2011年3月14日月曜日

永井荷風年譜(3) 明治26年(1893)14歳~明治27年(1894)満15歳 寺内寿一らによるイジメにあう 初恋とペンネーム(創作の初め)

明治26年(1893)14歳
1月25日
父久一郎、文部省大臣官房会計課長となる。
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4月
尋常中学科第3学年に進む。
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11月22日
父久一郎、金富町45番地の土地家屋を売却し、麹町区飯田町3丁目(2丁目2番地とも)黐(もち)ノ木坂下((現:千代田区飯田橋1丁目と九段北3丁目の境辺り))の借家に移転。
(この時の移転先はコチラ)
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12月
「枕山先生遺稿」が上梓される。
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■荷風、寺内寿一らにイジメられる。でも、仕返しはしっかり
荷風の進学した神田一ツ橋の東京高等師範学校(のちの東京教育大学、現在の筑波大学の前身)付属中学は上流階級の子弟が入学する名門学校。
同窓生には、
岩崎小弥太(のち三菱財閥当主)、八田嘉明(のち鉄道大臣、拓大総長)、波多野精一(のち宗教哲学者、玉川大学長)、寺内寿一(のち陸軍大臣、元帥)
らがいた。
軟弱な荷風はかなりいじめられたようだ。
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その頃の回想(「荷風思出草」昭和30年)

相磯(凌霜) このあいだ、毎日新聞に出たんですがね、先生の当時の中学の同窓ね、八田嘉明とかそういう人たちが集まって話をしたとき、先生の話もいろいろ出たらしく、その時の話に、何かその連中が七、八人、中学でも乱暴なやつで……。

永井 軍人の寺内(故寺内寿一元帥)なんかも同じ級だった。

相磯 先生は中学生の時分から他の中学生と違ってハイカラだった。
(笑)頭髪なんか伸ばして--今じゃ当り前ですがね、それで洋服なんかも、きれいなのを着ていてしゃれていた。そこで『生意気だ』といって腕白連中が、先生をどこかへ連れていって、頭髪をジョキジョキ切つちやったうえに、ぶったかなんかしたらしい。
(笑)先生はその時は抵抗しないで黙っていて、済んじゃつたあと、なぐつた連中の家を一軒、一軒まわって歩き、その親たちへ『君の家の息子がおれをこんなにした、いつかひとり、ひとりの時にやっつけてやるから、その時になって親が苦情をいうな』といつたというんだ。それで親たちがみんなあやまる。
帰ってきた腕白連中は親からうんとしかられ、あの時は、完全に先生にやられたと、その当時の人たちが集まって話したというのです。
先生、そんなことがあったんですか。

永井 そんなこともありましたよ。
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■少年の頃は背が低かった
荷風は残された写真を見ても背が高い人である。
「日和下駄」(大正3年、満34歳)にも、「人並(ひとなみ)はづれて丈が高い上にわたしはいつも……」とある。
しかし、10代の初め、中学校に入った頃までは小さかったという。
「断腸宇日乗」昭和15年11月24日条では、小さな文字で
「明治二十六七年なるべし」「余は其頃級中にて尤(もっとも)身長低き生徒なりし故机は一番別の方に在りしなり」
と書いてある。
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明治27年(1894)満15歳
4月
尋常中学科第4学年に進む。
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10月
麹町区一番町42番地(現、九段南2丁目)の借家に移転。
(この時の移転先はコチラ)
二松学舎の裏側にある、銀杏の老樹の茂る広い屋敷で、靖国神社宮司今村氏の持家。
この頃、岡守節について書を学ぶ。
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この年、病気により一時休学。
療養中に「水滸伝」「八犬伝」「東海道中膝栗毛」などの伝奇小説や江戸戯作文学に読み耽る。
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「もしこの事がなかったら、わたくしは今日のように、老に至るまで閑文字を弄ぶが如き遊惰の身とはならず、一家の主人ともなり親ともなって、人間並の一生涯を送ることができたのかもしれない。」(「十六、七」のころ」。
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年末
瘰癧(ルイレキ)の手術を受けるために下谷の帝国大学第二病院に入院。
お蓮という名の看護婦に想いを寄せる。その名から、「蓮」と「荷」がいずれも「はす」の同義語なので「荷風」という号を得る。
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■荷風の初恋とペンネーム(創作の初め)
「尋常中学の二三年級の頃、下谷の第二病院に入院した時、一人の看護婦を見染めた。
自分が女性に対して特別の感情を経験したのは、此れがそもそもの始めである。退院した後、小説をかいた。(これも余の小説の処女作である)
小説には、是非雅号を署名せねばならぬと思って、其の暗いろいろ考へた。
看護婦の名が 『お蓮』と云ふので、其れに近いものをと考へた末に、荷風小史と云ふ字を得た」
 (「雅号について」明治41年)
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「荷」は「蓮」と同じ意味を持つ。
俳句の世界では「荷」をハスとして、秋の季語の「やれはす」(葉の破れたハス)は、漢字で「敗荷」(または「破れ蓮」)と書かれる。

