明治30年(1897)満18歳
2月
初めて吉原に遊ぶ。
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□短編「祝杯」にみるその頃の様子(段落を施す)
「遂に最後の機会が到来した。
それは学校の同級会から一同尋常中学を卒業した祝賀会をかねて鎌倉へ一泊の徒歩旅行を催す回状の葉書の来た時である。
私は以前から同級生とは反目してゐる関係もあり先方でも無論私の参会を予期してはゐまい。
此方でも行った処で面白くないと思つたので、往復葉書の片ひらに直様断りの文言を書送つたが、父母に対しては問はれもせぬのに朋友の義理を説き過分な旅費を請求して、公然外泊の許可を得る事となった」
しかし、出かけたものの、さんざんな目にあったようだ。
遊客が立ち止まったりすれば、たちまち女たちに捕えられる。捕まってしまって、二人は泣き出さんばかりにうろたえる。格子の内へ引きずり込まれるが、足が震えて上履きが履けない。
気を取り直し、自分なりに全知識を総動員してどうにか対処出来たらしい。
新聞の三面記事、落語、為永春水「春色梅暦」、尾崎紅葉「伽羅枕(きゃらまくら)」、広津柳浪「今戸心中」、いつも行く理髪店の若者の体験談などなど。
こういうものに「心底から感謝」という。
「私はよくあんな不知案内の処へ出掛けられたものだと驚く。
驚き呆れるにつけて私はかゝる無類の冒険を敢てせしめた其の原動力について、更に烈しい驚きと不思議とを感じたが、それに反して生れて初めて経験した事の印象其物が、今になっては却て薄弱不明である事を怪しんだ。
従つて私はあんな事があれ程までに私の精神肉体両方を苦悩せしめたのかと思ふと、何に限らず現実の予想に伴はなかつた時経験する落胆気抜けを覚えた」
「私は凡て経験者なる得意を感じないわけに行かなかった。
すると今度は次第々々に斯る経験を与へてくれた対手に対して感謝といふやうな一種の柔い感情を覚え、もう一度折を得て其の人に近(ちかづ)いて見たいやうな心持になる。
そこで私は自然とかの醜業婦の容貌態度を回想したが、どうしても自分の望むやうにはっきり其の姿を描き出す事が出来ない。
白粉を鼻白に塗って、おそろしく大きな髷を結ひ赤いピカピカした着物をずるずる引摺つてゐた……といふだけである。
つまり一昨夜自分が始めて見て驚いた格子の中、明い燈火の光の中に動いてゐた幾多の女の其の一人であると云ふのに止って特別の個性的印象が極めて薄いのであつた。
その癖女の一挙一動些細な言語までが思ひ返すと妙に私の心を焦立せる。この心理状態は翌日又その翌日と日数のたつに従つてますます激しくなって行った。
私は懐中にまだ幾円か剰銭の残つてゐることを思返すと、矢も楯もたまらぬやうな気がした。
・・・とうとい私は大胆にも、単独に出掛ける事にした」
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■荷風は吉原に馴染み、戦後になってからも懐かしく回想する
□随筆「里の今昔」(昭和10年)
一葉「たけくらべ」、柳浪「今戸心中」、鏡花「注文帖」を引用し、そこに見られる明治時代の吉原の 「滅び行く最後の面影」を語る。
□日記「断腸亭日乗」
「二十のころより吉原通ひを覚へ通だの意気だのと云ふ事に浮身をやつすやうになり、居続けの朝も午近く、女の半纏を借りて寝間着の上に引掛け、われこそ天下一の色男と言はぬばかりの顔して京町二丁目裏の黒助湯といふに行きしこそ思返せばこれ洗湯に入りし初めなるぺけれ、吉原よりの朝かへりには池の端の揚出し三橋(ミツハシ)の忍川などいふ料理屋にて揚豆腐の煮ゆる間に一風呂あびて昨夜の移香を洗ひ流しぬ」(昭和20年3月7日)
「午後門外を歩むに耕したる水田に鳥おどしの色紙片々として風に翻るを見る。稲の種既に蒔かれしなるべし、時に白鷺一二羽貯水池の蘆間より空高く飛去れり、余の水田に白鷺を見、水流に翡翠の飛ぶを見たりしは逗子の別墅(ベツシヨ)に在りし時、また早朝吉原田圃を歩みし比(コロ)の事にして、共にこれ五十年に近きむかしなり、今年齢七十に垂(ナンナ)んとして偶然白鷺のとぶを見て年少のむかしを憶ふ」(昭和21年5月19日)
