明治7年(1874)
この年
・三菱商会、上海支店開設。
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1月
・森林太郎(鴎外、12)、東京医学校予科に入学
この際、願書に万延元年(1860)生まれと記載。以後、公けにはこの生年月日に従う。
14歳、依田学海について漢文を学ぴ、添削を受ける。
18歳、本郷竜岡町の下宿屋上条に住み、千住の佐藤応渠に漢詩文を学ぴ、同郷の国学者福羽美静、加部巌夫に和歌を学ぶ。
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この頃、林太郎は、神田小川町の西周邸に寄宿。
林太郎は、旧津和野藩典医で、西家の親戚に当る森静男という蘭医の息子。
森静男は西の勧めで維新後東京に一家を移し、向島曳舟通で病院を開いていた。長男林太郎を東京医学校に入学させる積りで、ドイツ語学習のために、本郷の壱岐殿坂にある受験学校の進文学舎に入れたが、曳舟から渡舟で隅田川を渡り、距離のがあるので、小川町の西家に預けた。
この年、15歳と願書に書き東京医学校を受験し合格、下谷和泉橋の旧藤堂邸にある医学校に通う。
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・星亨(23)、横浜税関次官から横浜税関長になる
(長官中島信行が神奈川県令に転出したあめ)。
翌2月、従六位に叙任。
イギリス公使パークスとの紛争により半年で税関長免職。
しかし、その後まもなく、租税本案外事課長、また条約改正委員にも任命され、9月にはイギリス留学を命ぜられる。
星が「ハー・マジェスティー」を「女王陛下」と訳したところ、イギリス公使ハリー・パークスが、日本での女王は皇族の内でも最下級で、このような呼び名を用いる事は大英帝国君主の尊厳の冒瀆である、と激怒し、星の処罰を求める。
星は、英語の「クイーン」は、女の王又は王の后を意味する言葉で、「女王」と訳す事に差しつかえない、イギリスが「皇帝」と訳して欲しければ「エムペラー」又は「エムプレス」の称号を用いるべき、と回答。
事件は、外務卿寺島宗則がイギリス公使の威圧に屈し、太政官布告によって外国君主には全て皇帝の称号を用いることとし、星を免職にして解決。
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・ブラームス(41)、1月末ライプツィヒで数回の演奏会、ヘルツォーゲンベルク夫妻と再会。ワルツ愛の歌作品52a完成。
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・この頃~75年9月頃
マルクスとエンゲルス、レオ・フランケルが在ロンドン・ドイツ人労働者協会でラッサル派と闘争しているのに対し、彼に訓令を与える。
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1月1日
・慶應義塾内に私立小学校和田塾(のちの慶應義塾幼稚舎)開塾。
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1月2日
・マドリード、王政復古を目指すマヌエル・バビア将軍、蜂起。
3日、議会解散。スペイン第1共和政終る。
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1月8日
・オーストリアのフランツ・ヨーゼフ(43)とエリザベト(36)の長女ギーゼラに娘誕生。
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1月9日
・旧庄内藩士酒井玄蕃の西郷との談話筆記。
ロシアとの対決は必死だが、北海道防衛だけでは不備。
朝鮮問題を解決し、沿海州に進出し「北辺」を防備する必要ある。
英露対立を利用し、イギリスと提携してロシアにあたれば「魯国恐るに足らず」との世界戦略を示す。
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「今日の御国情に相成り候ては、所詮無事に相済むべき事もこれなく、畢竟は魯と戦争に相成り候外これなく、既に戦争と御決着に相成り候日には、直ちに軍略にて取り運び申さずば相成らず、只今北海道を保護し、夫にて魯国に対峙相成るべきか、左すれば弥以て朝鮮の事御取り運びに相成り、ホッセットの方よりニコライ迄も張り出し、此方より屹度一歩彼の地に踏み込んで北地は護衛し、・・・兼ねて掎角の勢いにて、英、魯の際に近く事起こり申すべきと・・・能々英国と申し合わせ事を挙げ候日には、魯国恐るに足らずと存じ奉り候」
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ロシアとの対決は必至であるが、北海道防衛だけではロシアと対抗できない。
朝鮮問題を解決して日本が積極的に沿海州方面に進出し、「北地」を防衛するのが上策であり、さらに英魯対立を念頭において、英と連携してロシアに当たれば「魯国恐るに足らず」という。
朝鮮と事を構えるよりはロシアを警戒すべしというのが当時の西郷の考え。
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1月9日
・司法省警保寮、内務省に移管。1等寮となり官員4千が転属。
14日、内務卿大久保利通、幹部に訓示。
「警保寮奏任官一同」の訴えにより、前年12月23日に臨時裁判所が無罪とした槇村正直を、同31日に参座を解散させた上で槇村を逆転有罪にし、長州派木戸らに煮え湯を飲ませた蔭に大久保がいるの事は知れ渡っている。
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警保寮:
明治5年8月、司法卿江藤新平が、軍事と警察を分離することにして、約4千人の東京府邏卒を司法省管轄下に入れ、政府警察として機能させたもの。
近衛兵(約5千5百人)に括坑する勢力で、これを背景に司法省は軍部の綱紀粛正、藩閥の腐敗摘発ができた。
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1月10日
