明治6年(1873)11月17日
・木戸孝允、大蔵卿兼任を辞退。
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11月17日
・ハンガリーで、ペシュト、ブダ、オーブダ合併しブダペシュトとなる。
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11月20日
・フランス、王政派を中心に議会で7年制法が採決。マクマオン大統領の任期を7年に延長。
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王政派中心の連合勢力で作るド・ブロイ公爵の新政府は、急進派進出を阻止し王政復古実現を最大の目標とする。
戒厳令継続、共和派の示威運動・新聞の弾圧、急進派ラーンク処刑などの反共和的強権政策。
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しかし、政府は連合勢力の弱体化によって次第に窮地に立たされるようになる。
連合勢力の中核である王政派両派は、王政復古運動を喫機に離反・反目。
王政復古運動は、両王家によりブルボン家王子シャンボール伯を国王とする事で合意するが、政治制度と国旗について両王家間で調整がつかず。
国旗を白旗にすることには帝政派も反対し、大統領も軍隊分裂を危惧し、シャンボール伯の国王推戴運動は連合勢力分裂によって失敗。
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その後、オルレアン家パリ伯を国王とする策動がおこるが、正統王朝派の反対により失敗。
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ド・ブロイは、近い将来の王政復古は不可能と見通し、王政復古の機会が来るまで共和派に政権を渡さないことを最大の政治目標とする。
しかし、7年制法には、30人からなる憲法起草委員会を設置するとの共和派の主張が盛り込まれる。
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11月20日
・フランス艦隊、ハノイ城砲撃、陥落。
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11月26日
・家禄処分に関する閣議。岩倉邸。家禄税創設のみ決定。
29日、天皇臨席して評議。禄税の方針は決まるが、木戸は不満。
12月7日、木戸は家禄税反対意見書を伊藤を通じ政府に提出。
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明治5年2月の大蔵原案、井上馨の妥協案である年々減却之法や一時禄券之方法、大隈重信が提示した、任意により家禄の代わりに禄券を与えるという家禄奉還制度も、否決かあるいは可決できず、禄制の最終処分については来年に再び議論することとなり、家禄税創設だけが決定。
あわせて、家禄に課税することへの批判に対処するため、勅任・奏任の官員に対する俸給にも官禄税がかけられることとなる。
尚、三条と木戸は欠席。
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29日、天皇臨席しての再評議。
岩倉は、禄税を実施して翌年に家禄の最終処分にとりかかるのはやや急に過ぎると難色を示し、伊藤・寺島は、この問題は参議だけで決定するのではなく、地方官を招集した会議なぢに諮るべきと述べるが、いずれも少数意見で、方針はほぼ確定。
なお、木戸はこの日も欠席。
洋行中から秩禄処分に慎重論を唱えだした木戸が、今回の措置に不満を唱えることは明白。
そのまま無視もできないので、伊藤博文が書面で家禄税創設の方針決定を伝える。
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木戸は大いに不満。
5月、大蔵大輔井上馨が辞職した際、政府財政の危機的状況を新聞に公表し、自らの緊縮財政論への批判に反撃した。
これに対し、大蔵省事務総裁として財政を引き継いだ大隈重信は、政府刊行物の「太政官日誌」に財政には余裕があると歳入出見込表を掲げて反論。
この時から、工業化に積極的に財源を投入する大隈と、健全財政論者である井上のライバル関係が始まるが、木戸はこの大隈の数値を持ち出し、新税は歳入不足を補う場合にのみ設けられるべきで、財政に余裕があるのに禄税を賦課するのほおかしいと主張。
士族が禄を有するのはそれなりの経緯があり、政府案は万全の策ではないと批判し、一方で一昨年に自分が示した禄高の三分の一を貯蓄するというブランへの未練を示す。
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木戸は伊藤から政府決定を聞いて熟談。
翌日付け伊藤宛の書簡では、今の政府にはついていけない、一年ほどゆっくり保養したいと希望を出しているが許してもらえない、この上は雲隠れの他に手段がなさそうで進退に窮している、しかし自分の秩禄処分プランを実行してもらえるなら閣議に出頭してもよい、などと言う。
伊藤は困り果てるが、木戸にも一理あると考える。
また、西郷・板垣が下野し、有力な政府反対派が形成されつつある時期に、長州閥の重鎮の木戸までが政府を離れれば、また政局が不安定となる。
伊藤は、岩倉と大久保に木戸の意向を伝え妥協を求める。
岩倉は、木戸にもうなずける点はあると感じ、家禄廃止は10~15年ぐらいの期間をかけてもよいと穏便な腹案を持っているが、禄税は天皇臨席のうえで決まったことであり、朝令暮改は認められないとする。
そして、既に決定した以上、横やりが入らないうちに早く布告すべきだと大久保に述べる。
大久保は「禄税の義、第一差急ぎ候訳と存じ候」とする岩倉書簡に対し、「御趣旨御尤に存じ奉り候」と簡潔に答える。
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木戸孝允の家禄税反対の意見書:
政治の要諦は「利」と「義」の得失を顧慮することにある。両者を全うしなければ他日に必ず弊害が生じる。
士族の禄は彼らの先祖の功績に由来する。
それ故、家禄は200年にわたり継承され、子孫は廉恥を守り諸芸学術の修練に励んできた。
国家の保護は士族に委ねられ、士族もそれを職分と自任してきた。
しかし、時勢が変遷して国家を保護する任務は士族だけに限られなくなり、義務を全うしない者を食わせる理由はないので、禄制を変えるのもやむをえない。
このため家禄の削減措置がとられたが、その結果として貧窮に悩む者もあらわれてきた。
さらにまた禄税を設け、家禄を処分すれば彼らはどうなるのか。
士族への過酷な処置は、「義」を優先するあまり「利」(国益)を見失っている。
「政府既に士族の力に藉(カ)りて以て国家を保護するも亦屡(シバシバ)なり」。
人民の人民たるゆえんは国家のために自分の義務を尽くすことにある。
しかし、長らく農工商が家業に専念するように振り向けられていた結果、残念ながら「廉恥を知り愛国の念を存し、国の為に義務を尽さんと欲する者」はもっぱら士族のみである。
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木戸の基本的立場は民治の安定。
そして、維新以来の新政策が必ずしも実を結んでいないのは、西洋文明の由来を考慮せずに表面のみを導入しているためと感じ、産業近代化の決意を固めた大久保とは対照的により漸進的な立場に転じている。
また、文明の実とは人々が国のために義務を尽くすことであり、そのためには道徳心を持つ者による誘導が必要だと考える。
したがって、国民全体に義務を尽くさせようとするならば、士族が恒心を捨てないように保護策を設けるべきだとした。
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月末
・台湾・清国視察から帰国(9月)の福島九成、外務省に長文の意見書を提出。生蕃討伐の必要性を主張。
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台湾先住民を生蕃・土蕃・熟蕃の3種に分類し、凶暴な生蕃は「討」たなければならないが、順従な土蕃・熟蕃は保護して「撫」するのがいい。
そこで「速やかに処蕃の目的を立て、上下の人心を振起」せよと論じる。
福島は、12月初めには岩倉にも意見書を提出。
感銘をうけた岩倉は、大久保に福島と面会するように勧める手紙を送る。
岩倉は、旧肥前佐賀藩出身の福島と大隈重信とが同郷なので「至っての知人」だとも記す。
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「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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