2016年6月9日木曜日

堀田善衛『ゴヤ』(99)「フエンデトードス村・砂漠」(1) 「いまは一度、生れのフエンデトードス村に帰るべき時である。・・・、真暗なアラゴンの真の闇のなかに、”ありとあらゆる風の舞う”その虚無の風の音に聴き入るべきである。風の音くらいは、聴覚なしでも聞える筈である。」

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前回までの経緯
 1808年8月14日、フランス軍はサラゴーサから撤退し、61日間に亘る第一次サラゴーサ包囲戦は終結した。
 フランス軍の撤退後、サラゴーサ正規軍であるカスターニォス将軍とイギリスのパラフォックス将軍の軍隊が凱旋入場し、10月20日には、この両者の共催で勝利の大祝賀宴会が開催されることになった。
 首席宮廷画家たるゴヤはこの祝賀会に招待された。

 しかし、「この狂宴で、いったい全聾のゴヤはどういう面構えをしていたものであったろうか。」
「全聾の彼に、飲んで歌ってはしゃぎまわる酔いどれどもの顔とその表情が如何なるものとして映るか。パラフォックス将軍は三三歳の若造にすぎない。六二歳という年齢は大酒を飲んで暴れたり騒いだりする年ではない。」
「全聾の彼が白けた気特になって行ったとしても不思議はないであろう。・・・」
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「ドールス氏の如きは、ゴヤはアラゴン滞在中は、ほとんどの時日を生れの地のフエンデトードスですごした、とさえ言っているのである。」

 ゴヤがこの前にサラゴーサを訪れたのは、一七九〇年、妻のホセーファの転地療糞にアンダルシーアへ行ったときの、その帰途に寄ったものであった。
 すでに一八年の歳月が流れている。
一七九〇年と言えば、彼が宮廷画家に任命された翌年であり、友人サバテールに「私は幸福だ」と書き送ったり、また「ゴヤの金貨にカビが生えているという噂」について語ったりしていた。有頂天の頃である。・・・

 それから一八年、文字通り功成り名遂げて首席宮廷画家となり、途中で大病をし聾者となるという不幸はあったが、登り詰めるところまでは登り詰めたのである。
 しかし、登り詰めたところでの眺望は、何と荒涼たるものであったことか。眼に入って来るものは、緑どころか、赤茶けたカスティーリア、灰色のアラゴンの岩砂漠であり、アンダルシーアには苦い思い出しかない。宮廷画家とはいうものの、カルロス四世夫妻は、あたかも彼が描いた藁人形遊びの人形のように、ナポレオンというたった一人の男が四隅をもっ毛布で一、二度中空に放り上げられただけで、ポイとピレネー山脈の向う側へ放り出されてしまった。いまはいったい誰が主なのかもさだかではない。
 全スペインは砂漠である。その砂漠で、人々はいま大規模な人殺しに専念している。

 いまは一度、生れのフエンデトードス村に帰るべき時である。
 ・・・
 帰ってみても、餓鬼大将時代の友人も知り合いも、おそらく誰もいないであろう。平均寿命がやっと三〇歳から三五歳程度の時代である。
それでもいい、やはり帰って、真暗なアラゴンの真の闇のなかに、”ありとあらゆる風の舞う”その虚無の風の音に聴き入るべきである。風の音くらいは、聴覚なしでも聞える筈である。

 ゴヤは六二歳である。・・・
 時代の不幸中の一つの幸いとしては、彼の家庭にさしたる波風のなかったことであろう。妻のホセーファが、長年の疲労の堆積から病気がちなことを除けば。息子のハピエール夫妻には孫が生れて、マリアーノと名付けられた。一八〇九年に祖父はこの子の全身像を描いている。いつものように、幼児に寄せる彼の愛情は限りもない。自身の孫となればなおさらである。この孫も目鼻立ちは、父同様に祖父ゴヤのものではなく、ホセーファのそれであった。

 ゴヤが果してフエンデトードス村へ本当に行ったのかどうかも明らかでないとすれば、そこにどのくらい、そしていつまで滞在したものであるかなどということもわからない。けれども、この頃に彼がフエンデトードス村の教会にのこしてあった若描きを見て、
 - これをおれが描いたなんて言わんでくれよ。
と村の人々に言い、それに対する、おそらくは冗談めいた返答を付添いの人が手話でした、という挿話が伝えられている。・・・

 『戦争の惨禍』第44番「私がこれを見た」

『戦争の惨禍』第45番「これもまた」

 彼がもし一二月のはじめまでフエンデトードス村にいたとしたら、『戦争の惨禍』の第四四番の「私がこれを見た」、四五番「これもまた」と詞書されたものは、第二次サラゴーサ包囲戦に際して、フランス軍がこの村に近づいて来たときの、村人たちの不安動揺と避難の景であるかもしれない。
 それはしかし、スペインの各地で起っていたことであり、場所を特定する必要はなかった。

 この旅の往復の途上で、彼はこの版画集に描かれた惨禍の多くを、現実に「私がこれを見た」として見、かつ多くを伝聞したことに間違いはないであろう。一二月に入っての第二次サラゴーサ包囲戦は、アラゴンの人民に一層に苛酷な犠牲を強いるであろう。そうしてやはり一二月に入っての、皇帝ナポレオンじきじきのマドリード入城は、スペイン人民の全体に、一層みじめな挫折感を与えるであろう。

 ゴヤは最大限で一二月半ば、実際にはおそらく一一月の半ば頃にサラゴーサを去ってマドリードへ戻っている。一一月の二〇日には、すでにエプロ河の上流トゥデラの町で前哨戦があり、スペイン軍は大敗を喫している。

 一二月二三日、ゴヤはマドリードの他の二万八〇〇〇の家長とともに、ナポレオンに対して「愛と忠誠」を替っている。フランス軍占領下の、ゴヤの曖昧性と矛盾にみちた - と一応いまは言っておく - 行動については後に一章を設けて考えることにしたい。
ともあれ、このたびのサラゴーサ行が、彼にとっての最後のサラゴーサであり、フエンデトードス村であった。
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