2011年3月26日土曜日

永禄3年(1560)4月~5月 桶狭間の戦い(1) 今川義元、大軍を率い進発  [信長27歳]

永禄3年(1560)
4月
・北條氏康、江戸城に出陣し、房総に軍勢を遣わす。
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・今川義元、駿河・遠江・三河3分国の街道諸宿に伝馬供出の触れ廻し、西上準備
 7ヶ条の軍令書(今川家議定書)を発し、自身が駿遠三の大軍を率いる。相当の決意を秘めた行動。
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■今川義元の出陣の目的は?
□上洛説(通説)
足利将軍家の力が衰え、「御所が絶えれば吉良がつぎ、吉良が絶えれば今川がつぐ」と、今川家に伝えられてきた将軍家継承順位に関する伝承を背景に、衰退した室町幕府を、足利家一門として立て直そうとしたという解釈。
小瀬甫庵(おぜほあん)『甫庵信長記』では、
「爰(ココ)に今川義元は、天下を切て上り、国家の邪路を正(タダサ)んとて、数万騎を率し、駿河国を打立しより、遠江・三河をも程なく切りしたがへ、恣(ホシイママ)に猛威を振ひしかば、当国智多郡、弱兵共は、豫参(ヨサン)の降人に成たりし者どもも多かりければ、信長卿よりも、鳴海近辺数箇所取出の要害を拵(コシラヘ)させ給ふ。」
「天下を切て上り」(天下に号令することが目的)との記述がある。
また、『松平記』(寛永14、5年)では、「急き尾州へ馬を出し、織田信長を誅伐し、都へ切て上らんとて、永禄三年五月、愛智郡へ発向す」と、ある。『改正三河後風土記』でも、「義元かくと聞、さらば其信長を討亡し、京都に旗押立、天下を統一せんと思い立」と、ある。
一方、『信長公記』や『三河物語』(大久保彦左衛門忠教)は、上洛説に立脚していない。
実際にも、義元は、上洛のための事前の工作(美濃の斎藤義龍、南近江の六角承禎などの通過地点の大名や、京都への政治工作)を全くしていない。
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□三河確保説
この年(永禄3年)5月8日、義元は三河守に任官する。義元にとって、三河一国完全掌握の名目的契機が出来、そのための三尾国境付近での大規模示威的軍事行動である。
今川氏の発給文書の量を見ると、東三河に比べて西三河の文書量が少ないことから、今川氏の西三河の掌握がこの時点では脆弱であったとする説。
(今川氏の東三河支配は天正15年頃から、西三河支配は天文18年頃からでしかも松平氏を通しての間接支配である、という差がある)。
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□織田方封鎖解除説
今川方が信長から奪った鳴海城に対し、信長が丹下砦・善照寺砦・中島砦の三つの付け城を築き、鳴海城を封じこめようとしたため、義元は、後詰のため出陣したという説。義元の当面の目的は、鳴海・大高城への補給と、織田方の封鎖排除である、という説。
しかし、その為だけに義元が2万5千の大軍を率いて自らが出陣するか、という疑問も残る。
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□尾張での領土拡張を狙う
前年(永禄2年)3月、信長は、岩倉城の織田信安を追放し、織田一族内の反対勢力を一掃したが、信長の尾張支配はまだ弱い状況。鳴海城・大高城は今川方にあり、北の春日井郡の品野城(瀬戸市上品野)も今川方で、知多郡にも今川氏の影響が強まり、海西都の蟹江城(愛知県海部郡蟹江町)も今川方となっている。
『信長公記』は、
「上総介信長、尾張国半国は御進退たるべき事に候へども、河内一郡は二の江の坊主服部左京進押領して御手に属さず。智多郡は駿河より乱入し、残りて二郡の内も乱世の事に侯間、慥(タシカ)に御手に随はず。此式(コノシキ)に候間、万(ヨロズ)御不如意千万なり。」と、
知多郡・海西郡(「河内一郡」)が今川領となっていることを記している。
義元が最大動員である2万5千を自ら率いた動機は織田方への侵攻、領土拡大であるという説。既に、「相甲駿三国同盟」で周囲を安定させており、今川氏の進出は尾張に向く。
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■出陣準備と今川軍団
□氏真への家督相続(分割統治)
弘治3年(1557)正月13日、前年までは義元主催の新年定例正月13日の歌会始が、氏真主催で開かれている。また、当時、駿府に滞在の山科言継の『言継卿記』同年正月四日条に、「屋形五郎殿」との記述があり、弘治3年正月には、義元から氏真への家督相続があったと推測できる。
この頃の発給文書をみると、三河・遠江には義元の文書が多く、義元は、支配が安定している駿河を氏真に任せていたと思われる。
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□動員準備はいつ頃か?
