明治7年(1874)2月1日
・佐賀の乱
佐賀の憂国党、県の公金を扱う小野組支店襲撃、20万円余奪う。
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2月1日
・慶應義塾出版社から「民間雑誌」(主宰福澤諭吉)創刊。
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2月2日
・聖公会ウィリアムス主教、築地居留地に英語学校を設立。のちの立教大学。
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2月3日
・福岡県庁、参議内務卿大久保利通に佐賀県士族動静不穏電報打つ。
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2月4日
・内務卿大久保利通内示。
陸軍大輔西郷従道、熊本鎮台(司令官谷干城陸軍少将)に派兵命令。
谷は、まず佐賀県庁に使者を送る。
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2月4日
・島義男(ヨシタケ)、太政大臣三条実美に面会し、三条の依頼により鎮撫のため佐賀に向う。
佐賀に赴任する岩村高俊と同船、不法分子を一網打尽にするとの岩村の傍若無人な広言に不快を感じ、岩村が鎮台兵出動打ち合わせのため下関で下船したのを知り、文官が兵を率いて赴任するとは何事だと怒る(岩村は意識的に島を挑発したか?)。
9日、長崎着。
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島義男(ヨシタケ):
大学少監ー侍従ー秋田権令、明治5年6月、開化政策に反対し辞職。憂国党党首に祭り上げられている)
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2月4日
・イギリス軍、ガーナのアシャンティ王国首都クマシ侵攻。5日、制圧。
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2月5日
・警視庁、羅卒を巡査の呼称に改める。
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2月5日
・佐賀県権令岩村高俊(1月28日、兄に通俊に代って佐賀県権令に任命され、赴任前で在東京)、兵力による鎮圧を大久保内務卿に建白。
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2月6日
・大久保・大隈連名、琉球民殺害事件に関して閣議に「台湾蛮地処分要略」全9ヶ条提出。
台湾遠征軍派遣、閣議決定。大久保・大隈・リゼンドル・柳原前光・鄭永寧ら協議。リゼンドル第3覚書をそのまま踏襲。
近代日本の最初の海外への武力行使方針決定。
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「要略」:
「無主の地」として清国領土外とみなす台湾先住民地域(著地)に対し、琉球民遭難への「報復」の「役」(軍事行動)を発動することが基本方針。
「討蕃」と「撫民」を目的とするが、「生蕃」討伐と「土蕃・塾蕃」撫育とを区別して併用せよとする福島九成の見解が採用されている。
「撫民」の目的は、「土人を懐柔綏撫(スイブ)せしめ、他日生蕃を処分するの時の諸事に便ならしむ」(第八条)ためである(「討蕃」の為の手段とする)。何故なら、「熱蕃の地、琅嬌・社寮の港より兵を上陸せしむる」(第九条)計画だったから。
台湾「蕃地」への軍事力行使に対して清国から抗議された場合は、「ただ推託して時日遷延の間に即ち事を成し」(第四条)とし、交渉を引き延ばして「討蕃撫民」の既成事実を作るとした。
また、清が琉球の日清両属問題を提起してきた場合は、「さらに顧て関係せず、その議に応ぜざるをよしとす」(第三条)とし、交渉に応じないことにした。外交による解決をとらない、軍事力優先の路線を採用。
但し、柳原外務大丞と鄭外務少丞が起草した「要略」原案弟一条は、「琉球人民の殺害せられしを報復しその地を拠有すべきは・・・」となっていたが、成文では「その地を拠有」が削除された。
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6日閣議後、岩倉は、「台湾処分御決定、先ずもって安心候」と大久保に書き送り、大久保も同日の日記に、台湾一条が決定し「安心いたし候」と書く。
また、大久保宛て書簡で、岩倉は、「吾属地」とするかどうかは「再び御評議のはず」と領有論再開を期待。
岩倉は、「なにとぞ吾れに得べきの目的立てたきものと存じ候」と、「蕃地」領有を望み、大久保の同意を求めるような書きぶりからみて、大久保も領有論傾向であったと推測できる。
岩倉は、「要略」が決定したからには「問罪使命の人体お取り極めの義急務」(遠征軍最高指揮者の人選を急がねばならない)であるが、「鹿児島県の人にて誰かこれなくや」と大久保に推薦を促す。
しかし、大久保は、台湾遠征という国家的大事業を薩摩閥だけのものとみられるのを避けたかったらしく、土佐出身の熊本鎮台司令長官谷千城に白羽の矢をたてる。
但し、木戸孝允ら長州系は「要略」決議に抵抗。
6日付け木戸日記に、「今日岩倉(邸)にて会議あり、台湾-条なり、廻しの暮面に同意せり、よって今日出会を断れり」とある。