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小説「歓楽」(明治42年)による荷風の初恋と処女小説

・・・人は幾度(イクタビ)も恋する事が出来るだらうか。
唯(タツ)た一度しか出来ないと、女性は必ず云ひ張るに違ひない。男でも古臭いロマンチックな夢から覚めないものは、矢張り同じやうな事を云ふかも知れない。
誰でも恋に熟してゐる最中にはそれが生涯の恋の最初最終であるらしく感ずるのは当然の事で。
もし其の恋に成功してしまった後、一生涯それ以上熱烈な感激を覚えずにしまったなら、…(中略)…我輩は一度しか恋しなかった人を単純に幸福だと云ふばかりだ。
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十六歳の時、腺病質の母から遺伝された瘰癧を治僚する為めに、大学の第二病院に入院して外科の手術を受けた事があるが、私は日夜病床に付添ふ看護婦に対して、此れまで父母の傍に生きてゐた時覚えた事のない感情を知り初めた。
私は直ちに読書から得た想像で、此の新奇な感情が恋と云ふものである事を意識すると、私は苦しいほどに嬉しく思つたと同時に、恋は必ず不幸で悲惨であるやうに書いてある読書の経験から、云ふに云はれぬ悲愁に襲はれた。
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(そして、幾夜も眠らなかったほど煩悶したあと)
とうとう其の看護婦に対しては、自分の心中を打明け得ずに退院してしまった。
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打明けたなら必ず拒絶されるのみならず、私の付添ひを辞退して、私の傍から去つてしまふであらう。それよりは寧ろ沈黙して、独り永久に片息の涙に暮れた方がと思つたのであった。
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(しかし)
退院する間際には必死の思ひで写真だけを賞ひ受け・・・
(退院後は、その写真を自室の本箱の上に飾った。
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家へ帰つて再び通学し初めたけれど、過ぎた昨日までの事を思返すと、恋しくて恋しくてどうかして最一度入院するやうな病気になりたいと思ひ詰め、最早や普通の学生のやうに、学期試験の席順を争ふ野心も、運動会で勝利を博する元気も無くなつてしまった。
私は学校の帰り道とか日曜日とか暇さへあれば、病院の塀外を歩き廻つて植込みの梢越しに見える陰鬱な建物の窓から、もしや其の人の顔を見る事もやとか、る思ひにばかり月日を送つたりする中、其の年の秋、帝国大学の運動会で私は雑沓する見物人の中から朋輩の看護裾に逢ひ、私の恋してゐる人は一ケ月ほど前に郷里へ帰って結婚した由を聞き伝へた
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私はその時不思議な程驚かなかった。
話された事件は、初めから斯くあるべく予想してゐた通りになつたやう、如何にも自然であるらしく思はれた。
すると忽ち私は、聞える軍楽隊の勇しい進行曲や、赤白と叫び狂ふ人の声、ぢりぢり照りつける暑い秋の日光が、一瞬間も我慢の出来ぬ程に辛く感じられて、もつと静な、薄暗い、湿気ある、冷い場所に身をかくしたく、運動場の岡の裏手、深い木立の奥なる古池(#)の方へと歩いて、私は物すごく沈静した溜り水をば黙つて眺めた。
それから日の暮れると共に家へ帰つて、ランプをつけながら部屋へはいつたが、すると、今更のやうに新しく目についたのは、本箱の上に立てかけた彼の人の写真である。いつものやうに私の勉強する机の方を見詰めてゐる。
私は幾度か小声で其の名を呼んだばかりかもう堪へられぬ心地がして、私はこれまでの悶え、歓び、悲しみのありたけを書き綴って送らうと思ひ、すぐ其の瞬間から、私は翌日の課業も何も彼も放擲して、入院した当時の初対面の事から出来るだけ精密に書きはじめ、其の夜は二時まで筆を執った
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私は其の冬の休暇中、何やら今では忘れて仕舞つたが、兎に角恋の悩みを描いた新刊小説を読むと、自分も急にさう云ふ事が書いて見たく、書いたなら幾分か心の慰めになるだらうと思つて、私は秘(シマ)つて置いた手紙を再読し、自分を主人公にした短い小説を作った。これがそもそも私の小説の処女作である
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(#)「古池」:
もとは心字池と呼ばれていた「三四郎池」のこと。
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この初恋を契機に仕上げたのが「春の恨み」という処女作。
荷風の弟子(荷風が慶應大学教授時代の学生)永上滝太郎によると、
たまたま授業前の誰もいないときに、荷風の処女作について聞く機会があり、それによれば、最初の試作「春の恨み」は「『梅暦』を真似して書いた七五調」の作品だったという。
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「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい
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