明治6年(1873)12月
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・地券税額を決定。
「明治六年十二月地券税額を原価百分の三に定むることを論定す。
地券税を施行するや、地価の幾分を以て税額と定むる、最も至要の事とす。
蓋し、地租改正の旨趣たる、従前の旧弊を一洗し、公平賦課の率を設て、上は国用を闕かず、下は民力を斉ふるにあり。
・・・方今多事の際、旧来の歳入にては現今の経費に給するに足らずと雖も、今俄に民力を量らず其の額を増さんと欲するときは、勢ひ固より不可なるものあり。
況や生財源の地に重税を賦するは経済の本旨に背戻するに於ておや。
・・・故に、地租改正の始、先づ旧来の歳入を減ぜざるを目的とし、而して賦課其の宜しきを得、衆庶の幸不幸を一洗せば、庶幾くは改正の本旨を達せんか。
是れ、自今原価百分の三を以て税額と定むる所以なり」(「明治前期財政経済史料集成」)。
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・オーストリア、フランツ・ヨーゼフ即位25周年、ブルク劇場で記念演劇。
ハインリッヒ・ラウベ演出シェイクスピア「じゃじゃ馬ならし」。
女優カタリーナ・シュラットとの出会い。
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12月1日
・郵便葉書と郵便封嚢、発売。
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12月6日
・台湾・清国調査の児玉利国・成富清風、帰国。
17日、大久保、児玉・成富より台湾事情聴取。
20日、大久保、岩倉に報告。
台湾問題を、「そのままにては甚だ相済まざる事」、と注意を促す。
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12月8日
・佐賀県令岩村通俊、大蔵卿大隈重信に宛てて書簡。
城下宝琳院に士族集団憂国党が結集。40~50代中心で勢力3千余、守旧派(士族独裁政治をめざす)。征韓尚早・邪宗排斥・武道興隆を唱え島津久光を盟主と仰ぐ。
対抗して征韓党が結成される。20~30代中心で勢力2千余、一時藩校弘道館を占拠。
他に中立党(勢力500)も結成。
県庁では統制できず。
併せて、この年、九州北部は不作で、米価高騰。
福岡県の大農民暴動の影響もあり、佐賀城下は物情騒然。
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12月9日
・スマトラ、アチェ王国にオランダ軍侵攻、アチェ軍と戦闘。
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12月10日
・陸軍少佐樺山資紀、台湾より香港に向う。寧波・丹山・厦門経由。
明治7年3月2日、膨湖諸島を調査。
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12月10日
・李氏朝鮮、景福宮で火災。王夫妻は無事。
閔妃の寝殿に爆弾を仕掛けたとして、大院君の使用人が逮捕。証拠なく迷宮入り。
やがて大院君は王宮に近い雲峴宮を去り、三渓洞の山荘に隠居し、さらに、父南延君の墓参のため徳山郡に行き、そこから揚州都へ従者も少ない旅を続けて、直谷山荘に引き籠る。
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12月12日
・木戸の反対論を受けて家禄税に関する閣議。
大隈からは家禄奉還制が再提起(勝がこれに賛同)。
木戸を支持するのは伊藤のみであるが、その伊藤も岩倉に責められ引下る。
岩倉・大久保主導で家禄税・官禄税創設が最終決定。家禄奉還制もほぼ決定。
15日、木戸は岩倉に再度抗議。
27日、禄税賦課(明治6年太政官布告423号)、家禄奉還(同425号)布告。
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「明治六年太政官布告第四百二十二号(華士族禄税別)」;
「即今内外国事多端、費用も夥(オビタダシキ)の折柄に付、陸海軍資の為め明治七年以後当分の所、別冊の通、賞典禄を除くの外、家禄税設けられ候条、此旨華士族へ布告すべき事。」
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禄高ごとに禄税の石高が定められる。
家禄6万5千石~5石を335段階に区分し、35.5%~2%の率で賦課。
6万5千石の税は2万2,750石で、5石だと1升。5石未満は課税される
(このクラスは、それ以上の削減は生活不能に追い込むと解釈され、諸藩の禄制改革でも殆ど削禄を受けていない)。
家禄5石以下の総計は26万4千石弱で、5万2,800人と推定される。
明治5年「日本全国戸籍表」によれば、士族卒の戸数は42万5,827であり、最低でも12.5%は5石未満の微禄であったことになる。
明治5年の卒廃止によって1万7千戸が平民に編入された。
大蔵省財務課の推定よれは、華士族の家禄は全部で467万8,287石で禄税総額は50万5,777石。
全体で11%の削減。
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禄制の最終決定までの過渡的措置。
課税されることは、家禄の所有権を認めることに繋がるため、名目は陸海軍に資金を差出すこととする。
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華士族説得の為に地方官に与えらええた書面:
「華士族は禄の根拠となっている軍事奉仕の義務から離れたので、すぐにも有名無実となった家禄を全廃することは可能だが、それでは生計の手段を持たない彼らが困窮するだろうから、政府は温情で家禄の支給を続けている。
せめて軍隊の充実に役立つように禄税を差し出し、さらに政府の保護に甘える態度を捨てて一刻も早く自営の手段をたて、国家に報じるように自助努力をせよ」
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家禄奉還制の創設
家禄奉還制提議に際し、大蔵卿大隈重信が提出した稟議書で、彼は華士族に対し、農商営業の自由を許されたのちも以前の習慣にこだわり、また家禄は長らく支給されるものと思い込み、自営の努力をしないまま無駄に数年を過ごしてきたと責める。
