2011年2月26日土曜日

永禄2年(1559)5月~7月 三好長慶の河内侵攻  アンリ2世没   [信長26歳]

永禄2年(1559)5月
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この月
・毛利氏、備中平定を天皇に(将軍ではなく)に報告。
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・スコットランド、宗教改革戦争開始。
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5月5日
・山科言継、稲荷社「深草祭」を見物。
走物と称して駒競べがあり、「馬上五十一騎これあり。馬具足等見事なり」(「言継卿記」同日条)と記す。
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5月12日
・三好長慶、松永久秀を岸和田方面へ出兵させる。
前年11月、河内守護代安見直政が河内守護畠山高政を追放し、これを口実にする。
山城を義輝に奪われた長慶の失地回復戦争として河内出兵が始まる。
29日、松永久秀、岸和田城の十河一存救援に和泉入り。十河勢5千・久秀勢3千、根来征伐に向かう。鉄砲の反撃により退却。
「三好筑前守(長慶)今日芥河へ登城すと云々。泉州十河(一存)前悪(マエア)しきの間、各陣立と云々。」(「言継卿記」5月12日)
これより先、長慶は和泉を治めるため、讃岐の十河一存を岸和田城主とし、讃岐支配は勝瑞城主三好義賢に兼務させている。
長慶は、守護代直政の国主高政追放を怒り、松永久秀に命じ、十河一存と連合して根来寺衆徒に当らせる。
両軍は泉の南部で衝突、鬼十河と云われる一存の軍勢が大敗。
この頃の根来寺は、畿内近国で大和興福寺・近江延暦寺を凌ぎ、最も富裕な寺院と称され、その衆徒には優秀な鉄砲隊が編成されている。
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5月16日
・松平元康(18)、岡崎の家臣に七箇条の法度を下す。       
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5月26日
・三条西実澄、駿河に下向。
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5月28日
・パリ、カルヴァン派(改革派、ユグノー)の宗教会議である第1回全国改革派会議(「全国教会会議」)開催。
「フランス信仰告白」「教会規律」採択(カルヴァン型教会制度が採択)。
反ユグノー運動が盛んになる。
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6月2日
・フランス、アンリ2世、新教徒に対する苛酷な追及措置を命令。
9日、「エクアン王令」により新教徒に対する迫害強化。
10日、宗教改革派減刑に関する大法廷に出席。公会議の召集。改革派弾圧中止を求める議員逮捕。
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6月22日
三好長慶、松永長頼と共に三好全力2万6千で河内侵攻
26日、久秀も合流し、長慶・久秀・長頼、高屋城の守護代安見直政と交戦。双方被害甚大。
三好長慶、榎並城入り。
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久秀の建言により、長慶は兵力を分散せず、三好方一丸となって高屋城を攻撃する作戦に切り替える。
長慶は、畿内分国軍勢を総動員し、丹波八木城松永長頼、播磨別所氏、明石氏、摂津の有馬氏等にも兵役を課し、6月半ば、淀川を渡り河内十七箇所に入る。
この渡河作戦に、長頼は2千余騎にて山崎に駐り、長慶中軍の渡河を掩護。
22日、十七箇所で高屋城から打って出た安見軍と最初の戦闘、直政側の野尻・草部らに大将18人が討死する被害を出し、直政方が引揚げるが、三好軍も討死400人という犠牲を出す。
長慶は、深野池周辺湿地帯での大軍の展開は不利とみて、摂津欠郡へ全軍を移動させ、榎並城に本拠を置く。
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6月22日(28日?)
