明治28年(1895)満16歳
1月
流感に罹り、腎臓を悪くして3月未まで病臥する。その為、進級不可能となり3月20日、原級に編入され第4学年を再履修することに決定。
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4月
父に伴なわれて小田原十字町の足柄病院へ転地療養のため入院。7月まで。
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7月初旬
一旦帰京するが、家人と共に逗子の別荘十七松荘で静養。
その後、医師の勧めで、長らく肝油栄養剤を常用させられる。
この頃、病床で「真書太閤記」「水滸伝」「西遊記」「演義三国志」「八犬伝」「東海道中膝栗毛」などを耽読。
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9月
1級下の中学校第4学年に復学。
校長が柔道家嘉納治五郎に代わり、柔道が盛んになっており、一層、この学校の空気になじめなくなる。
正岡子規の「日本新聞」掲載の「俳諧大要」の切抜をつくり俳句に親しむ。
実際には、落第する前の学年までは6学年卒業という制度であるが、落第した学年より5学年卒業に改められ、卒業年度は前の学友と同時になったという。
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○『十六七のころ』(昭和十年正月)
十六、七のころ、わたくしは病のために一時学業を廃したことがあつた。
もしこの事がなかつたなら、わたくしは今日のように、老に至るまで閑文字(カンモジ)を弄ぶが如き遊惰(ユウダ)の身とはならず、一家の主人(アルジ)ともなり親ともなつて、人間並の一生涯を送ることができたのかも知れない。
わたくしが十六の年の暮、といえば、丁度日清戦役の最中(モナカ)である。流行感冒に罹(カカ)つてあくる年の正月一ぱい一番町の家の一間に寝ていた。その時雑誌『太陽』の第一号をよんだ。誌上に誰やらの作った明治小説史と、紅葉山人の短篇小説『取舵』などの掲載せられていた事を記憶している。
二月になつて、もとのように神田の或中学校へ通つたが、一週間たたぬ中(ウチ)またわるくなつて、今度は三月の末まで起きられなかつた。博文館が帝国文庫という総称の下に江戸時代の稗史(ハイシ)小説の復刻をなし始めたのはその頃からであろう。
わたくしは病床で『真書太閤記』を通読し、つづいて『水滸伝』、『西遊記』、『演義三国志』のような浩澣(コウカン)な冊子をよんだことを記憶している。
・・・ 鶯の声も既に老い、そろそろ桜がさきかけるころ、わたくしはやつと病褥を出たが、医者から転地療養の勧告を受け、学年試験もそのまま打捨て、父につれられて小田原の町はずれにあつた足柄病院へ行く事になった。
・・・東京の家に帰つたのは梅雨も過ぎて庭の樹に蝉の声を聞くころであつた。
・・・わたくしは七月の初東京の家に帰つたが、間もなく学校は例年の通り暑中休暇になるので、家の人たちと共に逗子の別荘に往き九月になつて始めて学校へ出た。しかしこれまで幾年間同じ級にいた友達とは一緒になれず、一つ下の級の生徒になつたので、以前のように学業に興味を持つことが出来ない。休課の時間にもわたくしは一人運動場の片隅で丁度その頃覚え初めた漢詩や俳句を考えてばかりいるようになつた。
根岸派の新俳句が流行し始めたのは丁度その時分の事で、わたくしは『日本』新聞に連載せられた子規の『俳諧大要』の切抜を帳面に張り込み、幾度(イクタビ)となくこれを読み返して俳句を学んだ。
漢詩の作法は最初父に就(ツ)いて学んだ。
それから父の手紙を持って岩渓裳川(イワタニシヨウセン)先生の門に入り、日曜日ごとに『三体詩』の講義を聴いたのである。裳川先生はその頃文部省の官吏で市ヶ谷見附に近い四番町の裏通りに住んでおられた。玄関から縁側まで古本が高く積んであつたのと、床の間に高さ二尺ばかりの孔子の坐像と、また外に二つばかり同じような木像が置かれてあつた事を、わたくしは今でも忘れずにおぼえている。
わたくしは裳川先生が講詩の席で、始めて亡友井上唖々(イノウエアア)君を知つたのである。
