2010年9月14日火曜日

昭和14年(1939)年9月14日永井荷風「断腸亭日乗」「戦争の禍害を示すものにあらず寧その利福を語るものなるべし。」

永井荷風「断腸亭日乗」の昭和14年(1939)年9月頃の記事です。
この年、日中戦争では重慶爆撃が熾烈を極めた時期で、ノモンハンでの日本陸軍の大敗があった頃です。
(以下、読み易くするために改行を施す。)
*
「九月十四日。晴。暑気昨日の如し。午後銀座第百支店及土州橋病院に至り淺草の米作に飰(ハン)す。
この店は料理あまり安き方ではなし。一汁三菜にて一人前大低二三圓を要す。
然るに客の風采を見るに小商人または小工場の主人らしきもの多く、其中には家族づれにて酒盃を傾るものもあり。
この有様は戦争の禍害を示すものにあらず寧その利福を語るものなるべし。
*
戦時インフレは、俸給生活者(軍人を含む)の生活を直撃しますが、「軍需」に繋がる人達は末端に至るまで多かれ少なかれその恩恵にあずかったんですね。多分、「役人」なんかもその繋がりに在ったりするんでしょうが。料亭や温泉なんかも潤ったそうです。
*
*
その翌日、
「九月十五日。黄昏花村に至り夕飯を喫して後、三越店頭に立ちて電車を待つ。
女の事務員賣子等町の両側に群をなして同じく車の來るを待てり。
颯々たる薄暮の涼風短きスカートと縮らしたる頭髪を吹き飜すさま亦人の目を喜ばすに足る
余は現代女子の洋装を以て今は日本服のけばけばしき物よりも遥に能く市街の眺望に調和し、巧に一時代の風俗をつくり出せるものと思へるなり。
見るからに安ツぽききれ地の下より胸と腰との曲線を見せ、腕と脛とを露出して大道を闊歩するその姿は、薄ツペらなるセメントの建物、俗悪なるネオンサインの廣告、怪し気なるロータリーの樹木草花などに對して、渾然たる調和をなしたり。
之を傍観して道徳的悪評をなすは深く現代生活の何たるかを意識せざるが故なり。〔以下一行半切取〕」
*
*
これを、たんなるオヤジ視線で女性を見ている、と解釈したら大間違い、らしい。
実は、この年6月16日、
国民精神総動員委員会では、遊興営業時間短縮、ネオン・パーマネント廃止、学生の長髪禁止、中元歳暮の贈答廃止等、生活刷新案を決定しました。
ところが、その直後の6月23日、
「パーマネント」の名前を使わず、「大日本電髪理容連盟」が結成されます。
パーマネントが「電髪」と改名され、女性たちに支持され続けます。多分、経済性、活動性の点からも、支持されたのでしょう。
*
例えば、6月21日条は面白い。
「六月二一日。晴。午後写真現像。燈刻七時出でて銀座松喜に飯し芝公園を歩みて帰る。
頃日 世の噂によれば軍部政府は婦女のちぢらし髪(パーマネントウエーブ)を禁じ男子学生の頭髪を五分刈のいがぐり頭にせしむる法令を発したりといふ。
林荒木等の怪し気なる髯(ひげ)の始末はいかにするかと笑うものもありといふ。」
*
こういう背景があって、9月15日の記事になる。
荷風散人、「電髪」に喝采を贈る、というところでしょうか。
この個所は、一部、半藤一利さんの受け売りです。
*
*
9月18日
「九月十八日。驟雨來ること数回なり。枕上雨聲をきいて眠を食ること終日。夜銀座に飰して淺草を歩む。〔以下二行弱抹消〕
人の噂にこの頃市中に砂糖品切となりし由日本政府窃に之を獨乙に輸出するためなりと云〔以上行間補〕〔以下六行強切取〕」
*
9月19日
