・・・九月の二六日にアランホエース離宮において、二四人の代議員が集合して中央国家評議会を結成した。・・・議長にフロリダブランカ伯爵・・・八〇歳の高齢者・・・。開明派はホベリャーノスによって代表されていた。けれどもこの後者もまた長きにわたる投獄と病気で弱っていて、状況に対応するカを失っていた。
・・・、まず彼らが議論をしたのは、この評議会がフェルナンド七世の名において召集されたものであるからには、評議会自体、”陛下(Su Majestad)”の位をもつものである。・・・そういう位をもつものとして国家の祭儀をとり行う、祭儀をとり行うについては、評議員たちの大礼服を制定しなければならぬ、議長は殿下と呼ばれる・・・。
・・・、その頃に各地に出はじめていたパンフレットや愛国的な芝居などに対して厳重な検閲を行う・・・、異端審問所に大審問官を置く・・・、バレンシアやアストゥーリアス地方では教会の土地を売って戦費にあてていたのであるが、そういうことは一切禁止する、契約を破棄せよ・・・、限嗣相続制は厳重に守る。・・・議員の年俸は一二万レアール(約三万ドル)とする。・・・
こういう指令をもって各地方へ下って行った使者は、いっぺんで人々の戦闘意欲を砕いてしまった。・・・ゲリラ戦の進行中に、各地方には古きスペインの政治伝統中の最良のものである、古スペインの直接民主主義が息を吹きかえしていたのである。・・・
なかでもホベリャーノスを首席とした委員会は、詩人キンターナを秘書としてスペインの革命的改革を実現しようとして懸命の努力をした。しかし、あまり効かなかった。後年カール・マルクスは書くであろう。
きわめてぶかっこうにつぎあわされきわめてよわよわしく組織され、そして頭にはもったいぶっただいじそうな遺物をいただくこの権力は、いまや革命を成就してナポレオンをうちやぶることをもとめられた。
革命的情勢のもとでは、軍隊の技倆が文治政府の真の性質を平常よりいっそうよく反映する。侵入者をスペインの国土から駆逐することを託された中央会議は、敵の武器のききめによってマドリードからセピーリァへ、セピーリァからカディスヘおわれ、そこで不名誉な最期をとげることになった。中央会議の支配は、不名誉な敗北の連続とスペイン軍の破滅、そして最後に正規戦闘の奇襲(ゲリラ)戦への解消をしめしている。
フランスの侵入当時のスペインの状態が、すでに革命的中心の形成に最大の困難な情勢を用意していたとすれば、中央会議を構成したことは、この国がおちいっていたおそるべき危機からのがれ出ることをまったく不可能にしたのである。
しかもここでマルクスの触れていない、スペインについてのもう一つの致命的な側面があった。
それは、かつてナポレオンによってパイヨンヌヘ召集された九一名の代議員がジョセフ・ボナパルトをホセ一世として承認をしたことは、それによって彼らがナポレオンの政治に仕えることを承認したことになることと同様に、アランホエースの二四名が、スペインの国民的、伝統的政治を継いで行くものであると宣言をすることは、他の側面において現実に、英国に頼り、英国の利害に奉仕するものとなることである。「フランスの無神論に攻撃されて、彼らはイギリスの新教のふところににげこんだのである。」マドリードにいた英国大使は、後のウェリントン公爵となるウェルズレイ将軍の兄、ウェルズレイ侯爵である。
ナポレオンが敗北することは、本質的に、また実質的に英国が勝つということなのである。そうしてスペインに残されるものは何か。
混乱、無政府状態、飢餓、それだけである。
ゴヤがあとにしたサラゴーサは、第二次包囲戦に備えて準備を進めていた。フランス軍の開城勧告に対してパラフォックスは、われに六万の兵あり、と言って勧告を蹴飛ばしている。この数に市民五万五〇〇〇を加えれば一一万五〇〇〇ということになる。パラフォックスの司令部には、三人のフランス人王党派の指揮官がいた。
一一月二三日に一事件が起った。一万三〇〇〇の兵を率いて外戦を挑んだカスターニォス将軍の軍が、前記エプロ河上流のトゥデラの町で、歴戦のフランス騎兵師団に、一気に蹴散らされてしまった。五、六〇〇〇の兵が殺され傷つけられて、三〇〇〇が捕虜になった。そうして残りは蒸発してしまった。
この蒸発した兵たちがアラゴンの山に入ってゲリラの、その端緒となったのである。・・・
ゴヤ『戦争の惨禍』16「彼らは自分で補給をする」1808-14
ゴヤ『戦争の惨禍』17「彼らは同意しない」1808-14
・・・フランス軍は一二月二〇日にサラゴーサ包囲を開始した。けれどもフランス軍のなかにも、様々な軋轢抗争があった。ゴヤが描いている『戦争の惨禍』第一七番の、「彼らは同意しない」という詞書をもつものは、ひょっとするとこのトゥデラ戦後の、ネー将軍とランヌ将軍との喧嘩沙汰を描いたものかもしれず、・・・。
・・・。そうして一六番の「彼らは自分で補給をする」という詞書のあるものは、大木の根本を背景にしてゲリラが死者の衣服を剥いでいる景である(フランス軍がゲリラの衣服を剥ぐ必要はない)が、前面に一入ゲリラらしいものの死体があるにしても、この場で裸にむかれている死者がフランス兵であることはたしかであろう。それにしては、「彼らは自分で補給をする」という詞書は、ゲリラに対して冷たすぎるか、皮肉が利きすぎていると思われる。もし彼がマドリードへの帰途にこうした光景を目撃したとすれば、その頃にはまだ彼にはゲリラ戦の意義がわかっていなかったものと推察せざるをえないであろう。
われわれはいまゴヤがどういう場所にいるのか、どちらの側にいるのかを特定出来ないのである。ひどく気負い込んでサラゴーサまで下って行ってみたものの、彼はおざなりなマリア・アグスティンの大砲を描いただけで、サラゴーサの第一次包囲戦についての作品を一つも残していない。・・・
あれだけ気負い込んで出掛けて行って、しかも何もしなかったとなれば、ゴヤの側において、あるいはパラフォックスの側において、何かの事があって仕事をしなかったと見るよりほかに見方も何もないということになりはしないだろうか。
はっきり言えることは、ゴヤがかかる状況のスペインにいた、ということと、首席宮廷画家のパスポートは敵味方双方に通用した、ということの二つだけである。そうしてもう一つ、つけ加えておかなければならぬことは、彼がこの独立戦争においてはじめて見られるような、一九世紀、二〇世紀の、ナショナリズムにもとづいた国民戦争の時代に育った人ではないということである。
彼は本質的に一八世紀人なのであって、一九世紀の現実ははじめは彼が強いられたものであった。前に彼は後向きで一九世紀へ入って行く、と言った所以である。強いられたものを、逆にテコにとって彼は創造をする、そういう芸術家に年経て変貌して行くのである。
一二月二九日、フランス包囲軍は軍使を域内のパラフォックスに送り、降伏開城を勧告した。この軍使が殺されなかったのは、前記のスペイン軍司令官中の王党派のフランス人の従弟であったからであろうと言われている。
降伏勧告は、言うまでもなく一蹴された。
かくて三カ月にわたる、怖るべき攻防戦が厳寒のサラゴーサに襲いかかる。
*
*
0 件のコメント:
コメントを投稿