明治7年(1874)3月
・華族会議、結成。総代中山忠能(ただやす)。
岩倉使節団で「貴族」の存在を認識した木戸と三条の腹心尾崎三良の工作で「通款社」(明治6年12月設立、若手華族の学術研究団体)と「麝香間祗候(じゃこうのましこう)会議」(保守的華族長老団体)が合同。
6月、華族会館に発展。「協同勉励学術を研精」する機関と位置づける。
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華族の中にはその地位を返上しようとする人物もいる。
明治7年2月、旧福本藩(播磨)知事池田徳潤(ノリマス)は、「報恩の寸功も之なく、多罪之仕合と存じ奉り侯得共、此上歳々時日を過ぎ侯ては猶更恐入候」と、位記の返上と家令・家扶の廃止を願い出る。
明治9年2月、元広島藩主浅野長勲(ナガコト)は、「身を民籍に帰し祖先墳墓の地に拠り、力を開墾に用ひ、聊か物産を富殖し、万一も国家に稗益あらんことを冀望(キボウ)」すると出願。
しかし、政府はこれらの出願を却下。
華族は次第に宮内省の強力な統制下におかれ、「戸位素餐」の振る舞いも市民的自由も制約されることとなる。
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3月1日
・佐賀鎮定全権委任された参議兼内務卿大久保利通、佐賀城入り。
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3月1日
・憂国党党首島義勇、島津久光に嘆願書を渡すため鹿児島に向かう。
7日、憂国党幹部らと鹿児島で逮捕。佐賀へ護送。
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元薩摩藩主の島津久光は、2月13日に東京を発って20日に鹿児島に戻り、佐賀に呼応することのないよう元藩士に睨みをきかせていた。
憂国党の幹部は、鎮台兵が佐賀を蹂躙し、士族のブライドを傷つけられたことを訴え、島津久光に謝罪・帰順しようとした。
久光はこれに理解を示し、佐賀の大久保に使者を送るが、大久保は一切取り合わず。
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3月1日
・江藤新平、宇奈木温泉で遊猟中の西郷隆盛に面会(4ヶ月ぶりに再会)。再挙への協力求めるが、西郷は応じず。
西郷は、島津久光に会うよう勧めるが江藤従わず。
3日、江藤、宮崎に向かい、日向飫肥の小倉処平が用意してくれた船で宇和島に渡る。
陸路から四万十川を下り、下田港から海路で高知へ潜行し、土佐の同志の協力を得て東京に行き三条・岩倉に真意を訴えたいと考えた。
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鹿児島での江藤新平と西郷隆盛は、2日間にわたって2人だけで話し合う。
宿の女将は、一度、西郷の大声を聞いた。
「私の言うようになさらんと、アテがちがいますぞ!」
江藤は太政官へ出頭して、正院において弁明したいと西郷に助力を頼む。
しかし、西郷隆盛は、島津久光に会うように勧める。
島津は、2月20日の帰国後、西郷を呼び出し、「江藤新平の挙を非とするならば、陸軍大将たるものが兵をひきいて、これを討伐すべきではないか」と迫る。
西郷は、「私は静養中の身であるから、もし必要なら陸海軍が乗り出して、討伐にあたるでしょう」と、受け流す。
島津は、西郷らが江藤に呼応する事を心配していた。
その経緯から、西郷の口添えあれば、島津は悪いようはしないと、西郷は読んだ。
しかし、江藤は西郷の勧告に従わず土佐に向う。
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3月2日
・陸軍少佐樺山資紀、膨湖諸島を調査。
9日、台湾打狗(高尾)に上陸。
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3月4日
・太政官、「佐賀戦争平定」布告。江藤の人相書き配布。
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3月7日
・(清、同治13年正月19日)同治帝、第2次アヘン戦争で破壊されたままの円明園の修復工事を正式に着工させる。国家財政困難なため群臣は中止を求める。
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3月13日
・リゼンドル、大隈の諮問に台湾遠征の具体計画を提出。
「フォルモサ島(台湾)の一部を日本に併す」と領有意図を明白にする。
また、遠征成功には必要権限を与えられた「長官」が不可欠と助言。
大久保の意を受けて黒田は谷を押すが、西郷従道が自ら望み三条・岩倉に工作。黒田も折れる。
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遠征の「表向きの眼目」は「ボンタン人〔牡丹社〕の罪を問い後来さらにその悪業を行うを防制するため」だが、「其の眼目は土人の所轄たるフォルモサ島〔台湾〕の一部を日本に併すにあり」、そのために「土人を開化せしめ、鎮定の後その土人をして己等と日本政府との為に有益ならしむるに着眼」せよと提言。
「台湾蕃地処分要略」では隠されていた領有意図を明白に打ち出す。
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3月13日
・女子師範学校設立の通達が出る。
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3月14日
・釜山の草梁和館に在勤の外務省権少録奥義制より東京の外務省権大録・森山茂と同出仕・広津弘信に宛てて大院君引退の報告書。
高宗が親政し全面的な人事刷新観測を知らせる。
6月、三条太政大臣は三度森山茂を派遣。
明治政府は、朝鮮国の内紛に乗じて、強く開国を迫ることを決する。
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3月15日
・フランス、ヴェトナム(阮朝)と第2次サイゴン条約締結。
紅河(ソンコイ川)沿いの通商権を獲得、ヴェトナムの清からの「独立」を認め事実上これを保護国化。清朝はこれを認めずヴェトナムを藩属国と主張するが、政権中枢の李鴻章らの妥協・譲歩政策により実効ある抵抗はできず。
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中旬
・マルクスとエンゲルス、ベーベルの論文により、デューリングなる危険人物の存在を知る。
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3月20日
・太政大臣三条実美、大久保利通の全権委任状の「死刑といえども、臨機に処分のこと」を取り消し、処刑は内務卿の取り計らいとする旨、大久保に電報。
この時点で、内務卿は木戸孝允である。
また、2月23日の佐賀征討令により、総督東伏見嘉彰親王、参軍山県有朋・伊東祐麿が任命されており、既に大久保は非常時大権を持っていない。
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3月21日
・築地海軍兵学寮、競闘遊戯会開催。
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3月24日
・江藤新平、土佐の林有造に面会。
林は、自首を勧め、高知県令岩崎長武に密告。
江藤は徒歩で阿波に向う。
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3月24日
・司法卿、フランス人顧問2人(ボアソナアド、プスケ)と法学教育に関する契約締結。
4月から日本で初めて本格的なヨーロッパ的法学教育が始まる。
ポワソナアドは、初め「自ら三百円の増金有之候事と断然と存込」んでいたが、実際には200円となる。プスケの増俸は150円。
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3月26日
・板垣退助、土佐へ帰郷。
4月10日、立志社結成。
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3月28日
・秩禄公債証書発行。
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3月29日
・江藤新平、部下8人と共に土佐・阿波国境の安芸郡甲の浦で逮捕される。
4月3日、護送の軍艦「猶竜」に乗せられる。
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3月30日
・この日の閣議で、木戸は、「台湾一条・・・着手の密にして蹉跌なきことをるる陳諭す」と慎重論を述べる(「木戸日記」)。
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「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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