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明治29年(1896)満17歳
上野音楽学校で催された音楽会で荒木古童(竹翁)の『残月の曲』を聴いて感銘、古童に弟子入りして尺八を習う。
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この頃、父の手紙を持って岩渓裳川の門を叩き、日曜日ごとに「三一体詩」の講義を聴く。
この講席で井上唖々(精一)を知り、生涯の交際を結ぶことになる。
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■井上唖々:
本名は井上精一。加賀藩士の長男。
荷風とはその軟派度でウマが合う。
この翌年、荷風が初めて吉原に行く際、遊ぶ金ほしさに家の蔵書を持ち出して金に換えたという悪友。
荷風「断腸亭日乗」昭和5年7月11日条に記された「唖々略伝」では、「殊に漢学と歴史との二科は常に教師の歎称する所なりき」といい、荷風と違って一高にも合格している。
「世に竹馬の交をよろこべるものは多かるべしといヘども、子(井上精一)とわれとの如く終生よく無頼の行動を共にしたるものは稀なるべし。
学生の頃悪少年を以て目せられしものは、儕輩の中子とわれとの二人なり。
一六七の頃には倶に漢詩を唱和し二十の頃より同じく筆を小説に染め又倶に俳諧に遊べり。
わが狎妓の窃(ヒソカ)に子と情を通じたるものあり。子の情婦にしてわれの之を奪ひしもの亦無しとせず」 (『礫川徜祥記』大正13年)
「礫川」は、荷風の生まれた場所「小石川」のこと。
満18歳の荷風が原稿『簾の月』をたずさえて広津柳娘の門をたたいたのは井上精一の勧めによるものだったし、巌谷小波の「木曜会」にはともに参加した。
小説の売り込みのため、連れ立って三宅青軒(雑誌「文番倶楽部」主筆)を訪問したり、二人で「花月」という雑誌を発行したこともある。
学も才もありながら出世栄達を望まず、大正12年、44歳で貧乏なまま陋巷に若死する。
○荷風「唖々略伝」より。
「(唖々は)二十歳の頃より当時の青年とは全く性行を異にしたる人にて名聞を欲せず成功を願はず唯酒を飲むで喜ぶのみ、酒の外には何物をも欲せざる人なり、生れながらの酒仙とも謂ふ可し」
「されば平生作る所の文章俳句の如きも世の文学雑誌に掲載することを好まず、酔後徒然の折々草稿を浄書し自ら朗読して娯しみとなすのみ」
妻と二人の子供を養うため毎夕新聞社というところで働いたが、そこでも「校正係」に甘んじる。
筆が立つことは知られていたから、社の方では「三面記者の主席」を用意するが、「月給なんぞ少なくてもかまわぬ。酒飲む暇の多く取れる閑職がいい」としてそれを断る。
○甘党、下戸と云われる荷風だが、若い頃、唖々との交友ではよく酒を飲んでいる。
「(大正七年)正月二日。…‥午に至って空晴る。蝋梅の花を裁り、雑司谷に往き、先考の墓前に供ふ。音羽の街路泥濘最甚し。
夜九穂子(唖々の別名)来訪。断腸亭屠蘇の用意なければ倶に牛門の旗事に往きて春酒を酌む。されど先考の忌日なればさすがに賎妓と戯るゝ心も出でず、早く家に帰る」
「(同年)十月五日。……浅利河岸を歩み築地に出で桜木に至りて飲む。唖々子暴飲泥酔例によって例の如し」
「(大正十年)十二月廿三日。曇りて寒し。晩間九穂子と歳晩の銀座を歩む。
九穂子二十年来の痲疾、膏盲(ママ)に入り小水通ぜず、顔色惟惇せり。
然れども猶医師の治療を受けず、友人の忠告を聴かず、唯酒を飲む。
奇行もこゝに至つて見るに忍びざるものあり」
「(大正十二年)五月九日。……毎夕新聞社に唖々子を訪ふ。
その後健康次第に頽廃せしものゝ如く顔色憔悴し、歩行も難義らしく、散歩に誘ひしが辞して其家に帰れり」
そして、この2ヶ月後、唖々は没している。
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「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
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