「合羽橋より電車に乗り千束町停車場に降り大鷲神社焼跡を過ぎて吉原遊廓に入る。仲の町に桜の若木を列植す。娼家は皆バラックにて店口の体裁向島の娼家と同じく喫茶店の札を掲げ娼婦各三四人路傍に立ちて通行人を呼止む。風俗良家の婦女の如く中に容貌頗好きものもあり」(昭和23年2月22日)
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3月16日
父、久一郎が文部省大臣官房会計課長の職を退く。
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3月31日
東京高等師範学校付属中学卒業
第6回卒業生(第6学年13名、第5学年23名)として中学校第5学年を卒業。
第6年に井上精一、第5学年卒業に岩崎秀弥、八田嘉明、寺内寿一らがいた。
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4月24日
父久一郎が日本郵船会社入社。
5月、上海支店支配人になり、上海へ単身赴任。
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7上旬
第一高等学校の入学試験に失敗
(「美術学校の洋画科を志望した」が容れられず、「高等学校の文科」を志望したがこれも許されず、「第二部の工科」試験を受けわざと落第したという談話(『十七八の頃』)があるが、事実は不明。
中学校を出て高等学校入学試験の準備に神田錦町の英語学校に通学し、ディッケンズの小説を読んだ。
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□『紅茶の後』の一篇「九月」
父母の間で、以下のやりとりがあったという。
(父親の一時帰国のときの模様)
(父親)「貴様見たやうな怠惰者(ナマケモノ)は駄目だ。もう学問などはよして仕舞へ。」
(母親)「何にも大学と限った事はないでせう。高等商業学校か福沢さんの学校位でもいゝぢや有りませんか。」
(父親)「お前は世間を知らんから、さう云ふ馬鹿な事を云ってゐられるのだ。会社にしろ官省にしろ、将来ずつと上の方へ行くには肩書がなければ不可(イカ)ん。子供の教育は女の論ずべき事ぢやない。」
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父親が単身赴任で不在。さんざん遊びまわったようだ。
吉原に遊び始めて、「三年を出でざるに、東廊商品、甲駅、板橋、凡そ府内の岡場所にして知らざる処なきに至る」(『桑中喜語(ソウチユウキゴ)』、大正13年、雑誌「苦楽」に発表)。
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反抗ゆえの放蕩
「僕の生涯なども全く反抗の一語に蔽はれて居る。
小説など書き初めたのが、そもそも冷静な他の学問に対する反抗からで、其れからは両親と衝突して其の望むやうな正業を求めず、今日まで独身で放浪して居るのも矢張反抗に過ぎない。
・・・反抗ほど恐しい幸福の破壊者はあるまい」(『新帰朝者日記』明治42年7月)
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8月
父久一郎が一時帰国
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9月7日
家族揃って上海に行く。神戸から乗船。
上海では、日本領事館の隣、アメリカ租界虹口北楊樹路(揚子路)第2号の社宅に住む。
父と共に西湖に遊んだり、上海県城を訪れたり、しばしば戯園にも遊ぶ。
この間、『清遊雑吟』などの漢詩を得ている。
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11月末
母・弟と帰京。
神田区一ッ橋の高等商業学校附属外国語学校清語科(9月開講)に臨時入学。
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「★永井荷風インデックス」をご参照下さい。
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