2015年9月7日月曜日

【増補改定版】 大正12年(1923)9月3日(その1) 軍隊配備と自警団 警視庁は軌道修正を始めた / 上野公園〔東京都台東区〕 流されやすい人 / 東大島(東京都江東区・江戸川区) 中国人はなぜ殺されたのか(殺された中国人の数は300人以上と見られる)   

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大正12年(1923)9月3日

軍隊配備と自警団
 2~3日、陸軍は東京地区への配備を完了、3~4日、孤立していた横浜地区にも海陸両路から警備隊が到着。
3日、宇都宮の第14師団が来援、地方師団からの派遣部隊も続々到着。
3日、戒厳令の施行区域が東京府と神奈川県に拡大され、関東戒厳司令部が新設、福田雅太郎が関東戒厳司令官に任命され、阿部信行参謀本部総務部長ら中央部の軍人が幕僚となる。
4日、埼玉・千葉両県も戒厳地区に含められ、10日迄に出動した総兵力は、歩兵57大隊・騎兵22中隊・砲兵34中隊・工兵47中隊・鉄道14中隊・電信13中隊、内地全師団の衛生機関など、兵員約5万に達す。

 朝鮮人暴動の流言が広がると、各地で青年団・在郷軍人会・消防組などを中心に自警団が作られ、刀、竹槍、棍棒、鳶月、鎌などで武装し、要所要所に検問所をつくって通行人を訊問。
顔つきが朝鮮人らしいとか、言葉が不明瞭だとか怪しいとなると、半死半生の目にあわせたり、殺害したりする。演劇ずきの学生伊藤国夫は、2日晩、千駄ヶ谷の自宅付近を警戒中、朝鮮人と間違えられこづかれるが、顔見知りの酒屋の若い衆が来合わせて危うく助かる。戒厳令で出動した軍隊も、江東方面では朝鮮人を「敵」として殺害。中学生清水幾太郎は本所で焼け出され、千葉県市川国府台の兵舎に避難中、夜、大勢の兵隊が銃剣の血を洗い、得意気に朝鮮人を殺してきたというのに驚いたと回想。

 いったんは流言にお墨付きを与えた警視庁も、2日夜、あるいは翌3日には朝鮮人暴動の実在を疑い始める。いくら調べても流言を裏づけるものが何も出てこないのである。

警視庁は軌道修正を始めた
 3日、警察当局は、朝鮮人来襲はデマで、個々の暴行も概ね疑わしいと判明。そのうえ自警団の行動が過激に走り交通の自由が失われ、各地に混乱が起り、警官・軍人に対する暴行事件が起り、自警団取締まりの必要が生じる。
警視庁では、「昨日来一部不逞鮮人の妄動ありたるも今や厳重なる警戒に依ってその跡を絶」ったとし、「鮮人の大部分は順良な者であるからみだりに迫害するな」と命令し、自警団の武器携帯を禁止。
しかしこの布告は、朝鮮人一部の妄動を認めた不徹底なものであり、民衆の動揺を鎮めることはできず、その後も、朝鮮人に対する迫害は続く。政府がこうした不徹底さは、民衆の憎悪を朝鮮人
に向けたままで、秩序を建て直そうとしたためである。

 3日4時30分、海軍省船橋送信所大森所長は、前日の後藤警保局長の電報や近くの船橋、中山、八幡など各村で乱打される警鐘が聞こえ、爆弾を手にした朝鮮人を格闘の末逮捕したなどの情報が乱れ飛び、送信所への朝鮮人襲撃は必至と判断し、恐怖のあまり「船橋送信所襲撃ノオソレアリ至急救援頼ム。騎兵一個小隊応援ニ来ルハズナルモ、未夕来ラズ」という悲痛な電報を発信。
午後7時30分、習志野騎兵学校から特務曹長の指揮で騎兵1個小隊20名が到着、小隊長は、本日午前朝鮮人20名が騎兵学校の薬庫に襲来したが、歩哨が急を告げ無事であった、朝鮮人が所沢航空隊附近の村を焼打ちした、と報告。

 船橋送信所は一層不安を感じて、翌4日午前8時10分、「本所(送信所)襲撃ノ目的ヲ以テ襲来セル不逞団接近、騎兵二十、青年団、消防隊等ニテ警戒中、右ノ兵員ニテハ到底防禦不可能ニ付約百五十ノ歩兵急派方取計イ度ク、当方面ノ陸軍ニハ右以上出兵ノ余力ナシ」という危急電を発信。
船橋送信所が独断で発したこれらの電文は、全国各地の無線電信所で受信され、東京とその附近一帯が朝鮮人暴徒によって大混乱をしていると判断された。