・参議司法卿大木喬任(元佐賀藩士、江藤の2歳上)、江藤新平を呼出し佐賀への帰郷を止めるよう勧告。
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1月10日
・閣議、開拓中判官榎本武揚を海軍中将とし特命全権大使でロシア派遣決定。
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1月10日
・ドイツ帝国議会選挙。カトリック政党中央党躍進。文化闘争でのカトリック側の反撃。
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1月10日
・フランス、マチエ(歴史家)、オート・ソーヌ県ラ・ブリュイエールの宿屋の子として誕生。
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1月11日
・スペイン、第1インターナショナル非合法化。
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1月12日
・愛国公党結成
板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平、由利公正、小室信夫、岡本健三郎、古沢滋、奥宮正由の9人、愛国公党綱領署名式。副島種臣屋敷にて。
天賦人権論に立脚して人民の基本的人権(通義権理)を保護主張し人民の自立を図ること。
「天の斯民(シミン)を生ずるや、必ず之に附するに道義権理を以てす。
・・・我党の目的は、唯(タダ)斯人民の道義権理を保護主張し、以て斯人民をして自主自由、独立不羈の人民たることを得せしむるに在る而巳(ノミ)」。
日本最初の政党。
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「自由党史」によると:
板垣が土佐出身の英国帰りの2人(前海軍中佐片岡健吉・前外務省6等出仕林有造)に国会開設建白を勧める。
2人は板垣が先頭にたつべきとしたため、板垣は後藤に相談。
後藤は同意し、英国帰りの前左院3等議官小室信夫・古沢滋の意見を聞くことになる。
次に、板垣は江藤・副島を誘う。
「政体書」の起草者副島は立法権独立に理解があり、板垣に賛同。
江藤は、明治元年に議会論を唱導し、佐賀藩政改革でも「下之議院」を構想し、明治3年の諸官制改革案において上下議院の導入を図り、左院の議会化にも工夫をめぐらすなど、筋金入りの議会論者であったから、これも大賛成。
さらに、五箇条誓文の原案起草者で前東京府知事の由利公正や大蔵大丞岡本健三郎らも仲間に加わった。
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1月12日
・片岡健吉、病気を理由に海軍中佐の辞表提出(8月22日免官)。
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1月13日
・江藤新平、新橋発、横浜港より佐賀に戻る。後藤は横浜まで見送る。
15日、神戸に寄港。岩倉襲撃を知る。同船に乗り合わせた林有造は誤解を避けるため神戸で下船。
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林有造:
元土佐藩士、前外務省6等出仕、愛国公党に参加。岩村通俊の弟・高俊の兄。副島の指示により西郷から民撰議院設立建白書への賛意を得る為に鹿児島に行く途上であった。
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岩村通俊:
佐賀県権令、元土佐藩士。明治6年8月に県権令(一定期間をへて正式に県令となる)に赴任するが、半年足らずで、転任を申し出て、後任として野心家の弟・岩村高俊(神奈川県権参事)を大久保利通に推挙。
その岩村高俊は、戊辰戦争の際、東山道総督府軍監として長岡藩家老河井継之助との会談において傲岸不遜な態度をとり、長岡藩を徹底抗戦においやったと評価されている。
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1月13日
・ロシア、国民皆兵徴兵制度施行。
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1月14日
・喰違の変
午後8時、武市熊吉(高知県士族、前近衛局陸軍少佐)ら土佐征韓派士族・元近衛将校下士官、右大臣岩倉具視襲撃。
17日、東京警視庁、首謀者武市熊吉、逮捕。共犯者(元土佐藩士、陸軍少尉・曹長など)8人も逮捕。
翌18日より司法省臨時裁判所で裁判。7月9日、9名全て斬罪。
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1月15日
・小平浪平(日立製作所創業者)、誕生。栃木県下都賀郡中村合戦場、名望家の次男。
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1月15日
・内務省直轄の東京警視庁(川路利良大警視)、設置(警保寮から分離独立)。
27日、「羅卒」を巡査と改称。これまで町費で賄われていた准警吏を廃止、国費による巡査を増員。
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1月15日
・警保頭の河野敏鎌、司法権大判事(勅任3等官)に任命。異例のスピード出世。上には司法大判事佐々木高行(2等官)がいるだけ。
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1月16日
・高島炭坑が官営(工部省所管)化。
19日、オランダ人ボードウィンに償却金40万ドルを支払う。
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「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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