夏目漱石「吾輩は猫である」再読私的ノート(2)
*
冒頭、「吾輩は新年来多少有名になつたので、猫ながら一寸鼻が高く感ぜらるゝのは難有(ありがた)い。」とある。
この作品が評判になったことがわかる。
*
年始状が来るが、世間の人が「吾輩」に注目していることを、主人は一向に気が付かない。
「彼(主人)の交友某画家」からの年始状がくる。
年始状には、「吾輩の肖像」が書かれてあるのに、主人は「今年は征露の第二年目だから大方熊の画だろう杯(など)といつて澄している」
次に、「主人の旧門下生」からなどの年始状が来て、吾輩が描かれているのに主人はそのことに気が付かない。
*
登場人物⑩:そこに、主人の旧門下生である水島寒月がやって来る。
*
この日は好天なので二人散歩に出る。
寒月は、「旅順が落ちたので市中は大変な景気ですよ」と言う。
しかし、先生の日記には、寒月と散歩に出た街の景気や騒ぎ、旅順とか戦争とかの話題は一切出てこない。
淡々としたものである。
「寒月と、根津、上野、池の端、神田辺を散歩。池の端の待合の前で芸者が裾模様の春着をきて羽根をついて居た。衣装は美しいが顔を頗るまづい。何となくうちの猫に似て居た。・・・」
「神田の某亭で晩餐を食ふ。久し振りで正宗を二三杯飲んだら、今朝は胃の具合が大変いゝ。胃弱には晩酌が一番だと思ふ。タカヂヤスターゼは無論いかん。誰が何と云つても駄目だ。・・・」
*
「吾輩」はついつい雑煮を食べてしまって、餅のために「死ぬ思い」をした。
この経験から得た四つの真理。
①「得難き機会は凡(すべ)ての動物をして、好まざる事をも敢てせしむ。」
②「凡ての動物は直覚的に事物の適不適を予知す」
③「危きに臨めば平常なし能はざる所のものを為し能ふ。之を天祐(てんいう)といふ」
④「凡ての安楽は困苦を通過せざるべからず」
吾輩の場合、「天祐が少し足」らず死ぬ思いをしたが、主人の命により御三に餅を取り出して貰った。
*
吾輩が気にしている異性のことについて。
「三毛子は此近辺で有名な美貌家である。・・・
気分が勝(すぐ)れん時は必ず此異性の朋友の許を訪問して色々な話をする。すると、いつの間にか心が晴々(せいせい)して今迄の心配も苦労も何もかも忘れて、生れ変つた様な心持になる。女性の影響といふものは実に莫大なものだ。・・・」
三毛子の主人は、二絃琴の師匠で62歳。「天璋院(てんしやうゐんさま)の御祐筆(ごいうひつ)の妹の御嫁に行つた先の御つかさんの甥の娘」とのこと。
*
登場人物⑪:水島寒月が紹介する越智東風(おちとうふう)がやってくる。
(但し、寒月は彼を「おちこち」と呼んでいる)
東風は、迷亭とやらかした西洋料理「トチメンボー」の話をしてくれる。
東風と迷亭が西洋料理へ行った。
迷亭が、献立を見ながら
「日本ぢやどこへ行ったつて版(はん)で圧(お)した様で、どうも西洋料理へ這入る気がしない・・・」
と言う。
それから、
東風がいうには、「(迷亭が、)とてもなめくぢや蛙は食はうつても食へやしないから、まあトチメンボー位な所で負けとく事にし様ぢやないか君と御相談なさるものですから、私はつい何の気なしに、それがいゝでせう、といつて仕舞った・・・」
「それからポイにおいトチメンポーを二人前持つて来いといふと、ポイがメンチボーですかと聞き直しましたが、先生は益(ますます)真面目な貌(かほ)でメンチボーぢやないトチメンボーだと訂正されました」
主人(苦沙弥)が問う。「なある。其トチメンボーといふ料理は一体あるんですか」
「さあ私も少し可笑(おか)しいとは思ひましたが如何にも先生が沈着であるし、其上あの通りの西洋通で人らつしやるし、・・・、私も口を添へでトチメンポーだトチメンボーだとポイに教へてやりました」
「ボイがね、・・、暫く思案して居ましたね、甚だ御気毒様ですが今日はトチメンポーは御生憎様でメンチボーなら御二人前すぐに出来ますと云ふと、先生は非常に残念な様子で、夫ぢや切角こゝ迄来た甲斐がない。どうかトチメンボーを都合して食はせてもらふ訳には行くまいかと、ポイに二十銭銀貨をやられると、ポイはそれでは兎も角も料理番と相談して参りませうと奥へ行きましたよ」
「しばらくしてポイが出て来て真(まこと)に御生憎で、御銚ならこしらへますが少々時間がかゝります、と云ふと迷亭先生は落ち付いたもので、どうせ我々は正月でひまなんだから、少し待つて食つて行かうぢやないかと云ひ乍らポッケットから葉巻を出してぷかりぷかり吹かし始られたので、私も仕方がないから、懐から日本新聞を出して読み出しました、するとポイは又奥へ相談に行きましたよ」
主人は、「いやに手数が掛りますな」と戦争の通信を読む位の意気込で席を前(すゝ)める。
「するとポイが又出て来て、近頃はトチメンボーの材料が払底で亀屋へ行つても横浜の十五番へ行つても買はれませんから当分の間は御生憎様でと気の毒さうに云ふ・・・」
「するとポイも気の毒だと見えて、其内材料が参りましたら、どうか願ひますつてんでせう。先生が材料は何を使ふかねと問はれるとポイはへゝゝゝと笑つて返事をしないんです。材料は日本派の俳人だらうと先生が押し返して聞くとポイはへえ左様で、それだものだから近頃は横浜へ行つても買はれませんので、まことに御気の毒様と云ひましたよ」
「アハゝゝ夫(それ)が落ちなんですか、こりや面白い」と主人はいつになく大きな声で笑ふ。
*
日本派の俳人、安東橡面坊の名前を使って、万事西洋風の世の中の知ったかぶりを風刺する。ありもしないでたらめの事象、事柄、物品を並べ立ててもそれが罷り通る風潮を揶揄する。
*
東風が帰った後、主人が書斎に戻ると、迷亭からの手紙が置いてある。
迷亭がいうには、
「歴史家の説によれば羅馬人は日に二度も宴会を聞き候由。(よって)・・・如何なる健胃の人にでも消化機能に不調を醸すぺく、・・・」
「然るに贅沢と衛生とを両立せしめんと研究を尽したる彼等は・・・、こゝに一の秘法を案出致し候・・・」
「彼等は食後必ず入浴致候。入浴後一種の方法によりて浴前に嚥下(えんか)せるものを悉く嘔吐し、胃内を掃除致し候。胃内廓清の功を奏したる後又食卓に就き、飽く迄珍味を風好し、風好し了れば又湯に入りて之を吐出致候。・・・」
「廿世紀の今日交通の頻繁、宴会の増加は申す迄もなく、軍国多事征露の第二年とも相成候折柄、吾人戦勝国の国民は、是非共羅馬人に倣(なら)つて此入浴嘔吐の術を研究せざるべからざる機会に到着致し候事と自信致候。
左(さ)もなくば切角の大国民も近き将来に於て悉く大兄の如く胃病患者と相成る事と竊(ひそ)かに心痛罷(まか)りあり候・・・」
「此際吾人西洋の事情に通ずる者が古史伝説を考究し、既に廃絶せる秘法を発見し、之を明治の社会に応用致し候はゞ所謂禍を未萌(みぼう)に防ぐの功徳にも相成り平素逸楽を擅(ほしいまゝ)に致し候御恩返も相立ち可申と存候・・・」
*
*戦争で利益を得た者たちの贅沢な生活を風刺しているのだろう。
*
それから、4~5日後、年始状では多忙であると云っていた迷亭がやって来る。
ついで寒月もやって来る。
*
迷亭の話によると、昨年の暮れに静岡の母親から手紙が届いたという。
その手紙について、迷亭はこう語る。
「・・・
年寄丈にいつ迄も僕を小供の様に思ってね。寒中は夜間外出をするなとか、冷水浴もいゝがストーブを焚いて室を暖かにしてやらないと風邪を引くとか色々の注意があるのさ。成程親は有難いものだ。・・・
そにつけても、こんなにのらくらして居ては勿体ない。何か大著述でもして家名を揚げなくてはならん。母の生きて居るうちに天下をして明治の文壇に迷亭先生あるを知らしめたいと云ふ気になった。
それから猶読んで行くと御前なんぞは実に仕合せ者だ。露西亜と戦争が始まって若い人連は大変な辛苦をして御国の為に働らいて居るのに節季(せつき)師走(しはす)でもお正月の様に気楽に遊んで居ると書いてある。
・・・其あとへ以て来て、僕の小学校時代の朋友で今度の戦争に出て死んだり負傷したものゝ名前が列挙してあるのさ。
其名前を一々読んだ時には何だか世の中が味気なくなって人間もつまらないと云ふ気が起ったよ。・・・」
*
主人、迷亭、寒月を見て、「吾輩」は考えた。
「吾輩は大人しく三人の話しを順番に聞いて居たが可笑(おか)しくも悲しくもなかった。人間といふものは時間を潰す為めに強ひてロを運動させて、可笑しくもない事を笑ったり、面白くもない事を嬉しがつたりする外に能もない者だと思った。・・・
(この主人にしても)負けぬ気になって愚にもつかぬ駄弁を弄すれば何の所得があるだらう。・・・。
要するに主人も寒月も迷亭も太平の逸民で、彼等は糸瓜(へちま)の如く風に吹かれて超然と澄し切つて居る様なものゝ、其実は矢張り婆婆気(しあばけ)もあり慾気もある。競争の念、勝たう勝たうの心は彼等が日常の談笑中にもちらちらとほのめいて、一歩進めば彼等が平常罵倒して居る俗骨共と一つ穴の動物になるのは猫より見て気の毒の至りである。・・・。」
*
「かう考へると急に三人の談話が面白くなくなったので、三毛子の様子でも見て来ようかと二絃琴の御師匠さんの庭ロへ廻る。」
様子が変だと思ったら、三毛子は亡くなっていた。
*
*
その(三)へ続く
0 件のコメント:
コメントを投稿