・フランス王アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの長女エリザベート(16)とスペイン王フェリペ2世(36)の結婚。パリ、ノートル・ダム 寺院。フェリペ2世、欠席。ブリュッセルで待機。
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6月24日
・山科言継、あまりの暑さに堂舎で「終日平臥」(「言継卿記」同日条)。
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6月25日
・この頃、シャティヨン兄弟(コリニーとダンドロ、モンモランシー甥)、逮捕。
逮捕理由は、パリで新教徒の暴動を組織するためドイツのルター派君主と共同謀議を働いたこと。
以外にもユグノーを逮捕。
逮捕者にはパリ高等法院評定官アンヌ・デュ・ブールはじめ高等法院メンバーも何人か混じる。
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アンヌ・デュ・ブール:
行きすぎた法の濫用に異議、アンリ2世没後クレーヴ広場で火刑。「炎の中でもイエス・キリストの名を呼ぶ者達を断罪するのは、軽率な行為」と抗議。
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6月26日
・将軍義輝、信玄の越後侵入の報により信玄追討を景虎に命ず。
同時に関東管領就任内定(上杉憲政は越後に匿まわれている)。
「上杉憲政から関東管領の職を譲られるのを認める」御内書を受け取る。
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将軍義輝が長尾景虎に裏書省略・塗輿を許し、関東管領上杉憲政の補佐を命じる。
また、信濃出兵に名分を与える。
更に、宗麟が義輝に献上した鉄砲と火薬調合の秘伝を与える。
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永禄2~4年、義輝は諸大名に幕府権力回復への協力を働きかけ、この報奨として鉄砲を贈る。
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義輝の舞台廻し役、大友宗麟(立花説):
①天文中期:イエズス会と結託したポルトガル商人が宗麟を仲間に引き入れる。
②天文中期:宗麟は義輝に鉄砲他献上品を介し帰洛を実現。
豊後府内に滞在するポルトガル商人は堺の日本人商人と結び、宗麟の義輝支援を仲介。
これにより、宗麟は周辺の守護職を入手し領国拡大、ポルトガル商人の貿易活動に貢献する。
③京都周辺では、堺商人の協力により、イエズス会に共鳴する潜在キリシタン公家武士(清原枝賢・吉田兼右・結城忠正)が出現。
永禄元年頃、グループを形成し義輝を支援(永禄元年11月京都復帰)。
④義輝は、永禄2年6月~4年、長尾景虎ら大名に鉄砲を与え軍事を支援、彼等に忠誠を誓わせ幕府再興・強化を図る。
⑤永禄2年11月末ビレラ入京、3年夏頃、義輝から布教許可を得て、京都で活動開始。
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【仮説】立入宗継・磯谷久次を駆使して信長へ第1回決勝綸旨の発給・伝達を実現させた首謀者はイエズス会協力者グループの清原枝賢・吉田兼右。
背後にイエズス会・ポルトガル商人の示唆があるからこそ、この策謀が動かせた。
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6月26日
・大友義鎮、筑前・筑後・豊前の守護職に補任。  
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6月24日
・フランス、アンリ2世姉ヴァロア公女マルグリッととサヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルトの結婚調印  
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6月29日
・将軍義輝、上洛中の長尾景虎に大友義鎮の献上した秘伝書「鉄放薬方并調合次第」を贈る。
 景虎、帰国。
火薬の原料の硝石は、初めは輸入に頼らざるをえず、中国・インドなどから輸入されていたが、後に、国産の塩硝が産出されるようになり、各大名は、きそって火薬調合の秘法を探知しあう。
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6月30日
・フランス、スペインとの和議でイタリア戦争終結を祝う騎馬試合。会場、サン・タントワンヌ通り。
アンリ2世、スコットランド儀仗隊隊長ガブリエル・ド・モンゴメリーの折れた槍が目に突き刺さり瀕死の重傷。外科医アンブロワーズ・パレが呼ばれたが、お手上げ。
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6月末
・スコットランド、プロテスタント勢が首都エディンバラに入城、指導者ジョン・ノックスは首都の牧師に任命。各地のカトリック教会・修道院が破壊・略奪。
 しかし、皇太后マリー傘下カトリック勢とフランス軍とがエディンバラ外港リースを回復、ここからプロテスタントに反撃する姿勢を見せる。
11月、プロテスタント勢が反撃。前摂政シャーテルロー公を味方につけ、フランス軍拠点リースを攻撃、失敗。
12月、フランス軍がスターリング占領、ファイフ地方に進撃。
プロテスタント勢はイングランド王エリザベス1世に支援要請。
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7月
・毛利元就・隆景・元春、本城常光の石見山吹城を攻撃。
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・三好長慶、河内天野金剛寺へ全3ヶ条の禁制下す(「金剛寺文書」)。
