2014年1月13日月曜日

天喜4年(1056)10月~天喜5年(1057)9月 源頼義、陸奥守に還任 頼義、再び安倍頼時追討宣旨を要請

北の丸公園 2014-01-10
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天喜4年(1056)
10月6日
・ハインリッヒ3世(38、黒王)、ハルツの王宮ボートフェルトで没(位1039~1056)。
ハインリッヒ4世(6)、ドイツ国王即位。
母アグネスが摂政(アキテーヌのポワトゥー伯ギョーム娘、摂政在位~1062)。
教皇ヴィクトル2世(王国前官房長)の権威ある処理により、ハインリヒ4世への支配移行と母アグネスの摂政体制が実現。

ロートリンゲンとその周辺の和解の樹立(ゴットフリート(髭)と平和締結。
フランドル伯父子に帝国フランドルとエノー伯領を授封)。
空席の司教座・修道院長に信頼できる有能な聖職者を任命(マインツ大司教ジークフリート、ザルツブルク大司教ベープハルト。聖界諸侯が宮廷顧問団となり世俗有力者は宮廷から遠ざかる)。
帝妃アグネス周辺では「王国ミステリアーレン」が重用(ハインリヒ4世の教育係・召使い等の下層出身者が宮廷で力を発揮、古い有力貴族は摂政アグネスに反感を強める)。
アグネス、有力貴族に王国官職と所領を授与
(1057年シュヴァーベン大公ルードルフ・フォン・ラインフェルデン任命、ブルグンド王国統治も委ねる。
1061年バイエルン大公オットー・フォン・ノルトハイム任命(ザクセンの有力者)。
1061年ケルンテン大公ベルトルト・フォン・ツェーリンゲン任命)。

ゴッフレード(ゴットフレート)、ドイツに駆けつけ、新帝ハインリヒ4世への臣従の代償にトスカナとロレーヌの領有権を承認させ、妻子(ベアトリーチェとマティルデ)を救出、トスカナに帰国。
皇帝直轄都市フィレンツェを襲い、厳しい懲罰を与え、再びイタリア王への野望を実行し始める。
1057年、実兄を新教皇に擁立(教皇ステファネス9世)し「イタリア王」戴冠を実現しようとしたが、教皇ステファネス9世が即位後1年内に没、野望水泡に帰す。
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10月25日
・若狭における東大寺の雑掌秦成安、東大寺御封の天喜1、2年の納入状況につき報告。
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12月28日
・僧念慶、若狭の去年御封米代として手作布35段を東大寺に進上。
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12月29日
・源頼義、陸奥守に還任される。
頼義の後任の陸奥守藤原良綱(よしつな)は合戦に怖じ気づいて赴任することを拒み、頼義が陸奥守に重任された。
頼時挑発の目的は達せられたが、泥沼の長期戦、凄惨きわまりない殺戮戦へとエスカレートしていく。
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天喜5年(1057)
この年
・この頃、ロゲリウス1世(ロジェ1世、26、1031~1101、位1072~1101)、南イタリアに到着。
ロゲリウス(ラテン語):
ロジェール、イタリア語でルッジェーロ。オートヴィル家末弟、後、南イタリア最大の実力者となる。
ロベール・ギスカールが兄ドゥロゴを頼ったように、ロゲリウスも長兄ロベールを頼り、カラブリア征服を手伝う。
ロベールはロゲリウスを脅威に感じ、恩賞も与えず放逐、ロゲリウスは同じ兄ギョームの許に身を寄せる。
1060年ロゲリウスはビザンツ帝国によるカラブリア支配を終らせる。
この後、ロゲリウスはエブリュー伯の娘ユーディトと結婚
(エヴリュー伯:ノルマンディー公ウィリアム庶子公の血縁で、ユーディトの異父兄のサン・テヴルール修道院長ロベール・メスニルがウィリアム征服王と不和になり、ユーディトは彼と共に南イタリアに亡命)。
後、シチリア征服を目指す。
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・年初、アプーリア公フンフレドゥス、没(オンフロワ、ハンフリート、位1051~1057、オートヴィル家)。
8月、弟ロベール・ギスカール(42)、即位(1015~1085、位1057~1085)、アプーリア(反抗家臣を力でねじ伏せ)とカラーブリア(弟ロゲリウス1世と共に征服活動継続)を支配。
アプーリア、トラーニ伯ペトルス(「1043年のメルフィの12人の首領」の1人)の反乱。
ロベール・ギスカールの権威を拒否し、メルフィを占領。
ロベール・ギスカール、アプーリアに戻り弟ロゲリウス1世の援助を得て反乱を鎮圧。
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・教皇ウィクトル2世、没(位1055~1057、シュヴァーベン出身)。
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・教皇ステファヌス9世、没(即位後数ヶ月、位1057)。
教皇選挙手続が復活。
皇帝には同意懇請のみ。久しぶりに皇帝でなく聖職者・民衆が教皇を選出。
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・ペトルス・ダミアニ(51)、オスティア司教枢機卿に任命(1006~1072)。
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・ドイツ、摂政アグネス、シュヴァーベン大公にルードルフ(ルドルフ)・フォン・ラインフェルデンを任命、同時にブルグンド王国統治も委ねる(対立国王1077~1080、ハインリヒ4世姉の夫)。
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・フランス王アンリ1世、ルマンディ公ウィリアムとの和約破棄。
マーテル伯(アンジュウ)との連合軍とノルマンディ侵略。
ウィリアム公、ヴァラヴィールの戦いに、フランス王軍を破る
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・イングランド、マーシア伯レオフリック、没。息子エルフガル、相続。
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・イングランド、エドマンド剛勇王息子エドワード、40年ぶりに息子エドガ・アセリングと共にハンガリ宮廷より帰国、間もなく、没(1017年カヌート即位時にハンガリ王イシュトヴァーンの許に亡命、40年間)。
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・カスティーリャ王兼レオン王フェルナンド1世(カスティーリャ王1035~1065、レオン王1037~1065)、ラメゴを攻略・併合。
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7月
・この月、源頼義は政府に再び安倍頼時追討宣旨を要請。
坂東武士を帰国させており、折からの飢饉や安倍軍のゲリラ戦により窮地に陥った頼義は、下北半島の夷狄の主で頼時と同族の安倍富忠(とみただ)に協力を求めた。
それを知った頼時は、頼義への加勢を思い止まらせようと僅かの手勢で富忠のもとに赴こうとして、富忠の伏兵の流れ矢に当たり、三男宗任の守る鳥海柵(とりみのさく)に帰って没す。
貞任・宗任・経清ら頼時の子息・女婿たちは、奥六郡の入口、衣川関を閉ざして頼義に抗戦する構えを示し、長期戦となる。

