2011年2月13日日曜日

永禄2年(1559)2月7日~4月26日 信長の岩倉城攻め 謙信の三度目の上洛   [信長26歳]

永禄2年(1559)2月7日
・正親町天皇、勧修寺尹豊・万里小路惟房を即位伝奏に任命。
9日、柳原資定を修理奉行に任命。
16日、即位費用献金を毛利元就に依頼
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2月12日
・北条氏康(45)、一門・家臣(給人500人)の衆構成と諸役賦課の基準となる役高を記した帳簿「小田原衆所領役帳」作成。
太田豊後守らの奉行衆に命じて、家臣らに対する普請役・賦課の状況を調査、台帳とする。
北条家の軍団は支城単位に編成された「衆」が基本であり、「小田原衆所領役帳」ではそれら衆の全貌が明らかになる。
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これには、北条と盟約による従属関係にある太田・成田がみえていない。
60年以後の景虎の関東出撃に関わって作製された「関東幕注文」(「上杉家文書」)には、白井・惣社以下の上野・下野・武蔵等の国人が広範に編成されている事からみて、これら国人との不安定な結合関係が推測される。
領国内に編成された北武蔵・上野の給人も、その役高は知行高の半役となっている。
北条氏は、このような限界を有しながらも、新領土獲得による知行替=分散化を伴いつつ、給人支配=軍役関係を通じて、総体として国人=在地領主に対する統制を強化してゆく。
また、全領国にわたる大普請役・段銭・棟別銭・懸銭等が給人を介して農民に賦課され、それが北条氏に収取されることによって、国人の独自性は大きく制約される。
北条氏の領国支配は、代官・名主など有力百姓=村落支配者層の「内所務」(内徳・加地子得分)容認の上に成立している。
一方、検地増分(面積踏出分)によって設定された直轄地を基礎に村落上層を被官化し、彼等を同心・寄子に編成してゆく。
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手工業者の掌握。
「役帳」には、総職人頭と見られる須藤惣左衛門200貫文を筆頭として、三島の唐紙・銀師、鎌倉の鍛冶・大工・番匠・結桶師・笠木師・経師、藤沢の大鋸引、韮山の大鋸引・切革・青貝師・��左右(つかそう)師・石切・鍛冶、江戸の・鍛冶・番匠などが「職人衆」として組織され、それぞれに、御蔵出をふくむ給分を与えられ、その合計貴高は789貫余に及んでいる。
三島・韮山・鎌倉・江戸などは軍事・政治拠点であると同時に都市的性格を帯び始めたところで、主に軍事的需要に直結する職人集団を配置し、給分を与え、被官化する方式がとられている。
この時点では、八王子・鉢形などの支城領の掌握・組織は不十分と見られ、特に武蔵地方では、この時期以降、小領主層の「大途被官」化と併行して、これ以外の職人編成も進められたと思える。
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2月25日
・大友氏に叛く筑紫惟門の兵2千、博多に来襲し市街を破壊(フロイス「日本史」「耶蘇会士日本通信」)。
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3月
春、信長、岩倉城(織田信賢)を攻める
岩倉城の四方に鹿垣を巡らし、2~3ヶ月間包囲の末、火矢・鉄砲を放ち城内に攻め込む。
浮野の戦いで、家臣を大勢討たれている信賢は開城。
信長は岩倉城を破却し、清須城に帰陣。
尾張を平定
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「町を放火し、生(ハダカ)城になされ、四方しゝ垣二重・三重丈夫に仰付けられ、廻番(メグリバン)を堅め、二・三ヶ月近く陣をとりより、火矢・鉄胞を射入れ、様々攻めさせられ」(「信長公記」首巻)。
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岩倉城攻めは火器と攻城戦を組み合わせた戦術で、その後の信長の戦い方の先駆を成す。
この合戦は、信長の尾張統一の最終段階で、信長が圧倒的優位に立っている。
この戦い以前の自軍が劣勢の場合は、信長は旗本衆を率い接近戦を多用、自ら陣頭に立って戦っているが、優位に立つ場合は一転して確実な戦術を採用。
上洛以後は概ね、戦力の優位を活かした戦術(火器と付城の組み合わせによる攻城戦)を多用していく。
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岩倉落城の時期は諸説あり
