永禄2年(1559)
この年、
信長26歳、光秀32歳、秀吉24歳、家康18歳
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・大谷吉継、近江国小谷で大谷吉房の子として誕生。桂松(慶松)と称す。
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・フィレンツェ軍、シエナの残党の拠点モンタルチーノをが攻略、フィレンツェとシエナとの戦い終結。
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・スペイン王フェリペ2世、フロリダ最西端に1,500人の植民団を送る。
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・スペイン王フェリペ2世、パルマ公妃マルガレータ(37)をネーデルラント執政に任命。
腹心グランヴェル(グランヴェルラ)枢機卿(42)を補佐につける。
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・コジモ1世、トスカナ大公即位。トスカナ大公国成立。
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・カルヴァン、牧師養成用にジュネーヴ 大学(アカデミー)を設立。
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・ナヴァール王妃マルグリットの娘ジャンヌ(ナヴァール女王)がアントワーヌ・ド・ブルボンと結婚。
ナヴァールとブルボンの結合。息子がアンリ4世(マルグリットの孫)。
ナヴァール王妃マルグリット:
フランス王フランソワ1世妹。ナヴァール王アンリ・ダルベールと結婚。
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1月
・将軍義輝、日蓮宗(法華宗)寺院の妙覚寺(「本覚寺」)を仮御所とする。
翌永禄3年6月、新御所「武衛陣(勘解由小路室町)に移る。
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1月初
・スコットランド、新教指導者ジョン・ノックス、全国で新教説教活動。
元旦、修道院の扉にカトリック弾劾の怪文書「乞食の呼び出し状」が貼出され、中部スコットランド各地で教会破壊、偶像破壊、略奪。
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1月15日
・エリザベス1世(25)、女王即位(1533~1603、位~1603)。ウェストミンスター寺院で戴冠式。
メアリー時代のカトリックよりも新教を選択する方策をとる
(フランス王アンリ2世は、フランス皇太子妃メアリー・スチュワート(スコットランド女王)が真のイングランド女王であり、エリザベスは王位簒奪者であると宣言)。
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封建貴族に代わり登用されたジェントリーたちは、積極的な海外発展策をとり毛織物輸出に力を注ぐ。
ロンドンの「冒険商人団」が急速に台頭。
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補佐官:
国璽尚書ニコラス・ベイコン、国務長官ウィリアム・セシル、フランシス・タルボット(シュールズベリー伯)、ウィリアム・ハーバード(ペンブルック伯)、エドワード・スタンリー(ダービー伯)ら、メアリー世時代の議員が改めて枢密院に抜擢。
海軍長官クリントン・セイ、王室家政長官ヘンリー・フィッツァラン(アランデル伯)、大蔵卿ウィリアム・ポーレット(ウィンチェスター侯)。
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国王至上法の再宣言:
「女王が世俗上の事項と同じく一切の宗教上・教会上の事項においても英国唯一の最高統治者である」(宗教上での「首長」女性に与えられない為に「最高統治者」と改訂)。
この法律と礼拝統一法の宣誓を拒み、カトリック高位聖職者は1名を除いて全員追放となる。
しかし、カトリック勢力は北部の実権を握るハワード家ら大貴族の間で強い支持があり、一方で、一般信者の多くが英国国教会と女王に恭順。
東南部・南部・ミッドランド地方は概ね新教徒化し、北部にはカトリックが根強く残る。
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スコットランドでは最早プロテスタントを認める必然性がなくなり、皇太后マリーはプロテスタント弾圧策を再開。
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2月
・武田晴信、出家して信玄と称す。真田幸隆(47)も出家し、一徳斎と改める。
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2月2日
・三好長慶・三好義興、摂津芥川城より上洛。相国寺に寄宿。
3月3日、将軍足利義輝、拝謁。
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2月2日
・信長、初めての上洛。
信長(26)、家臣500余率い上京、将軍義輝に謁見。「異形者多云々」(「言継卿記」)。
7日、帰国。
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「上総介殿、御上洛の儀にわかに仰せ出だされ」(「信長公記」)
「尾州より織田上総介上洛云々、五百ばかりと云々、異形者多しと云々」(「言継卿記」2月2日条)
「「尾州織田弾正忠上洛す、雑説あり、にわかにまかりくだる」(醍醐寺の僧理性院厳助の日記「厳助往年記」)
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「信長公記」によれば将軍義輝への謁見が目的という。