ここで頼義は本格的な安倍氏の追討以前に、奥六郡より更に奥の糠部(ぬかのぶ)の俘囚を「甘言」で誘い、官軍による安倍氏側の攻略を指示する。
気仙郡司の金為時(こがねのためとき)や下毛野興重(しもつけのおきしげ)を使者として、いわば北方からの挟撃作戦を実行。
金為時は『十訓抄』(巻六)に貞任の舅とみえている人物で、安倍氏とは広く血縁にあたったわけで、これまた同氏のネットワークの広さがわかる。と同時に、頼義は官職(公権)によるクサビでこれを分断しようとした。
銫屋(かなや)・仁土呂志(にとろし、ともに糠部地方)・宇曾利(下北半島)三郡の蝦夷が追討宣旨に従ったが、これを察知した頼時は兵2千を率い出向いた。

頼義の「甘言」の内容は不明だが、北方三郡の蝦夷が安倍富忠に率いられたこと、頼義がかれらを説得しようとしたことを考慮すれば、奥六郡の統括権を与えられていた安倍氏には、北方蝦夷との交易などを介しての交流も予想できるはずだ。
頼義の「甘言」の中身には、安倍氏が保持していた諸権限の委譲もふくまれていた可能性もあろう。安倍富忠なる人物も頼時とは遠くない血縁関係と思われる。

・この年、源義家、陸奥に出陣、頼義軍に合流。源義家、常陸太田の勝楽寺に投宿。
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8月1日
・定朝、没。法橋の位を授けられた寄木造の仏師。
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8月4日
・寅刻、東方に彗星。
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8月15日
・前スコットランド王ダンカン1世息子マルコム・カンモー(後のマルコム3世)、アバディーン西ランファナンの戦いでスコットランド王マクベス(52、位1040~1057、17代、ケニス2世孫)を討つ。
ルーラハ(25、マクベス継子、ケニス3世曽孫、1032~1058、位1057~1058、18代)、即位。
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9月
・源頼義は安倍頼時追討の成功を政府に報告し、重ねて貞任追討官符を要請。
政府は9月、頼時歿の実否確認のために官使を派遣すること、追討官符を下すことを決めたが、恩賞については保留となった。
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