永禄3年(1560)
この年
信長27歳、光秀33歳、秀吉25歳、家康19歳
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・松永久秀(51)、信貴山城を大修築、日本で初めて天守閣を造営。
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・連歌師宗牧の子宗養、前年冬~この年秋、一乗谷に滞在。
宗養の指導で連歌会を開く人々。朝倉義景、朝倉孫九郎、栂野吉仍、尭孝法印の末孫万休軒、前波吉継、「上殿」(義景の母で孝景の妻)、玉泉坊・宝光院・財乗坊・浄教寺町衆、朝倉景紀ら。
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1月
・幕府(義輝)、三好長慶の周旋によりイエスズ会宣教師ヴァレラに布教許可し制札を下す。
①京都での会堂への乱入・乱暴、
②寄宿と悪口、
③非分課役賦課、の停止保障。
永禄8年に追放されるまで、京都で教会を維持する。
大友義鎮(宗麟)の紹介による幕府政所執事伊勢貞孝の尽力(永禄5年9月11日丹波杉坂で戦死)。
キリスト教に反対する法華宗の僧達は、将軍に代わって天下を支配している松永久秀にヴァレラ達の追放を要請。
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・フランス、新教徒を意味する「ユグノー」の言葉が初めて使われる。
ラ・ルノーディ、ナントにノルマンディ、ブルターニュ、ガスコーニュからの武装集団を集める。
ラ・ルノーディ:
ペリグーの貴族、ジュネーヴのカルヴァンの許に滞在中に改宗し、フランスを「カルヴァン主義の国」にするため国王を「奪取」し「宗旨替え」させる意図を持つ。
武装集団は、トゥールに移動する。
(トゥールの「ユーグ門」近くにプロテスタント達の集会所がある)。
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・スコットランド・プロテスタントの支援要請を受けて、ウィンター提督麾下イングランド艦隊がフォース湾に到着、フランス軍をスターリングからリースへと押戻す。
3月、グレー卿率いるイングランドの別働隊8千が国境を越え、スコットランドのプロテスタント勢と共にリースを包囲。
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・トスカナ(フィレンツェ)大公コジモ・デ・メディチ4子・長男ジョヴァンニ・デ・メディチ、新枢機卿となる。
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1月4日
・下総関宿城にいた北条方の結城晴朝、反北条勢力(常陸の佐竹義昭・小田氏治ら)来襲の企てを知り急遽結城城に戻る。
7日、佐竹義昭・小田氏治ら、結城晴朝の拠る下総結城城を攻撃、撃退される。
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1月16日
・三好長慶、幕府相伴衆(三管領四職に準ずる家格)となる。21日、修理大夫に昇任。
三管領四職に準ずる待遇となるが、京都支配から閉め出され、被官人を京都から撤退せざるを得なくなる。
三好長慶による京都支配は実質的に終焉。
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1月20日
・里見義堯が北条氏康に攻められ、家臣の正木憲時から上杉家臣北条高広を通じて上杉謙信に救援を依頼。
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1月27日
・正親町天皇即位。即位式を行う。
長尾景虎(31)、幣物を献上して祝賀。
毛利元就・隆元は即位料を献上。
2月15日、即位費用献納の功により、毛利元就が「陸奥守」に任命され菊桐の紋章を受ける。
隆元は従五位下大膳大夫に叙任。元春、駿河守に任ぜられる。
21日、足利義輝、毛利隆元を「安芸国守護職」に補任。
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郎位式は、大友義鎮・毛利元就父子など諸国からの献資により、践祚後満2年3ヶ月で挙行。
後柏原20年、後奈良10年に比してのこの早さは、天皇の「権威」上昇が、諸大名の権力意志の高揚の所産にすぎない事を示す。
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2月
・松永久秀、河内国天野金剛寺に全3ヶ条の「禁制」を下す。
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・宇喜多直家、舅・中山備中守を殺害。宿敵(祖父能家を殺害した)島村観阿弥をおびき寄せ、殺害。
浦上宗景より亀山城と島村の大半の所領を与えられ、浦上宗景羈下の筆頭武将となる。
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2月~3月
三好長慶、ヴイレラを京都立売町の三好邸にて引見し、布教許可の制札を与える(日本人修道士ロレンソのポルトガルへの報告)。
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2月1日
・三好長慶の嫡子義興と松永久秀(51)、将軍御供衆となる。
4日、松永久秀、弾正少弼(しょうひつ)に任命。三好長慶家臣でトップ。
6日、義輝の参内に、義興・細川藤賢らと共に御供衆として従う。
16日、松永久秀、堺の津田宗達の茶会に招かれる。
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2月16日