木戸は、事前に見せられた書面(「要略」案)に同意したので閣議は欠席した。「同意」したとはいえ閣議には出たくなかったというわけで、この一件にたいする木戸の消極的態度が表れている。しかも、木戸が同意した案と閣議にかけられた案では内容が異なっていた。
翌7日、伊藤博文が木戸に閣議の模様を報告する手紙を送り、「台湾一条会議ござ候ところ、かねてお目にかけおき候書面の趣意とも少々相違」していたと云い、「急に一大隊の兵を発し、・・・議かくのごとく火急・・・卒然に事を処する見込み」と、「要略」決定までが性急で慎重さに欠けることへの不安を伝える。
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2月6日
・越仏協定成立。フランス、ハノイなどから撤退を開始。
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2月8日
・ムソルグスキー、オペラ「ボリス・ゴドノフ」、サンクト・ペテルブルクのマリンスキー劇場で初演。
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2月9日
・フランス、歴史学者ミシュレ(75)、没。
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2月9日
・島義勇、長崎上陸。
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2月9日
・江藤新平、長崎にて土佐の林有造と会談。
林は西郷に民撰議院設立への同意を取り付ける為に鹿児島に行った帰途。肥前が決起しても薩摩は呼応しないとの観測を示す。
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2月10日
・参議兼内務卿大久保利通、太政大臣三条実美に佐賀鎮定、軍事・裁判、全権委任させる。
14日、三条、参議文部卿木戸孝允に内務卿を兼任させる。
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政府軍の出動が遅れれば熊本や鹿児島の士族も呼応し九州全体の騒乱となり、更に高知、岡山、鳥取、鶴岡などに飛び火する可能性もある。
警察機構は十分に整備されていないうえ、軍隊にも征韓論政変の余燼がくすぶっていたので、政府側の危機感は深刻。
大久保内務卿はただちに軍事と裁判の権限を随時に委任されて九州に向かう。
江藤らが鹿児島など他県の士族が加勢するのを待っている間に、政府側は電信線で情報を正確に把握し、蒸気船で鎮庄部隊を送り込む。
さらに佐賀の中立派士族を味方につけ、熊本など近隣への波及を抑える。
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2月10日
・熊本・広島・大阪鎮台兵、出兵。
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2月11日
・島義勇、長崎で憂国党幹部と会談。後、深堀に江藤新平と会談。岩村高俊の暴挙(鎮台兵を率いて佐賀県庁に赴任、鎮圧)阻止で意見一致。
12日、江藤新平、佐賀に戻り正式に征韓党党首となる。
13日、征韓党幹部、旧藩校弘道館に集合。江藤の「決戦之議」配布。本部を佐賀城北方にある実相院に移す。
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決戦之議:
「夫れ国権行はるれば、則ち、民権随(シタガツ)て全し。
之を以て交戦講和の事を定め、通商航海の約を立つ、一日も権利を失へば、国、其の国に非ず。今茲に人あり。之を唾して而して憤らず、之を撻て而して怒らずんば、爾後、婦人小児とと雖も、之を軽侮するや必せり。是れ、人にして其権利を失ふものなり。嚮に朝鮮、我国書を擯け、我国使を辱むる、其の暴慢無礼、実に言ふに忍びず。上は聖上を初め、下は億兆に至るまで、無前の大恥を受く。因て客歳十月、廟議尽く征韓に決す。天下之を聞て、奮起せざるものなし。已にして而して二三の大臣、偸安の説を主張し、聖明を壅閉し奉り、遂に其議を沮息せり。鳴呼国権を失ふこと、実に此極に至る。是れ所謂、之を唾撻して、而して憤怒せざるものと相等し。苟くも国として斯の如く失体を極めば、是れよりして、海外各国の軽侮を招く、其の底止する所を知らず。必ず、交際、裁判、通商、凡そ百事、皆な彼が限制する所と為り、数年ならずして、全国の生霊、卑屈狡獪、遂に貧困流離の極に至る、鏡に掛けて見るが如し。是れ有志の士の以て切歯扼腕する所なり。是れを以て同志に謀り、上は聖上の為め、下は億兆の為め、敢て万死を顧みず、誓て此の大辱を雪(ソソ)がんと欲す。是れ蓋し人民の義務にして、国家の大義、而して人々自ら以て奮起する所なり。然るに、大臣、其の己れに便ならざるを以て、我に兵を加ふ。其の勢状、此に至る。依て止むを得ず、先年長州大義を挙ぐるの例に依り、其の処置を為すなり(*幕長戦争に依拠して自衛行動に立ちあがる、という意)。古人日く、精神一到何事か成らざらん。我輩の一念、遂に此の雲霧を披き、以て錦旗を奉じ、朝鮮の無礼を問んとす。是れ誠に区々の微衷、死を以て国に報ゆる所以なり」(「江藤南白」)。
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2月13日
・島津久光(内閣顧問、佐賀憂国党は盟主として担ぐ)、東京発。
20日、鹿児島到着。