3日(月曜日)午前 上野公園〔東京都台東区〕 流されやすい人
 私がちょうど公園の出口の広場に出た時であった。群集は棒切などを振りかざして、ケンカでもあるかのような塩梅である。得物を持たぬ人は道端の棒切を拾ってきて振り回している。近づいて見ると、ひとりの肥えた浴衣を着た男を大勢の人達が殺せ、と言ってなぐっているのであった。
 群集の口から朝鮮人だと云う声が聞えた。巡査に渡さずにになぐり殺してしまえ、という激昂した声も聞こえた。肥えた男は泣きながら何か言ってる。棒は彼の頭といわず顔といわず当るのであった。
 こやつが爆弾を投げたり、毒薬を井戸に投じたりするのだをと思うと、私もつい怒気があふれて来た。我々は常に鮮人だと思って、憫(あわれ)みの心で迎えているのに、この変災を機会に不逞のたくらみをするというのは、いわゆる人間の道をわきまえないものである。この如きはよろしくこの場合血祭りにすべきものである。巡査に引き渡さずになぐり殺せという声はこの際痛快な響きを与えた。私も握り太のステッキで一ツ喰はしてやろうと思って駆け寄っていった。
染川藍泉『震災日誌』日本評論社。

 しかし、万が一自分が朝鮮人に間違えられたら危ない、などと迷っている間に兵上が現れて、浴衣の男は連行されていった。
「私は自分の今のすさみ切った心に、彼奴がなぐり殺されなかったのを惜しいように思った」

 染川藍泉は十五銀行本店の庶務課長で43歳。本名は春彦。震災では日暮里の自宅にも家族にも被害はなく、9月中は銀行業務の復旧のために一日も休まず精勤していた。
染川は「朝鮮人が爆弾を投げている」といった流言を最初から信じていたわけではなく、前日(2日)の昼間までは、そうした噂に振り回される「愚かな人」を軽蔑していた。

 ところがその夜、避難先の線路脇で「井戸の中に劇薬が入れてあるというから、諸君気をつけろよう」という青年団の声が闇の中に響くのを聞くうちに、不安が膨らんでくる。
「私は弾かれたように眠りから醒めた。そして考えた。これは路傍の無智を人たちのうわさではない」
「青年団が広めるからには何か証拠があってのことに違いない」
「さすれば私の宅の井戸も実に危険千万である」

 こうして翌日朝、暴行される朝鮮人らしき男を目の当たりにしたとき、彼の心には「毒薬を井戸に投じたりする」朝鮮人への怒りがあふれたというわけなのである。
当時、上野公園には多くの避難民が流れ込み、混乱を極めていた。

 作家の佐藤春夫(1892~1964)も、町会で自警団として動員され、いもしない敵におびえて深夜の上野公園で右往左往した経験を記している。

 染川は、上野公園の事件の後しばらくすると冷静さを取り戻し、「朝鮮人暴動」を再び否定してみせている。
「あまりに話がうがちすぎている。…うろたえるにも事を欠いて、憫(あわれ)んで善導せねばならぬ鮮人を、理非も言わせず叩き殺すということは、日本人もあまりに狭量すぎる。今少し落ち着いて考えて見て欲しいと私は思った」

 染川の『震災日誌』中には、「(十五銀行)深川支店の前には鮮人が三人殺されて居った。電柱に括り付けられて日本刀で切られて居った。それは山下支店長が実際を見て来ての話であった」という記述もある。

渋谷警察署
 然れども民衆は固く鮮人の暴行を信じて疑はず、遂に良民と鮮人と誤解して世田谷附近において銃殺するの惨劇を演ずるに至り騒擾ようやくはなはだしく、流言また次第に拡大せられ、同3日には「鮮人等毒薬を井戸に投じたり」と云ひ、果ては「中渋谷某の井戸に毒薬を投ぜり」とて之を告訴するものありたれども就きて之を検するにまた事実にあらず…自警団の警戒また激越とまり、戒凶器を携へて所在に徘徊し…挙動不審と認められるものはただちに迫害せらるるなど粗暴の行為少なからず。

(世田谷の殺人事件:司法省の報告書。日時‥9日2日午後後5時。場所‥(東京)府下世田ケ谷町大字太子堂425附近道路。犯人氏名‥小林降三。被告者氏名‥鮮人(氏名不詳)。罪名‥殺人。犯罪事実‥猟銃を以て頭部を撃ち殺害す)