「九月十九日。晴雨定りなし。晡下淺草玉の井を歩み日本橋に飰してかへる。谷中氏電話あり。銀座に至るに常盤座踊子三人谷中氏と共に在り。梅林に入りて笑語す。
〔欄外朱書〕獨露両国ノ兵波蘭土ヲ占領ス」
*
これについても、9月2日にはこんな事を言っている。
「九月初二。午後平井君来る。閑話昏暮に至る。共に出で、数寄屋橋にて別れ、有楽町停車場にて一昨日約束せし女に逢ふ。共に銀座を歩み芝口の安飲屋千成に飯す。帰途明月皎然たり。
此日新聞紙独波(=ポーランド)両国開戦の記事を掲ぐ。
シヨーパンとシエンキイツツ の祖国に勝利の光栄あれかし。
ドイツ負けろ、ポーランド勝て、と。
*
9月21日
「昭和十四年九月二十一日。昨日の涼しさに似ず残暑再び燬(や)くが如し。終日鄰家のラヂオに苦しめらる。燈刻出でゝ花村に飯し銀座を歩む。驟雨を獨逸猶太人の茶店に避けてその霽るゝを待つ。家へかへれば既に十時なり。
此夜尾張町のあたりに酔漢多く、[この間約半行切取。以下行間補]軍人の徃々女子を携ふ[以上補]るを見る。醜態憎むべし
余は平生より日本人の酒に酔ひたる程見苦しくまた厄介なるものはなしと思へるなり。厄介とは傍人に迷惑をかけながら毫もこれに心づかざることを謂ふなり。
酔漢の中には半ば心づきて居るものもあれど、酒の上の暴言亂行は許さるべきものと承知の上にて敢てするもの尠からず。横着甚だしきものなり。
日本の酔漢はおのれ一人酔ふことを好まず、必ず傍人に盃を強ひる癖あり。其の心理は明かに解釈しがたけれど、遺傳の陋習與つて力あるものゝ如し。
人の家に不幸ありし時、吊悼のために集り来る日本人の通夜をなすと称して徹宵飲酒口論をなす有様を見なば{此間一行弱切取。約五字抹消。以下行間補}事自ら明かなるべし{以上補}。
概して日本人は各個性の趣味嗜性の如何については考慮する餘祐なく、唯おのれの好むものを人に強ゆること、恰も保険会社勧誘員の喋々呶々(どど)するに似たり。
戯作者式亭三馬が四十八癖を著して酔人を罵りしは百五六十年もむかしの事なり。
今日昭和戦勝国の酔漢を見るに、一世紀以前の状態と更に異るところなし。兇暴なる行為は却てそれよりも甚しくなれり。〔以下八行弱切取〕」
*
9月23日
「九月念三。時々驟雨沛然。午後に至り風また吹出でしが夕刻に至りて霽れたり。銀座のモナミに夕食を喫す。
パタ及チース品切なりとて之を用ひざれば料理無味殆ど口にしがたし。この二品は日本政府これを米國に送り小麥及鐡材を買ふなりと云ふ。
東京市内いづこの西洋料理も今年三四月頃よりパタの代りに化學製の油を用うるがため膓胃を害する者多しといふ。
食後淺草に至り見るに谷中氏田毎某女森永茶店に在り。暫くにして常磐座踊子数名來る。歸途また雨。
〔欄外朱書〕洋画家岡田三郎助歿行年七十一」
*
9月25日
「九月念五。晴。晡下土州橋より淺草に徃く。歸途電車内にて酔漢の嘔吐するもの二人あり。女車掌これを見るや直様袋に入れたる砂を持来りて汚物の上にまきちらすなり。
袋入の砂は平生車中に用意してあるものと見えたり
世界中いづこの街にも此の如き乗客を見ることは稀なるべく、此の如き準備をなせる車を見ることも亦絶無なるべし。[以下三行強切取。以下欄外補]
余は此の如き醜態を目撃する毎にこの民族の海外に発展することを喜ばざるものなり。[以上欄外補〕」
*
*
なかなか含蓄あること言う、と思う。
このところ、ずっとハマって抜けられない。
*
*
*

0 件のコメント: