ともあれ幸運にも大きな被害のなかった荷風散人、ゆきがかりから二家族に宿所を提供することになる。
てっきり二家族と思ってたら、よく読めば実はプラス一女性なんですね。
更に続けます。
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九月十二日。窗外の胡枝花開き初む。
九月十三日。大久保より使の者来り下谷の伯父母大久保に来り宿せる由を告ぐ。
九月十四日。早朝大久保に赴き鷲津伯父母を問安す。夕刻家に歸る。
九月十五日。時々驟雨。餘震猶歇まず。
九月十六日。午後松筵子細君を伴ひ来り訪はる。野方村新居の近隣秋色賞すべきものありとて頻に来遊を勧めらる。松筵君このたびの震災にて多年蒐集に力めたる稀書繪画のたぐひ、悉く灰燼になせし由。されど元気依然として溌剌たるは大いに慶賀すべし。
九月十七日。両三日前より麻布谷町風呂屋開業せり。今村令嬢平澤生と倶に行きて浴す。心気頗爽快を覚ゆ。
九月十八日。災後心何となくおちつかず、庭を歩むこともなかりしが、今朝始めて箒を取りて雨後の落ち葉を掃ふ。郁子からみたる窗の下を見るに、毛虫の糞おびたゞしく落ちたり。郁子には毛虫のつくこと稀なるに今年はいかなる故にや怪しむべき事なり。正午再び今村令嬢と谷町の銭湯に往く。
九月十九日。旦暮新寒脉ゞたり。萩の花咲きこぼれ、紅蜀葵の花漸く盡きむとす。虫聲喞々。閑庭既に災後凄惨の気味なし。湖山楼詩鈔を讀む。
九月二十日。午前河原崎権十郎、同長十郎、川尻清潭、相携へて来り訪はる。午後驟雨あり。小野湖山の火後憶得詩を讀む。門前の椿に毛虫つきたるを見、竹竿の先に燭火をじて焼く。
九月廿一日。午後酒井晴次来談。夜雨霏霏たり。
九月廿二日。雨後俄に冷なり。十月末の如し。感冒を虞れ冬の洋服を着る。月あきらかなり。
九月廿三日。朝今村お栄と谷町の銭湯に赴く。途上偶然平岡画伯に邂逅す。其一家皆健勝なりといふ。午後菅茶山が筆のすさみを讀む。曇りて風寒し。少しく腹痛あり。夜電燈點火せず。平澤夫婦今村栄子一同と、湯殿の前なる四畳半の一室に集り、膝を接して暗き燭火の下に雑談す。窗外風雨の聲頻なり。今村お栄は今年二十五歳なりといふ。實父は故ありて家を別にし房州に在り、實母は藝者にてお栄を生みし頃既に行衛不明なりし由。お栄は父方の祖母に引取られ虎ノ門の女學館に學び、一たび貿易商に嫁し子まで設けしが、離婚して再び祖母の家に歸りて今日に至りしなり。其間に書家高林五峯俳優河合の妾になりゐたる事もありと平澤生の談なり。祖母は多年木挽町一丁目萬安の裏に住み、近隣に貸家多く持ち安楽に暮しゐたりしが、此の度の災火にて家作は一軒残らず鳥有となり、行末甚心細き様子なり。お栄はもともと藝者の児にて下町に住みたれば言語風俗も藝者そのものなり。此夜薄暗き蝋燭の光に其姿は日頃にまさりて妖艶に見え、江戸風の瓜實顔に後れ毛のたれかかりしさま、錦繪ならば国貞か英泉の画美人といふところなり。お栄この月十日頃、平澤生と共にわが家に来りてより朝夕食事を共にし、折々地震の来る毎に手を把り扶けて庭に出るなど、俄に美しき妹か、又はわかき戀人をかくまいひしが如き心地せられ、野心漸く勃然たり。エドモン、ジャルーの小説 Incertaine の記事も思合されてこの後のなりゆき測り難し。
(*註 「お栄この月十日頃、・・・」とあります。いつのまにか、宿所提供者が増えていました。
「俄に美しき妹か、又はわかき戀人をかくまいひしが如き心地せられ、・・・」とは、初々しいのか?、それともイヤらしいのか?)
