳥尾小弥太の回顧録」):
征韓を目的として、先づ目的を定め置き、其の目的を以て内政を改革するの密意に出しなるべし」。
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■西郷の内政改革:
「今日の計は断然武政を布きて、天下柔弱軽佻の気風を一変し、国家の独立を全ふするの為には外国と一戦するの覚悟を取るを以て上計とす
是れ国を興すの早道なり。
・・・今、此の武政を立るの方案は、先づ全国の租税を三分して兎に角二分を陸海軍に費す事と定め、
而して已に士族の常識を解きし者を従前に引き戻し全国の士族を配して悉く六管鎮台の直轄となし、厳格の法律を立ててこれを制裁し、
丁年以上四十五歳迄の男子は残らず常備予備の両軍に編すべし
・・・全国一般の平民は屯田の法に倣ひ、処々に軍団を置き、男子の役に堪ふる者を冬春の候に挙げて悉く徴集訓練し、以て護国軍となし、全国男子の風教は所謂武士道を以て陶冶すべし。
而して政府は不必用の官省を悉く廃し、質素倹約を旨として、甚しく言はば茅屋破壁の内に公務を弁ずと云ふ有様に痛く節減を加へ、其の左右大臣中の一人は必ず大将を以てこれに任じ、親しく天皇陛下の命を受けて海陸の大権を収め、以て此の武政を統一せべし」(「明治文化全集」)。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい
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