2011年3月5日土曜日

永井荷風年譜(2) 明治13年(1880)1歳~明治25年(1892)満13歳

明治13年(1880)満1歳
4月
父久一郎、衛生局に新設の統計課課長に任じられる。
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12月
自宅の隣地所の金富町45番地を購入、278坪の屋敷となる。
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明治14年(1881)満2歳
1月7日
祖母より(因)、没。46歳。
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3月
父久一郎、内務権少書記官に任じられる。
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12月
自宅の旧家屋を改築。客用座敷を加え、門を改造して石橋を設ける。
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明治15年(1882)満3歳
10月5日
母方の祖父、鷲津毅堂、没。57歳。
8日、谷中天王寺墓地に葬られる。
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明治16年(1883)満4歳
2月5日
弟、貞二郎(のち鷲津家を継ぐ)誕生。
下谷区竹町4番地の鷲津家に預けられ、祖母美代に育てられる。
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向島の白鬚神社境内に(祖父)毅堂の友人門下らによって鷲津毅堂之碑が建立される。
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明治17年(1884)満5歳
鷲津家より、本郷区湯島3丁目の東京女子師範学校附属幼稚園に通い始める。
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父久一郎は、ロンドンでの万国衛生博覧会の事務官を命じられ、農商務省御用掛、同省博覧会事務取扱として派遣される。
5月18日、フランス郵船で横浜出帆。
7月10日、ロンドンに到着。
翌明治18年5月20日~6月13日、ローマで開催された国際衛生会議に日本政府委員として出席。
9月15日、帰国。
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明治18年(1885)満6歳
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明治19年(1886)満7歳
この年
小石川金富町の父母のもとに戻り、小石川区小日向服部坂の中途にある黒田小学校初等科第6級生として入学。
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3月6日
父久一郎、帝国大学書記官(出納官)に任じられ、奏任3等に叙せられる。帝国大学令公布(3月1日)による最初の書記官として経理経営の事務整備にあたる。
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4月
初等科第6級生を修業し、10月、同第5級生を修業。
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明治20年(1887)満8歳
7月
尋常科第2学年を修業(翌明治21年7月、第3学年修業)。
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11月18日
 弟、威三郎、誕生。
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明治21年(1888)満9歳
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明治22年(1889)満10歳
4月
小石川区黒田小学校尋常科第4学年を卒業。
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4月20日
父久一郎、帝国大学書記官を退いて文部省に入り、文部大臣榎本武揚の大臣秘書官に任じられ、又文部省地方学事の臨時取調委員を命じられる。
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7月
小石川区竹早町8番地の東京府尋常師範学校附属小学校高等科に入学。
学校の帰途、金剛寺坂上に住む漢学者の家に寄って、『大学』『中庸』の素読を受ける。
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11月
森春濤、没。
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明治23年(1890)満11歳
5月
父久一郎が文部大臣芳川顕正(山県内閣)の大臣官房秘書官となる。永田町1丁目21番地の官舎へ移る。
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9月16日
鷲津美代、没。51歳。美代はドイツ系宣教師スピンナーの洗礼を受け本郷壱岐殿坂のドイツユニテリヤン教会に属している。
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11月
この月まで東京府尋常師範学校附属小学校高等科に在学し、2年級まで修業。
同月より神田錦町の東京英語学校(後、日本中学校)に通い、英語、漢学を学ぶ。
講師に志賀矧川らがいる。
また他で数学を兼修したという。
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□「日和下駄」(大正4年36歳)
通学ルートの今の景色はコチラ
「市中の散歩は子供の時から好きであった。
十三、四の頃私の家は一時小石川から麹町永田町の官舎へ引移った事があった。勿論電車のない時分である。
私は神田錦町の私立英語学校へ通っていたので、半蔵御門を這入って吹上御苑の裏手なる老松(ロウショウ)鬱々たる代官町の通(トオリ)をばやがて片側に二の丸三の丸の高い石垣と深い堀とを望みながら竹橋を渡って平川口の御城(ゴジヨウ)門を向うに昔の御搗屋(オツキヤ)今の文部省に沿うて一ツ橋へ出る。
この道程もさほど遠いとも思わず初めの中(ウチ)は物珍しいのでかえって楽しかった。
宮内省裏門の筋向なる兵営に沿うた土手の中腹に大きな榎があった。その頃その木蔭なる土手下の路傍(ミチバタ)に井戸があって夏冬ともに甘酒大福餅稲荷鮓飴湯なんぞ売るものがめいめい荷を卸して往来の人の休むのを待っていた。」
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「車力や馬方が多い時には五人も六人も休んで飯をくっている事もあった。
これは竹橋の方から這入って来ると御城内代官町の通は歩くものにはそれほどに気がつかないが車を曳くものには限りも知れぬ長い坂になっていて、丁度この辺がその中途に当っているからである。
東京の地勢はかくの如く漸次に麹町四谷の方へと高くなっているのである。
夏の炎天には私も学校の帰途井戸の水で車力や馬方と共に手拭を絞って汗を拭き、土手の上に登って大榎の木蔭に休んだ。土手にはその時分から既に 「昇ルベカラズ」 の立札が付物(ツキモノ)になっていたが構わず登れば堀を隔てて遠く町が見える。
かくの如き眺望は敢てここのみならず、外濠の松蔭から牛込小石川の高台を望むと同じく先ず東京中での絶景であろう。」
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「私は錦町からの帰途桜田御門の方へ廻ったり九段の方へ出たりいろいろ遠廻りをして目新しい町を通って見るのが面白くてならなかった。
しかし一年ばかりの後途中の光景にも少し飽きて来た頃私の家は再び小石川の旧宅に立戻る事になった。
その夏始めて両国の水練場へ通いだしたので、今度は繁華の下町と大川筋との光景に一方ならぬ興を催すこととなった。・・・」
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明治24年(1891)満12歳 
6月
父久一郎、芳川顕正文部大臣の退任に従って大臣官房秘書官をやめる。
一家は、小石川金富町の邸に帰る。
同月18日、父久一郎は文部省会計局長を命じられるが、官制が変わり参事官となり、8月16日、書記官に任じられる。
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9月1日
神田一ッ橋通町の高等師範学校附属学校尋常中学科(6年制)第2学年に編入学。
中学校では、会津の藩儒南摩羽峯の『論語』講義を聴き、鈴木米次郎から楽譜を読むことを習う。
岡不崩には教場のほか、その宅に通って絵画の教えを受ける。
また、漢学者岩渓裳川から漢学を、、内閣書記官の岡三橋からは書をそれぞれ学ぶ。
芝居好きな母親の影響で歌舞伎や邦楽に親しむ。
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「十三歳で岡不崩について絵画を学んだ彼の浮世絵に対する造詣には、その深さにおいて常識の水準をはるかに抜くものがある。
数多くの散策記を挙げるまでもなく、彼が創作にあたって背景の選択にどれほど心をくだいているか、何はともあれ現地を自身の眼でみるという姿勢を終始持続したことにおもいをかよわせれば、生物的人間像としてはともかく、やはり視覚型の作家とみるべきではないのだろうか。(野口富士男「わが荷風」)
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10月1日
大沼枕山、暗闇坂の自宅で没。73歳。
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明治25年(1892)満13歳
この頃、大川端の神伝流水練場で水泳の稽古をする。
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「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
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