前年8月の文書に
「当国において滑皮二拾五枚、薫皮二拾五枚の事
右、来年買ふべき分、相定むるごとく、員数只今急用たるの条、非分なき様申し付くべき者也。仍(ヨ)つて件の如し
永禄二年
八月八日
大井掃部丞殿」
とある。
義元は、軍需物資である皮革の総元締め大井掃部丞に対し、来年納める予定のものを、「急用」につき、すぐ揃えよと命じている。近いうちの大動員が想定される。
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4月1日
・フランス、ミシェル・ド・ロピタル(54)、大法官(国璽尚書)に就任(1504~1573)、新旧両派の融合を図る。
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4月4日
・足利義輝、毛利元就と尼子晴久の講和を計り、元就に石見国内での戦闘を停止させる。
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4月5日
・松永久秀、河内から大和へ入り、西京を宿所とする。
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4月26日
・上杉景虎、増山城(神保良春)攻撃出陣。
28日、攻撃。神保逃亡。
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4月28日
・常陸の佐竹義昭、長尾景虎に関東出陣を依頼。
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5月
・北条氏康、里見家の上総久留里城を包囲、落とせず。 
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・箕輪城主長野業政、国峰城主小幡重貞(娘婿)の留守に乗じて不意に国峰城を乗っ取り、小幡重貞弟景純(宇多城主、同じく娘婿)を入れる。重貞は信玄を頼り、余地峠信州側大日向に5千貫を与えられる。
9月、信玄は重貞を西上州先方衆に任命、南牧村の砥沢(羽沢)砦を築き重貞を配置。
重貞は砥沢砦より上州の諸将に調略を進め、高山・多比良・天引(甘尾)等の甘楽の将を武田陣営に引き入れ内応を約させる。
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桶狭間合戦の起因
もともと鳴海城(名古屋市緑区)には信長方の山口左馬助教継が配置されていたが、左馬助は駿河に内通し、近在の大高城(緑区)・沓掛城(豊明市)も調略により陥落。
鳴海城には駿河から岡部五郎兵衛元信が新たに城主として入り、大高・沓掛にも駿河の大軍が入る。
山口父子は駿河へ召還され、切腹させられる。
鳴海城(今川方前線)は天白川河口近くにあり、東は丘陵、西に深田が広がる。
信長は鳴海城の押さえとして丹下・善照寺・中島砦(緑区)を築き、さらに鳴海・大高城間にも丸根砦・鷲津砦(緑区)を構築。
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「一、熱田より一里東、鳴海の城、山口左馬助入置かれ候。是は武篇者才覚の仁なり。既に逆心を企て、駿河衆を引入れ、ならび大高の城・沓懸の城両城も左馬助調略を以て乗取り、推並べ、三金輪(ミカナワ)に三ヶ所、何方(イズカタ)へも間は一里づゝなり。鳴海の城には駿河より岡部五郎兵衛城代として楯籠り、大高の城・沓懸の城番手の人数多大々々と入置く。・・・」(「信長公記」) 
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□この頃の織田信長の部将
林秀貞、佐久間大学(盛信)、佐久間信盛、柴田勝家などの尾張の国人クラスの出身者。
今川義元の尾張侵攻に備えて前線の5砦(鳴海・大高城の動きを封じる付け城)に守将を配置。
丹下砦:水野忠光(帯刀)、
善照寺砦:佐久間信盛、
南中島砦:梶川高秀、
丸根砦:佐久間盛重(大学)、
鷲津砦:織田秀敏(玄蕃)・飯尾近江守父子。  
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「一、鳴海の城、南は黒末の川とて入海、塩の差引き城下迄これあり。東へ谷合打続き西又深田なり。北より東へは山つゞきなり。城より廿町隔て、たんけ(丹下)と云ふ古屋しき(敷)あり。是を御取出にかまへられ、水野帯刀・・・
東に善照寺とて古跡これあり。御要害候て、佐久間右衛門・舎弟左京助をかせられ、南、中嶋とて小村あり。御取出になされ、梶川平左衛門をかせられ、
一、黒末入海の向ひに、なるみ・大だか、間を取切り、御取出二ヶ所仰付けられ、
一、丸根山には佐久間大学をかせられ、
一、鷲津山には織田玄蕃・飯尾近江守父子入れをかせられ候キ。」(「信長公記」) 
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・仏、ロモランタンの王令。宰相ミシェル・ロピタルの要請。
ローマ法王の異端糾問宗教裁判所再設要請を回避。異端審理を司教の管轄におき(宗教犯と刑事犯を分離)、高位聖職者がその責任教区に居住する義務を規定。
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5月1日
・今川義元、全軍出兵命令。
府中(駿府)城下。三河岡崎の先鋒隊合せ2万8千。鳴海・大高城への補給と、両城に対する織田方の封鎖の排除のため。
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(諸説あり)
義元にとっての急務は、鳴海・大高両城への補給と、織田方の封鎖の排除。
その過程で有利な条件で、信長主力を捕捉できれば、決戦も辞さず。
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5月5日
・信長、三河の吉良方面へ出動、所々に放火。三河国の実相寺を焼く。
桶狭間の戦いの前哨戦。
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5月6日
・家康祖母・松平清康の室の阿留(70)、没。
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5月8日
・今川義元、朝廷に三河守任官を奏請し、この日、口宣案が出る(「瑞光院記」)。
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5月10日
・今川勢先手1万(大将井伊直盛)、進発。~11日。
松平元康(19)、1千率い尾張に向けて出陣。 本多平八郎忠勝、元康馬前にて馬印を掲げ初陣。
12日、今川義元、大軍2万5千を率い駿府を進発。嫡男氏真は府中。本隊は藤枝着。先手は掛川着。
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「★織田信長インデックス」をご参照下さい。
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