しかし、たとえ政府の趣意を認識していても、薄禄の者は生活を支えるのが精一杯で、新規事業を始める知識を獲得したり資金を蓄積する余裕がないことも認めた。
そこで大隈は、家禄を奉還した者に家禄の六力年分を産業資金として下付すれば大いに便宜が図れるだろうとする。
全部の士族が家禄奉還に応じれば資金が底を付くので、とりあえず100石未満の者にだけこの措置を適用することにした。
明治7年11月、家禄100石以上にも拡大。
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「明治六年太政官布告第四百二十五号」
「華士族卒在官の外、自今農工商の職業相営侯儀、差許され侯旨、去る明治四年辛未十二月布告候処、薄緑の者資本金これ無きより、其志を遂げ兼候輩もこれある哉に相聞候に付、特別の訳を以て別冊の通方法相設、家禄賞典禄百石未満の者に限り奉還聞届候条、望の者は其管轄庁へ願出るべく、此旨士族並に元卒へ布告すべき事。
但、本文願出の向は禄税上納に及ばざる事。」
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同時に、「家禄奉還之者へ資金被下方規則」「産業資本之為官林荒蕪地払下規則」が制定。
家禄奉還に応じた者には、世襲家禄たる永世録には6ヶ年分、一代限りの終身録には4ヶ年分が、現金と8分利し付き秩禄公債が半額ずつ支給される。
また、官有林野を代価の半額で払い下げるなど就産の便宜も図られる。
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12月12日
・植木枝盛、高知に帰郷。
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12月16日
・織物伝習生の佐倉常七・井上伊兵衛の2人、フランスより織物機械を持って帰国。
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12月19日
・(露暦12/7)チャイコフスキー、幻想序曲「テンペスト」初演。モスクワ。N・ルビンシテイン指揮。
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12月20日
・大久保、岩倉に書簡。
「四方人身恟々(キョウキョウ)たることはもとより御承知の通りにて、今日に行きがかり候原因また容易ならず、来年二月頃までは国家維持の成否あい分かれ申すべく」。
内外政で実績を上げないと政権維持は困難と述べる。
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12月21日
・劉永福の率いる黒旗軍、ハノイ占領のフランス軍と戦う。フランス軍指導者戦死。
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12月23日
・佐賀征韓党、江藤新平(不在)を党首に選出。
この月、征韓党中島鼎蔵・山田平蔵が上京、副島・江藤に帰郷して指導してくれるよう依頼。
板垣が自重を促し、江藤のみ帰郷することにする。
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12月23日
・臨時裁判所第4回公判。参座一同の投票により京都府参事槇村正直(長州)に無罪判決。
27、28日と非公開審理が続き、京都府知事長谷信篤・京都府大属関谷生三も無罪となる模様。
ところが、江藤等が去った後、警保寮は益々結束を固め、今回の無罪判決により憤りは激化。
警保頭河野敏鎌は参議司法卿大木喬任に、槇村有罪しか道はないと述べる
(背景には、警保寮を大久保構想の内務省に無傷で移管しなければならないことがある。槇村を無罪とすることで警保寮を中心として司法省内の結束が固まる)。
江藤は、河野に対して法理論的には参座の決定が無罪なら仕方ないという考え。
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12月23日
・参議内務卿大久保利通、五代友厚に2通の借用書と地券(担保)を送る。
明治5年5月の3千円と明治6年5月の4千円。
政敵に攻撃された場合のアリバイ作り。
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12月25日
・島津久光、内閣顧問に任命される。大臣の次、参議の上位。
明治7年4月、左大臣。
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12月26日
・京都~大阪間の鉄道建設開始。
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12月28日
・参議司法卿大木喬任、太政大臣三条に、槇村は天皇の裁可(京都裁判所判決)でも心服できないものは従わずとのべているが、これは国体維持に係る問題。拷問を用いてでも法廷で糾弾すべきである旨の「伺」提出。
29日、三条の司法省への指令。
臨時裁判所の参座全員の解任、槇村への更なる糾弾は不要、口供(公判調書)により取調べ伺い出ること。
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12月28日
・外務省十等出仕池上四郎、清国視察から東京に帰着。
29日、外務省に帰朝の届け出。
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12月30日
・参議司法卿大木喬任、正院に京都府知事らの判決案を上申。太政大臣三条が天皇に上奏、裁可を得る。
31日、臨時裁判所、「京都府と京都裁判所の権限争議」に関する小野組転籍事件と新次郎魚代金渋事件(①聴訟事務侵害事件、②断獄事務侵害事件、③行政訴訟判決(命令)拒否事件)のいずれについても、京都府側の全面敗訴となる判決言渡し。
府知事長谷信篤(贖金40円)・参事槇村正直(30円)など他4名にも贖金。
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「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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