九月廿四日。昨来の風雨終日歇まず。寒冷初冬の如し。夜のふくるに従ひ風雨いよいよ烈しくなりぬ。偏奇館屋瓦崩れ落ちたる後、修葺未十分ならず。雨漏甚し。
九月廿五日。昨夜の風雨にて庭のプラタン樹一株倒れたり。その他別に被害なし。正午岩村數雄来る。松筵子門弟一座の者に衣食の道を得せしめんがため、近日関西に引移る由。岩村生の語るところなり。此日一天拭ふが如く日光清澄なり。夜に入り月光また清奇水の如し。暦を見るに八月十五夜なり。災後偶然この良夜に遇ふ。感慨なき能はず。
九月廿六日。・・・。此日快晴日色夏の如し。午後食料品を購はむとて澀谷道玄阪を歩み、其の邊の待合に憩ひて一酌す。既望の月晝の如し。地震晝夜にわたりて四五回あり。
九月廿七日。心身疲労を覚え、終日睡眠を催す。讀書に堪えされば近巷を散歩し、丹波谷の中村を訪ふ。私娼の周旋宿なり。此夜月また佳し。
(*註 誰でも、「エッ」と驚きます)
九月廿八日。震災見舞状を寄せられし人々に返書を郵送す。
九月廿九日。中野なる松筵子が僑居を訪はむと家を出でしが電車雑沓して乗ること能はず。新宿より空しく歸る。
九月三十日。曇りて午後より小雨ふる。・・・。夜豪雨。・・・。
十月朔。災禍ありてより早くも一個月は過ぎたり。予が家に宿泊せる平澤夫婦朝より外出せしかば、家の内静かになりて笑語の聲なく、始めて草廬に在るが如きするを得たり。そもそも平澤夫婦の者とはさして親しき交あるに非らず。數年前木曜會席上にて初めて相識りしなり。其後折々訪来りて頻に予が文才を称揚し、短冊の揮毫を請ひなどせしが、遂に此方より頼みもせぬに良き夫人をお世話したしなど言出せしこともありき。大地震の後一週間ばかり過ぎたりし時、夫婦の者交る交る来り是非にも予が家の厄介になりたしといふ。情なくも斷りかね承諾せしに、即日車に家財道具を積み載せ、下女に曳かせ、飼犬までもつれ来れり。夫平澤は二十八歳の由、三井物産會社に通勤し居れど、志は印度美術の研究に在りと豪語せり。女は今年三十三とやら。本所にて名ある呉服店の女の由。中州河岸に家を借り挿花の師匠をなし居たるなり。現代の雑誌文學にかぶれたる新しき女にて、知名の文士画家實業家の門に出入することを此上もなき栄誉となせり。色黒くでぶでぶしたる醜婦にて、年下の夫を奴僕の如く使役するさま醜猥殆ど見るに堪えず。曽我の家の茶番狂言などには適切なるモデルなり。凡そ女房の尻に敷かるゝ男の例は世上に多けれど、此の平澤の如きは盖稀なるべく、珍中の珍愚中の愚と謂ふべし。近年若き學生など年上の醜婦に取入り其の歓心を得ることを喜ぶもの多くなりし由は予も屡耳にせし所なり。されど其の最醜劣なる實例を目睹するに至っては、流石の予も唯驚歎するのみにて言ふべき言葉もなし。
十月二日。午後赤阪麹町の焼跡を巡見し、市ヶ谷より神楽坂に至る。馴染の一酒亭に登り妓を招ぎて一酌す。勘定は凡て前払ひにて、妓は不斷着のまま髪も撫付けず、三味線も遠慮してひかず、枕席に侍する事を専とす。山の手藝者の本領災後に至っていよいよ時に適したり。日暮驟雨。
十月三日。快晴始めて百舌の鳴くを聞く。午後丸の内三菱銀行に赴かむとて日比谷公園を過ぐ。林間に仮小屋建ち連り、糞尿の臭気堪ふ可からず。公園を出るに爆裂弾にて警視廰及近傍の焼残の建物を取壊中往来留となれり。数寄屋橋に出で濠に沿ふて鍛冶橋を渡る。到る處糞尿の臭気甚しく支那街の如し。歸途銀座に出で烏森を過ぎ愛宕下より江戸見阪を登る。阪上に立って来路を顧れば一望唯渺々焦土にして、房總の山影遮るものなければ近く手に取るが如し。帝都荒廃の光景哀れといふも愚なり。されどつらつら明治以降大正現代の帝都を見れば、所謂山師の玄関に異ならず。愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば、灰燼になりしとてさして惜しむに及ばず。近年世間一般奢侈驕慢、貪欲飽くことを知らざりし有様を顧れば、この度の災禍は實に天罰なりと謂う可し。何ぞ深く悲しむに及ばむや。民は既に家を失ひ國帑亦空しからむとす。外観をのみ修飾して百年の計をなさざる國家の末路は即此の如し。自業自得天罰覿面といふべきのみ。
十月四日。快晴。・・・。初更強震あり。
十月五日。曇天。深夜微雨。
十月六日。秋霖霏ゝ。腹痛を虞れ懐爐を抱く。
十月七日。雨歇まず風声聲粛條たり。・・・。
十月八日。雨纔に歇む。午後下六番町楠氏方に養はるゝ大沼嘉年刀自を訪ひ、災前借来りし大沼家過去帳寫を返璧す。刀自は枕山先生の女、芳樹と號し詩を善くす。年六十三になられし由。この度の震災にも別條なく平生の如く立働きて居られたり。舊時の教育を受けたる婦人の性行は到底当今新婦人の及ぶべき所にあらず。日暮雨。夜に入って風聲淅々たり。
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