・武田晴信(信玄)、甲府東郊に新善光寺完成。入仏式施行。
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2月21日
・フェラーラ公アルフォンソ2世、妻ルクレツィア大公妃(15、コジモ娘)をフィレンツェよりフェラーラに呼ぶ。(1561/4/21病死。砒素による毒殺か?)。
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3月
・河内守護、「富田林道場」(富田林寺内)に5ヶ条の特権を認める。
①寺内に守護の雑税をかけない、
②寺内に徳政令を適用しない、
③寺内の諸商人座に取引税はかけない、
④寺内での私的な貸借の強制執行禁止、
⑤寺内特権は大坂(石山本願寺)並みに許容する。
翌4年6月には「大坂並みに、諸公事、免許のこと」と明記。
都市特権を「大坂並み」として大名領主に認めさせることにより新しい都市が形成される(寺内都市)。
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[経緯]
1559~60(永禄2~3)年、興正寺証秀(蓮秀の子)は、石川郡内の芝地を100貫文の礼銭で三好長慶より取得。
翌年、周辺の中野・新堂・毛入谷・山中田4ヶ村出身の年寄8人によってこの地を開発させ、御堂を建立し、畠屋敷蓑などの町割をおこない寺内町を設立、富田林と名付ける。
この月、畠山.遊佐氏の臣高屋城主安見美作守直政から、
①「諸公事免許」(守護役以下の諸公事の免許)、
②「徳政不可行」、
③「諸商人座公(事)」(寺内町商人・手工業者に対する権門の座役銭の免除、権門支配と座からの解放を意味し、権力の「不入」の完成、「楽市・楽座」を意味する)、
④「国質・所質並ニ付沙汰」(国質・所質・付沙汰などの物権の差押行為の禁止で、商取引の安定・安全確保の為のもの)、
⑤「寺中之儀何れも可為大阪並」
の5項目の権限を獲得。
戦国時代の都市法のーつの典型を示すこれら権限が、「大阪並」として、大坂寺内をモデルとして承認されている。
永禄4年、畠山・安見氏等の支配が動揺すると、富林寺内は、三好方の三好康長に
①「大阪並ニ諸公事免許」、
②「国質・所質並付沙汰」、
③「諸商人座公事」
の3項目を確認させる。
翌永禄5年、畠山・安見氏等を河内から追放し高屋城を占領した三好康長ら高屋城在城衆に、先に安見直政が承認したのとほぼ同様の5項目を承認させる。
しかし「大阪並」の語ではなく、「惣国・・・寺内並」という形で、河内惣国の寺内に準じた扱いとして、記される。
変転する領主権力に対し、一旦獲得した権利関係を先例にまかせて承認させていくという方法で、寺内特権を確保し続けていく。
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・将軍義輝、大友宗麟へ石火矢(大砲)・種子島筒(種ヶ島鉄砲)献上の礼状。
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3月2日
・フランス、フランソワ2世(16)、宗教会議が開催されるまで暫定的に信仰の自由を認める勅令に署名。
31日、批准。
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3月2日
・大友義鎮、将軍家より桐紋の使用を許可される。16日、「左衛門督」に任官。
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3月16日
・フランス、アンボアーズの陰謀。
ユグノー派(首謀者コンデ公ルイ)の国王奪取計画失敗。カルヴァン主義者ラ・ルノーディーの陰謀。背後にブルボン家、ギーズ家一門(ロレーヌ家)専横への反撥。
未然に漏れ、大量の新教徒虐殺。
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ラ・ルノーディは、戦闘中に戦死、八つ裂きにされロワール河の橋の上で晒される。
アンボワーズ城でカステルノー男爵(コリニー一族)以下52名が斬首(叛徒達は処刑前に新教徒ルイ・ド・コンデの前で頭を下げる)。
新教徒は、処刑のむごたらしさを宣伝。
カトリック信者達も、カトリーヌ・ド・メディシス、ギーズ兄弟に「国民を虐殺する死刑執行人」の姿を見て取る。
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3月26日
・上杉謙信の富山城攻め
長尾景虎(上杉謙信、31)、北条高広・斎藤朝信らを率い越中へ出陣。
29日、松倉城(魚津市鹿熊)城主椎名康胤を助け、30日、富山城(富山市本丸)城主神保長職を討伐。
長職は平城の富山城を捨て、堅固な山城の増山城へ逃れる。
景虎は、椎名ら越中勢による攻撃をかけるが落ちず。
景虎自ら神通川渡河し、増山城攻略姿勢を示すと、夜半、長職は落ち延びる。
これをみて守山城も自落、長職に従う国人の狩野良政・土倉三郎二郎・田端氏らは降伏。
長職の支配は崩れる。
景虎は椎名を安泰にして凱旋帰国。
4ヶ月後の7月、長職は再挙。再び椎名との対立を深める。
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3月30日
・フランス、老宰相(大法官)フランソワ・オリヴィエ、アンボワーズ謀反の報に憤死。
後任はミシェル・ロピタル。信教の自由確立を志向するが挫折。
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「★信長インデックス」 をご参照下さい。
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