元藩士に佐賀に呼応しないよう睨みをきかせる。また、西郷を呼出し自重を命じる。
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2月13日
・アメリカ、ハワイの国王継承問題を口実に、海兵隊がホノルルに上陸。
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2月14日
・島義勇、佐賀入り。
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2月14日
・熊本鎮台より1個大隊650、出動。県権令岩村高俊と共に有明海北上。
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2月14日
・大久保内務卿、天皇から「佐賀鎮定」を委任され、九州へ出発。途中、大阪で陸海軍首脳と軍議。
17日、大阪より黒田清隆に宛てて台湾「要略」について念押し。
17日付け大久保の黒田清隆宛て手紙。
「台湾のこと既に決定せり・・・いずくまでも御貫徹、実効お挙げこれなく候てほ天下の信義もあい立たず」と念押し。
「この事は廟議決定の事にて懸念はこれなくと信用つかまつり候えども、憂情のあまりに候」と、「要略」の閣議決定が引っくり返るかも知れないとの憂情(不安)を拭いきれない心情を語る。
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2月15日
・佐賀県権令岩村高俊と熊本鎮台兵半隊650、筑後川河口より佐賀城(県庁)入城。
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2月16日
・征韓党2千・憂国党4千連合軍、佐賀城の熊本鎮台兵と交戦。
18日早朝、県庁側、多数の犠牲を出して包囲を突破、岩村権令は県外へ避難。
佐賀県庁(佐賀城)攻略・占拠。
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2月16日
・小島為政の断髪の強制を批判した投書「断髪苦情一家言」、「横浜毎日新聞」に載る。
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2月19日
・大久保内務卿乗船のアメリカ船、東京・大阪鎮台兵船団、博多上陸。ここに本営を置く。同日、政府、佐賀県下の暴徒征討の太政官布告。
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2月20日
・陸軍少将野津鎮雄、政府軍率い佐賀城下に進撃。
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2月20日
・イギリス、保守党ディズレーリ、景気対策に失敗した自由党グラッドストンを破って首相就任。
言葉としての「帝国主義」の始まり:
ディズレーリ(任1868、1874~80)は、この頃高まりつつある「小英国主義」(植民地は財政負担を増す重荷に過ぎないとして植民地放棄を唱える立場)を攻撃、植民地支配強化、帝国拡張・団結を主張。
ディズレーリは、1875年スエズ運河株式買収、1877年インド帝国の成立、1878年露土戦争に干渉してベルリン会議でロシアの南下を阻止し一方でキプロス島獲得、帝国主義政策を推進。
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2月22日
・参謀局設置。局長山県有朋。
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2月22日
・佐賀軍、福岡県境朝日山で迎撃準備。
政府軍(野津少将)と本格的戦闘。
政府軍、佐賀軍の防衛線突破。
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2月22日
・高浜虚子、愛媛に誕生。
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2月23日
・東伏見宮嘉彰親王を佐賀征討総督に、陸軍中将山県有朋を征討参軍に任命。
24日、海軍少将伊東祐麿を征討参軍に任命。
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2月23日
・江藤新平、征韓党解散命令。船で鹿児島に向かう。しかし、実際には佐賀側の抗戦は続く。
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2月26日
・大前田英五郎(82)、没。
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2月26日
・スペイン、フランシスコ・セラーノ大統領就任。サバーラ立憲派内閣成立。
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2月28日
・憂国党降伏。政府軍、佐賀城入城。
戦死者は佐賀・政府側双方とも170~180。負傷者は双方とも200弱。佐賀軍捕虜6,327人。29ヶ村1,500戸余が戦火にかかる。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい。
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