(「3月」、「この春」、「この年」、「ある時」(「信長公記」))。
信長上洛前か後かも不明。
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3月2日
・織田信長の娘で岡崎信康の正室となる徳姫(五徳)、尾張清須城で誕生。
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3月6日
岡崎信康(竹千代)、松平元康(18、徳川家康)と築山殿の長子として駿府で誕生。
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4月
・将軍義輝、前年末の義輝・長慶の和議が不安で、その監視の為、長尾景虎・斎藤義竜・織田信長の3者に上洛命じる。
「美濃の斎藤治部大輔在京にて」(宮中女官の日記、4月27日条)。
この月、義竜は将軍相伴衆(長慶と同じ待遇)に列し、景虎は書状の裏書御免(足利一門・管領家に準ずる)などの待遇を認められる。
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・毛利元就、後奈良天皇即位費用2千貫を献金。
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4月3日
長尾景虎(上杉謙信)、上洛(2度目)。直江景綱・柿崎景家などを筆頭に大軍5千で春日山城発。
20日、西近江から坂本入り。
27日、将軍足利義輝に拝謁、信濃・関東への軍事行動を容認される。
5月1日、正親町天皇に拝謁。盃・剣を授かる。
10月、帰国。
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醍醐寺の僧理性院厳助(りしょういんげんじょう)の日記『厳助往年記』
「越後長尾まかりのぼる、武家(義輝)に御礼のためとうんぬん、御礼銭これを済まし、御馬など数疋進上す」。
義輝に挨拶し、礼銭や馬を進上した。
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4月3日
カトー・カンブレーシス(カトー・カンブレジ)の和平
アンリ2世とフェリペ2世。
イタリア戦争(フランスとハプスブルグ家の戦争)終結(1494~、65年間)。
フランス:
3司教区(メッス、トゥール、ヴェルダン)獲得、イタリアの権益を全面的に放棄(コルシカ島・サヴォイア・ピエモンテ返還)。
スペイン(フランシュ・コンテ、ナポリ領有)。
捕虜モンモランシーがフェリペ2世と和平交渉。
フェリペ2世、休戦協定に基づきアンリ2世の娘エリザベスと結婚(3回目)。
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フェリペ2世、スペインに帰国。
低地地方には異母姉マルガレータを執政として任じ、これに側近会議をつけて行政の補佐をさせる。
アンリ2世、国内の宗教問題に着手する決心。
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4月5日
・山科言継、知恩寺(百万遍のこと、当時は小川一条上ル付近、現在は左京区田中門前町)念仏講の混雑ぶりを書く(「言継卿記」同日条)。
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4月18日
・奈良の茶人の松屋久政、堺に滞在し連日茶会に招かれる。
「十八日 天王寺崖道叱 ・・・十八日 納屋宗久 ・・・二十日 住吉屋宗左衛門 ・・・二十日(晩)樋口屋 ・・・二十一日 薩摩屋宗折 ・・・二十二日 木下宗五郎 ・・・二十二日 北向道陳 ・・・二十二日 天王寺屋了雲 ・・・二十三日 干宗易 ・・・」(「松屋会記」)。
これらは全て四畳半茶室で行われる。
22日の道陳(利休のもう一人の師)の茶会が、彼の最後の茶会となる(永禄5年正月18日病没)。
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4月26
エリザベス1世、礼拝統一法制定
1552年エドワード6世規定の英語版祈祷書を再度用いると布告。
国内では英国祈祷書を遵守、指定された形式に則りキリスト降誕祭他典礼式・日曜日のミサを執行、また祈祷書を侮辱した者への罰則など規定。
初犯は、6週間以内に保釈金を支払うか半年間投獄とする。
再犯は、保釈金無しの1年間投獄。
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「★織田信長インデックス」をご参照下さい。
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