「城都(京都)・奈良・堺御見物そうらいて、公方光源院義輝(足利義輝)へ御礼仰せられ」と記されている。
尾張をほぼ統一したことを報告し、その上で尾張守護職を拝任することにあったらしい。信長は、謁見ののち御伴衆80人を連れて、京都・奈良・堺を見物。
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宿所「室町通り上京うら辻」に在京中、美濃の斎藤義龍が討手を送り信長の狙撃を図るが未遂に終わる。
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「室町通り上京うら辻」とは:
メイン道路である室町通りにある足利義満の花御所(室町殿)の正門の前に建てられた「裏築地(うらついじ)」という塀が地名となったもので、永禄2年頃は「裏築地町」と呼ばれていた(現在も町名が残されている)。
信長はこの裏築地町内の町人の町屋か屋敷を「御宿」にしたと考えられる
(「御伴衆八十人」が複数の町屋に分かれて寄宿)。
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中世では、一般に上洛してくる侍や軍勢は、自前の屋敷や宿所を持たない場合は、その多くは寺院、公家屋敷、町屋に寄宿した(一種の強制的な接収のかたち)。
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○信長が見たこの頃の京都
東京(ひがしのきょう、左京)の四条大路以北に人口密集:
慶滋保胤(よししげやすたね)の記録「池亭記(ちていき)」によると・・・
「東西二京をあまねくみるに、西京は人家ようやくに稀にして、ほとほとに幽墟にちかし、人は去ることありても来ることなく、
・・・東京四条以北、乾(いぬい)・艮(うしとら)の二方は、人びと貴賎となく、多く群衆するところなり、・・・」
(東京(左京)と西京(右京)の二京をながめてみると、西京は人家がしだいに少なくなり、ほとんど廃墟となりつつある。人が去っていくことはあっても来ることはない、・・・一方、東京では、東西に通る横の街路である四条大路より北側に人びとが身分の上下を問わず数多く群がり集まり住むようになっている。)
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内裏もたび重なる火災によって、「東京四条以北」の貴族の邸宅を里内裏として利用するようになり始めている。
永禄2年の信長上洛時の内裏は、土御門内裏(土御門東洞院内裏)という里内裏に系譜を引くもの(そのまま現在の京都御所に引き継がれている)。
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戦国時代の連歌師宗長の日記「宗長手記」には、大永6年(1526)頃の京都の様子を以下のように記す。
「京を見わたしはべれば、上下の家、むかしの十が一もなし、ただ民屋の耕作業のてい、大裏は五月の麦のなか、あさましとも、申すにもあまりあるべし、」
(京都を見渡せば、上京の家々も下京の家々も昔の十分の一にも及ばないほどに減っている。民家を見つけても、そこでは農作業がおこなわれている有様。大裏(内裏)も五月の麦畑の中に浮かんでいるように見える。驚きのあまり言葉も出ない)
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信長が上杉謙信に贈ったとされる「上杉本洛中洛外図屏風」でも、内裏のすぐ南側にまで農地が広がっているのが見える。
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信長が宿所にした「室町通り上京うら辻」の「上京」:
平安時代後期になると、左京の中でも、東西に通る二条大路を境に北側を「上辺(かみわたり)」(「上渡り」)、南側を「下辺(しもわたり)」(「下渡り」)と呼び、都市域が南北二つに分かれていく。
この上辺、下辺が、室町時代になると上京、下京と呼ばれるようになる。
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イエズス会宣教師が書いた「日本教会史」では、
「最初あった南北三十八の道路の中で、上京と下京の二つの市区に分かれていた両区がたがいに続いているのは南北に通ずる中央の道路ただ一つだけとなり、横の道路三十八の中でもごく少数しか残っていなかった。」
(火災・兵火によって上京・下京周辺の市街地が失われ、この頃には、上京・下京間には「南北に通ずる中央の道路ただ一つだけ」(室町通り)で繋がっていた)
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しかもその上京と下京は、夫々が堀、土塁、土塀、木戸門、櫓門などを備えた惣構に取り囲まれ、城塞都市と化していた。
そして、その周辺には麦畑や野菜畑が広がっている。
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7日昼頃、京都発。近江の守山、永源寺の相谷、八風峠、伊勢桑名を経て清洲に帰城。
帰国は 「雑説ありて俄かにまかり下る」という、慌ただしいものであるが、その理由は不詳(斎藤義龍の刺客団によるものか、国許での異変か?)。
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「尾州の織田上総介、昼立ち、帰国す」(「言継卿記」)
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以上、河内将芳「信長が見た戦国京都」(洋泉社)に依りました。
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「★織田信長インデックス」 をご参照下さい。
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