2011年3月6日日曜日

永禄2年(1559)8月~9月 将軍義輝の新城建設 松永久秀、大和支配を任される  [信長26歳]

永禄2年(1559)8月3日
・将軍義輝、武衛の邸宅跡地に新城建設を始める。この日、立柱式。1560年(永禄3)新邸に移る。
10月半ば、「対面所」作事進行、
12月中旬には他の建物の工事や庭の工作(「言継卿記」)。
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武衛斯波氏邸宅跡、義輝邸跡の石碑はコチラ
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武衛斯波氏邸宅跡は、下立売通・椹木町通・室町通・烏丸通の一町四方にあり、義輝の新城はそこに建設される。
最終期には、北は出水(通近衛大路)、南は椹木町通南或は丸太町通北、東は烏丸通を越え、西は室町通に広がっている。
四方は、堀や石垣に囲まれている(堀は少なくとも二重、南北・東西共に長さ2町)。
御城と呼ばれるにふさわしい状態になったのは永禄7年冬(義輝時代の末期)以降で、従来の将軍御所の常使施設の他、二重の堀や石垣、土居などの要害を構える(別にこの御城を二条御所ともいう)。
この場所には、義輝の幼児期を過ごした公方別邸があり、また義輝の母慶壽院は近衛尚通娘、義輝妻も近衛稙家娘で、近衛殿の隣のこの場所が選ばれたと推察できる。
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「武衛」は、兵衛佐を官名にもつ者のことで、足利尊氏が管領斯波義将に与えたもの。
義将は、1342~45年、現室町通下立売下ル一帯に邸宅を構え、邸宅は武衛陣といわれる
(現在も「武衛陣町」の名は残っている)。
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8月4日
・三好長慶、河内守護代安見直政を河内高屋城から追放し飯盛城に奔らせ、紀伊の畠山高政を高屋城に迎える。また、細川氏綱らに淀城を守らせる(「細川両家記」)。
久秀に安見らの追討を命じる。
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8月6日
・松永久秀、筒井城に筒井藤勝(順慶)と戦い、これを破る。藤勝は椿尾上城へ逃れる。
8日、久秀は、かつての木沢長政の居城信貴山城を改修し入城、本拠とする。
10日、三好勢と共に大和に侵入、筒井・十市・万歳氏らを追う。筒井城(筒井藤勝)攻撃。春日大社劫略。
これにより松永久秀は、大和支配任される。三好長慶の勢力は河内・大和に浸透。    
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安見直政らの大和逃亡は、三好側に大和侵入の口実を与える結果となる。
長慶は松永久秀に伊丹親興を添えて安見直政追討に向かわせる。
直政らは大和に入ったまま消息を断つが、久秀は残党狩りと称して河内・大和国境付近に居座り、この日、信貴山城(奈良県平群郡信景山、かつて木沢長政の属城)を修築して滝山城より移る。
大和は、鎌倉以来守護不設置として武家支配を拒否してきた唯一の国であり、久秀の任務は困難なものであるが、これ以降、三好政権内で急速な松永氏の台頭が目立ってくる。
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河内は、高政を扶けて紀伊から警固してきた湯川直光が守護代に任ぜられる。
湯川氏は、紀伊の国人、将軍家奉公衆の家柄で、戦国期は南紀で最有力の豪族となり、日高川下流域に進出し、御坊付近に城郭を構えていたという。
湯川直光の河内支配は円滑に行かず、畠山の被官らは直光を「紀伊の山猿」「田舎武士」と嘲罵し、かえって遊佐・安見の頃がよかったと公然とうそぶく有様となる。
永禄3年初め、高政は、直光を自分の猶子として庶流の畠山宮内少輔の家を継がせ、体よく紀伊へ追い返し、直政を呼び戻し、守護代に還補する。
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8月14日
・松永久秀、万歳へ出陣、二上山へ本陣を置き高尾を焼き払う。
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8月17日
・幕府、三好長慶が京都鞍馬寺に用木を徴集することを停止する。
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8月17日
・松永久秀、大和国法隆寺へ境内防御の旨を安堵。
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8月18日
・教皇パウルス4世(83)、没(位1555~1559)。
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8月21日
・今川義元、朝比奈筑前守に命じて尾張大高城を守らせる。
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8月25日
・毛利軍、川本温湯城(ぬくゆじょう)・小笠原長雄(ながたか)を攻撃、降伏。傘下におさめる。
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9月
・大友義鎮、門司城奪回のため、毛利と同盟を結ぶ宗像氏を討つため許斐城に立花鑑載ら差し向ける。許斐城守備の占部尚安は撤退。宗像氏貞も居城の白山城を捨て大鳥に逃れる。
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・リヴォニア騎士団長ゴットハルト・ケラー、ポーランド(国王ジグムント・アウグスト)と対ロシア(イヴァン雷帝)保護条約締結。
このため、ロシアは一旦リヴォニアと休戦協定締結するが、これを無視して再度リヴォニアへ侵入。
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9月8日
・山科言継、前年武田信玄に依頼された「源氏物語 薄雲」の書写が出来たので送付(「言継卿記」6)。
9月19日
・近江の六角義賢、高野瀬秀澄を肥田城に水攻めする。
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9月22日
・松永久秀、福住へ出陣、田原郷を焼き払う。
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9月24日
・スペイン王フェリペ2世、メキシコ副王ヴェラスコにフィリッピン征服・植民地化を命令。
メキシコ副王領としてのフィリピンの征服事業が始まる。  
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9月25日
・武田晴信、善光寺阿弥陀如来像を甲府に移す。
10月3日、甲府東郊に新善光寺佐久事開始。
永禄3年2月16日、完成、入仏式施行。  
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9月26日
・大友義鎮、田原親宏に命じ毛利氏に奪われれた門司城奪回を目指して攻めるが、小早川隆景の救援により敗れる。
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「★織田信長インデックス」 をご参照下さい。
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