明治7年(1874)
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この年の一葉(2歳)の家族の動き
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2月21日
第5大区4小区(現台東区)下谷練塀町43番地桜井重兵衛方より、
第2大区6小区(現港区)麻布三河台町5番屋敷の福岡義弁所有の武家屋敷跡に転居(現、俳優座の隣)
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この頃
長兄泉太郎と次兄虎之助は鞆絵学校(現在の港区立御成門小学校)に通う。
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6月22日
三女くに子(くに、邦子)誕生。
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くに子(1874~1926):
明治7年(1874)6月22日、麻布三河台の家で三女として誕生。
明治14年、本郷6丁目時代の頃、吉川学校に入学か。
下谷区御徒町3丁目に住んでいた明治14年(1881)11月、一葉と共に上野元黒門町の青海学校に入学、当時の卒業証書が存在する。
明治19年12月、芝区兼房町の女子敬愛学校に入学。
くにが裁縫の技術を身に着けたのはこの学校と池之端の吉田家であったといわれる。
明治23年、芝西応寺町に居た時「蟬表(籐表)」の製造技術を習い始め、本郷菊坂町に移ってからも続けた。
「にごりえ」のお初の蟬表造りは、くに子の姿を参考にして描かれている。
一葉没後、明治29年12月14日付で相続戸主となる。
一葉の日記を保管しこれの出版に尽力する。
後に西村釧之助の店を譲り受け、吉江政次を養子婿に迎え、小石川表町に文房具・洋品店礫川堂を経営。
大正15年(1926)7月1日没(52歳)。
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○「一葉日記」と妹のくに子
一葉は亡くなる前、日記類は焼却するよう妹くに子に言い残したという。
しかし、くに子は焼き捨てるにしのびず保有し、馬場孤蝶らの尽力によって明治45年(1921)5月7日、博文館「一葉全集」前篇においてに公刊される。
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「一葉日記」出版までの経緯
明治37年、七回忌を前に、くに子は「日記」公刊の是非について馬場孤蝶に相談。
草稿を預かった孤蝶はそれを斎藤緑雨に託す。
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これより前の明治30年1月、「樋口一葉全集」が博文館から編集、出版されている。
この全集は、趣味を凝らした装訂の本で、編集者である博文館の大橋乙羽の思い入れの深さを示している。
一葉の葬儀や没後の措置一切を取り仕切った緑雨は、一葉の遺稿の出版にも深く関与していたが、この全集には飽きたらず、なお厳密な校訂を加えて、同年6月に「校訂一葉全集」として再版を出版。
明治30年の全集の際、緑雨は、全集の校訂を引き受けるが、博文館の大橋乙羽の校正の余りの杜撰に手を引いていた。
緑雨は、博文館の文芸雑誌『太陽』『文芸倶楽部』に掲載、再掲された一葉の『経つくえ』『にごりえ』『十三夜』『たけくらべ』『われから』などが、初出時の誤植等がそのまま全集に持ち込まれようとしたことに我慢ならなかったのである。
再版の企画に際して、再び緑雨に話が持ち込まれ、緑雨が校訂に従事し、「校訂一葉全集」の刊行に至る。
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緑雨は云う。
「(一葉全集の校訂を緑雨が担当することへの世間の攻撃に対して)わが亡き後若し文筆に関する用事あらば、挙げて一切を緑雨に托せよと、一葉の申のこし置きたる故に候。」(明治30年3月発行『早稲田文学』掲載の「一葉全集の校訂に就て」)
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しかし、「日記」出版に関しては、これを進めたい孤蝶に対し、緑雨は全面的公開に反対したらしい。
緑雨が『めさまし草』への勧誘を妨害する裏工作をしたことが暴露され、鴎外・露伴の顰蹙を買うことを恐れていたためとか、「日記」の中で一葉が桃水との会話の際に、緑雨を「いと気味わろき御かたよ」と言っていることに気分を害したため、と言われる。
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明治37年4月、危篤状態となった緑雨は、孤蝶を通じて、「日記」草稿を樋口家に戻すことにする。
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その後、明治41年の一葉の十三回忌を前に、くに子が「日記」公刊について孤蝶に相談。
孤蝶は森鴎外・幸田露伴と相談しながら本格的な準備を進めることになる。
しかし、鴎外や藤村の慎重論、消極論との調整がつかず、十三回忌の出版は見送りとなる。
この時も、鷗外の弟に対する一葉の記述に対し、鷗外が難色を示したとも云われている。
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露伴は、「日記」全編に目を通し、出版のための浄書を監督し、孤蝶は、浄書原稿の振り仮名を付け直し、宛て漢字を草稿通りに戻し、句読点を加え、何ら削除をしない無修正の本文公開を決める。
孤蝶は、解説「一葉全集の末に」において、
「一葉全集の校正は全く私の責任に帰するのだから、こゝに一言して置くが、『日記』には私の手では少しも省略した所は無い。多分全体を通じて何処にも省略した所はあるまい。」
と述べている。
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9月
父の則義、東京府中属となる(前年11月に東京府権中属となっている)。
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10月
長女ふじ(16)、東京府少属和仁元利の長男元亀(軍医寮勤務。軍医副)と結婚。
翌年7月、離縁し樋口家に復籍。
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「★樋口一葉インデックス」をご参照下さい。
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