3日午後3時 東大島(東京都江東区・江戸川区) 中国人はなぜ殺されたのか

時日:9月3日午後3時ごろ
場所:大島町8丁目
軍隊関係者:野重(野戦重砲兵)1連隊・第2中隊岩波清貞少尉以下69人及び騎兵14連隊三浦孝三少尉以下11人
兵器使用者:騎14の兵卒3人
被兵器使用者:鮮人約200人
概況:殴打
記事:
 大島町付近の人民が鮮人より危害を受けんとする際、救援隊として野重一の二岩波少尉来着し騎14の三浦少尉とたまたま会合し共に朝鮮人を包囲せんとするに群衆および警官4、50名約200名の鮮入団を率ゐ来り其の始末協議中騎兵卒3名が鮮人首領3名を銃把を以て殴打せるを動機とし鮮人は群衆および警官と争闘を起し軍隊は之を防止せんとしが鮮人は全部殺害せられたり
備考‥①②(略)。③本鮮人団、支那労働者なりとの説あるも、軍隊側は鮮人と確認し居たるものなり
『関東戒厳司令部詳報』「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル事件調査表」

 目下東京地方にある支那人は約4500名にして内2000名は労働者なるところ、9月3日大島町7丁目に於て鮮人放火嫌疑に関連して支那人及朝鮮人300名ないし400名3回にわたり銃殺又は撲殺せられたり。

第1回は同日朝、軍隊に於て青年団より引渡しを受けたる2名の支那人を銃殺し、第2回は午後1時頃軍隊及自警団(青年団及在榔軍人団等)に於て約200名を銃殺又は撲殺、第3回には午後4時頃約100名を同様殺害せり。

右支鮮人の死体は4日まで何等処理せられず、警視庁に於ては野戦重砲兵第3旅団長金子直少将及戒厳司令部参謀長に対し、右死体処理方及同地残余の200名をいし300名の支那人保護方を要請し、とりあえず鴻の台(国府台)兵営に於て集団的保護ををす手はずとなりたり。

 本事件発生の動機原因等につきては目下の所不明をるも支那人及朝鮮人にして放火等ををせる明確なる事実なく、ただ鮮人につきては爆弾所持等の事例発見せられ居るのみ。
警視庁広瀬外事課長直話(1923年9月6日)

 この事件については、直後から日本人、中国人による調査が進められている。さらに戦後の研究(目撃証人や軍人の聞き取りなどを含む)もあり、「何が起きたのか」自体はかなり分かっている。

 現場となった南葛飾郡大島町(現・江東区)は東京市に接し、工場などで働く中国人労働者千数百人が、60数軒の宿舎に集住していた。
9月3日朝、大鳥町8丁目の日本人住民は今日は外に出るなと伝えられていた。伝えてまわったのは在郷軍人会か消防団のようだ。

 そうして朝のうちに、銃剣を構えた兵士2人が、大島町6丁目の宿舎から中国人労働者たちを引き立てて行った。その前後、8丁目の空き地で2人の労働者が射殺されている。

 昼頃、今度は大島町8丁目の中国人宿舎に軍、警察、青年団が現れ、「金をもっているやつは国に帰してやるからついてこい」と言って174人を連れ出した。ところが、近くの空き地まで来ると突然、誰かが「地震だ、伏せろ」と叫んだ。中国人たちが地面に伏せると、今度は群衆がいっせいにこれに襲いかかったのである。

 「5、6名の兵士と数名の警官と多数の民衆とは、200人ばかりの支那人を包囲し、民衆は手に手に薪割り、とび口、竹やり、日本刀等をもって、片はしから支那人を虐殺し、中川水上署の巡査の如きも民衆と共に狂人の如くなってこの虐殺に加わっていた」

 付近に住む木戸四郎という人物が、事件から2ヵ月後の11月18日に、現地調査に来た牧師の丸山伝太郎らに語ったその時の光景である。

 さらに3時ごろ、先述の岩波少尉以下69名、三浦少尉以下11人の部隊が、人々が「約200人の鮮入団を連れて来て、その始末を協議中」のところへ現れ、これをすべて殺害したのである。この「鮮人団」の正体はもちろん中国人労働者である。

 8丁目の虐殺を最大として、この日、大島の各地で同様の事件が起こった。殺された中国人の数は300人以上と見られる。

 8丁目の虐殺の唯一の生存者である黄子連が10月に帰国し、この事実を中国のメディアに語った。これによりそれまで日本救援ムードが強かった中国の世論は一変。日本への抗議の声が沸騰した。
 郷里に帰った黄は、虐殺時に負傷した傷が化膿し、吐血するようになり、しだいに体を壊して2、3年後に亡くなった。
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