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7月9日
・フランス、真夜中、サヴォイア公フィリベールとマルグリッド(36)、サン・ポール教会で結婚式。重体のアンリ2世の指示。
マルグリッドの事実上の婚資、サヴォイアとピエルモンテ(カトー・カンブレジ条約でサヴォイアに返還されることになったが、実際はフランスが占領したまま)。
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7月10日
アンリ2世(41)傷は脳に達し苦悶の末死亡。幼王フランソワ2世(16)が即位
(フランソア2世妃はスコットランド女王メアリー・スチュワート(16))
権力はギーズ公(ギーズ公フランソワは軍事、弟シャルル(ロレーヌの枢機卿)は財務・外務・内政)。
ギーズ家は熱心な旧教徒、対抗する貴族達は新教に接近。
ユグノー戦争への道が開かれる。
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カトリーヌ・ド・メディシス、永遠の喪に服す(以後「黒衣の女王」)。
夫アンリ2世が没したトゥールネル宮殿を徹底的に破壊(跡地 「ヴォージュ広場」)。
ヴィクトル・ユーゴ「ヴォージュ広場は、モンゴメリーの槍の一突きから生まれた」。
アンリ2世寵姫ディアンヌにはシュノンソーを召し上げショーモンを与えただけ(1566年アネ城で没)。
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カトリーヌ・ド・メディシスの臣下:
①ミシェル・ド・ロピタル(55、1504~1573)、サヴォイア公に嫁いだマルグリッド(アンリ2世妹)の助言者、マルグリッドがロピタルの重用をカトリーヌに依頼。新旧両教徒の対立緩和に努める。ロピタル妻と娘、後に新教徒(カルヴァン派)に転じる。
②フィレンツェ人ゴンディ一族。妻はフランス人(旧姓ド・ピエールヴィヴ)、カトリーヌの財産管理人、シャルル9世養育係。息子アルベール・ド・ゴンディ、後のレッス元帥。
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スコットランド儀仗隊隊長ガブリエル・ド・モンゴメリー、アンリ2世の不逮捕命令にも拘らず逮捕、まもなく釈放、イングランド逃亡。カルヴァン派首領となりフランスに舞い戻り、ノルマンディ地方を荒らす、逮捕。1574年「反逆罪」でパリのクレーヴ広場で斬首。
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フランソワ2世(1544~1560、位1559~1560):
ひ弱、醜くく、病的。呼吸器官に異常、常に口を開いて涎を垂らす。頭が悪く、いつもイライラ。妻メアリ・スチュアートを溺愛。
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・外戚ギーズ家、実権掌握
(フランソワ2世妻メアリ・スチュアート、ギーズ公フランソワ姪(妹マリーの娘))。
①ギーズ公フランソワ(40、1519~1563)、「国王総代理官」。本来はナヴァール公アントワーヌ・ド・ブルボンが就任するポスト、カトリーヌが嫌った。
②ロレーヌ枢機卿シャルル(ギーズ公フランソワ弟、35、1524~1574)。ディアンヌの元愛人、非凡な行政官・外交官・政治家、事実上の「首相」。
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モンモランシー父子、権力から遠ざけられる。父アンヌ(67、1493~1567)。息子フランソワ(29、1530~1579)。        
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新教派:
①シャティヨン3兄弟(モンモランシー甥(妹ルイーズ息子)。オデット(シャティヨン枢機卿、長男)。
②コリニー(次男)、ガスパール2世、フランス提督(40、1519~1572)、1557年サン・カンタン敗北後、捕虜生活中、新教(カルヴァン派)に改宗。アンリ・ダンドロ (3男)。
③ブルボン 一族。ナヴァール公アントワーヌ・ド・ブルボン、アンリ4世父。妻ジャンヌ・ダンブレ、ナヴァール王妃マルグリッド(フランソワ1世妹)の娘。ルイ・ド・コンデ(29、1530~1569)、アントワーヌ弟、初代コンデ公。新教徒の「首領」、エレオノール・ド・ロワと結婚(コリニー姪、モンモランシー妹ルイーズの孫、ロワ伯爵夫人娘)。モンパンシエ公、ブルボンの分家。
④テオドール・ド・ベーズ(カルヴァンが、ナヴァール王妃ジャンヌ・ダンブレの許に派遣)、(40、1519~1605)、ジュネーヴ大学学長、ジュネーヴ教会でのカルヴァンの後継者。フランスの改革派教会を指導、正統カルヴァン主義の確立に重要な役割を果たす。
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7月22日
・三好長慶、高屋城の安見勢(河内守護代)と再戦。安見勢、完敗、飯盛城へ逃亡。
24日、城4ヶ所陥落(「言継卿記」)。
29日、長慶2万、榎並城より喜連へ移動。安見、飯盛城より大和へ逃亡。久秀、伊丹親興と共に大和入り。    
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22日、安見直政は遊佐三郎左衛門尉を大将とする一軍を繰り出すが、これを長慶被官の池田出羽守が迎撃し、三郎左衛門尉は討死、河内将校の首級21を上げる。
安見側は足軽部隊出撃ができなくなり、また高屋城への帰路は紀伊から出動の畠山高政に塞がれ、安見直政主従は飯盛城へ奔る。
29日、長慶は2万を榎並より南下させ、喜連(東住吉区喜連町)・杭全(東住吉区平野宮町付近)に移陸させ、この掩護によって、畠山高政は高屋城に入ることができる。飯盛寵城中の安見・丹下らは大和に逃亡。
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