永井荷風略年譜(「断腸亭日乗」起筆まで)で記したように、
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明治23年(1890)5月
荷風一家は父久一郎が文部大臣芳川顕正の秘書官となり、麹町区永田町1丁目21番地の官舎に移る。
また、
11月からは、荷風は神田錦町の東京英語学校に学ぶことになります。
荷風、満11歳の頃のことです。
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のち、大正4年36歳の時の「日和下駄」にこの頃の通学の順路が記されています。
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「市中の散歩は子供の時から好きであった。
十三、四の頃私の家は一時小石川から麹町永田町の官舎へ引移った事があった。
勿論電車のない時分である。私は神田錦町の私立英語学校へ通っていたので、
半蔵御門を這入って吹上御苑の裏手なる老松(ロウショウ)鬱々たる代官町の通(トオリ)をばやがて片側に二の丸三の丸の高い石垣と深い堀とを望みながら竹橋を渡って平川口の御城(ゴジヨウ)門を向うに昔の御搗屋(オツキヤ)今の文部省に沿うて一ツ橋へ出る。
この道程もさほど遠いとも思わず初めの中(ウチ)は物珍しいのでかえって楽しかった。
宮内省裏門の筋向なる兵営に沿うた土手の中腹に大きな榎があった。
その頃その木蔭なる土手下の路傍(ミチバタ)に井戸があって夏冬ともに甘酒大福餅稲荷鮓飴湯なんぞ売るものがめいめい荷を卸して往来の人の休むのを待っていた。(「日和下駄」大正4年36歳)
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幸い、「goo地図」には検索した地図の明治時代のころのものが参照できるので、それを見ながら「日和下駄」に記されているルートを、取り敢えず半蔵門~一ツ橋まで辿ってみた。
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まず、「半蔵御門を這入って」とあるが、現在は半蔵門からは入れない。確か、認証される大臣くらいしか出入りできないハズ。
それが、「goo地図」の明治時代版を見ると、なるほど半蔵門~北桔橋門まで御所内を抜けられるようになっていたようだ。
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半蔵門前から永田町方面を見る(桜田濠)
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半蔵門
ずっと遠くからしか見られない
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半蔵濠越しに横から見た半蔵門
半蔵門は入れないので、濠(半蔵濠)のこちら側を歩くことにする。
この濠縁は「千鳥が淵公園」という
(千鳥が淵はもっと北側にあり、半蔵濠の縁なのに、この命名は不可解。
千鳥が淵の縁の方は、「千鳥が淵縁道」と呼ぶらしい)
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半蔵濠越しに吹上御所方向を見る。
荷風(壮吉)少年の通学路はこの濠の向こう側にあったようです。
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麹町高等小学校校舎址の碑
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第一東京市立中学校発祥之地の碑
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近くの人達の憩いの場になっている
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しばらくすると、千鳥が淵交差点前にイギリス大使館
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千鳥が淵交差点を右折して代官町通りに入る
右側が吹上御所
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乾門周辺
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北桔橋門前から竹橋方面を見る
ここで荷風(壮吉)少年は、平川濠縁(下の写真の右側)に出て竹橋方面に歩いて行ったハズ
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平川濠の優美な石垣
しかし、石垣は単に「高い」と表現されるだけで、荷風の美意識の対象にはなっていない。
「代官町の通(トオリ)をばやがて片側に二の丸三の丸の高い石垣と深い堀とを望みながら・・・」
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この辺り、紀伊国坂というらしい。
明暦の大火までは、紀州藩の屋敷があったという。
この次の移転先は、大久保利通が暗殺された紀尾井坂
(紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家の頭文字から名付けた町名。命名は明治5年)
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竹橋
「竹橋を渡って平川口の御城(ゴジヨウ)門を向うに昔の御搗屋(オツキヤ)今の文部省に沿うて一ツ橋へ出る」
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竹橋から平川橋を見る
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平川橋から毎日新聞のあるパレスサイドビルを見る
このパレスサイドビルが、明治の頃の文部省があったところ。
ビルの右脇を抜けると一ツ橋。
「文部省に沿うて一ツ橋へ出る。」とある。
ただ、
「宮内省裏門の筋向なる兵営に沿うた土手の中腹に大きな榎があった。」
とある「兵営」が何処かよく判らなかった。
パレスサイドビルの右側向いに「近衛騎兵連隊兵営」というのがあり、これかも知れない。
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「★東京インデックス」 「★永井荷風インデックス」をご参照下さい。
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